今、NHK7時のニュースを見ていたら、・・・・・・雨が大量に降ったので、千葉県で、アンダーパスで、水につかった車がある・・・・・といいました。皆様は、なぜ、地下道をアンダーパスという英語で、NHKが、言うか、ご存じですか?
これも、私の鎌倉エージェント特に井上ひさしとの対立と、競争の結果です。
アンダーパスと言われても、英語のスペルを正しく頭に思い浮かべられる人が、いるでしょうか?
ただしくは、under path だと思います。th は日本語にはない音で、スで当てはめるのは、違うと思いますが、NHKアナが正しく、ティーエイチ発音をしたら、聞いている一般の日本人は、理解できないと思います。
普通英語とか、ドイツ語、フランス語などを使うのは、戦前、戦中の大学卒の人たちの気取った態度でした。特に帝大と呼ばれた大学での話です。インテリは、インテリゲンチュアから、短縮されて、日本語化してものでしょう。代表的な、言葉です。「デカンショ、デカンショーで、半年クーラーシー」という音頭は、デカルト、カント、ショーペンハウエルの三人を、縮めて、作った言葉を使っています。
しかし、抽象的表現ではない、【地下道】を英語で、言うのは、その種の伝統とも違う目的があるのです。だって、地下道という言いならわされた日本語があるのに、英語で、言うのは、気取っているというにしては、あまりにもばかばかしい姿勢です。
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これは、井上ひさしが、いまだ、生きているという証拠の一つであり、・・・・・私への競争心と、いじめ心・・・のミックス・・・・・の結果です。
そして、NHKが、如何に深く、鎌倉エージェントと私が呼んでいる二人の人物、伊藤玄二郎と、井上ひさしに支配をされているかを表しています。
特に【19の命というサイトが、長い間、NHKニュースない右側に、張り付けてあったのは、かえって、19人が死んでいない証拠だと、私は、考えております。やまゆり園事件は、一人も死んでいないのですよ。
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私は、1999年から、パソコンを使い始めました。それで、メルアドを利用して、友達にエッセーを、送り始めたのです。
その秋、ニューヨークの美大【Pratt Instlitute】にいたので、いろいろ、日本の友達に報告をすることがあり、それを、書き始めたのが、このブログの最初の形です。
その前年度はパリに行っていて、その時は、まだ、パソコンを使っていなかったので、手書きコピーで、三人だけに送っていました。1999年は、東芝ダイナブックのノートパソコンを持って行ったのです。美大大学院の友達は、みんな驚いてくれました。赤いプラスチックで、ひどく美しかったからです。その時代は、アメリカでは、まだ、白いブラウン管のパソコンの時代だったのです。大学院には、中央が塀で仕切られたアトリエを与えられるので、通路を含んで、だいたい4,5畳程度の空間に、パソコンと、制作スペースを作っていました。わたくしは、一学期だけだと、大学当局に、言ってあるので、その種のアトリエは、与えられず、工房で、パソコンを開いて入力していました。すると、それが、英語である場合は、後ろを通りがかった学生たちを驚愕させました。
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私は、2012年をピークとしてだんだん入力スピードが落ちているのですが、1967年から、IBMの電子タイプライターを使っていたので、すさまじいスピードで、入力できるのでした。アメリカには、タイプ学校などというものはない模様で、従って、キーボード入力を指一本で、する様な学生もいる中で、50過ぎのアジア人のおばさんが、ぴゃーっとものすごいスピードで、英語で、文章を、」書くものですから、驚かれて、そして尊敬をされました。だから、ニューヨーク滞在中は睡眠四時間で3日間、過ごして、四日目に、7時間寝て、また、四時間を三日続けるという形で、生活しました。アドレナリンが出ているのでしょうね。
そして、ニューヨークから帰ってくると、テンションがバク上がりに上がっているので、だれに対しても、臆することなく話しかけられるのでした。
ここで、田代人志という人物にひどいことをされたというエピソードをくわえたいところですが、今日は四時間しか寝ておらず、しかも午前一時半から起きているので、わきにそれず、本筋だけたどります。明日でも、行間を埋めるかもしれません。今は、ニューヨークの激しさを味わっていた2000年からは、24年も経ているし、自分が年を取ったので、4時間の睡眠では、アドレナリンが出るどころか、平均以下の労働しかできません。
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メルアド時代は、2008年までで、ブログを始めたら、AOLが「メルアドの方は、配信ができません」というのです。
で、メルアドの方をやめてしまったのですが、あのパソコン画面そのものが嘘だったと、今では思っています。だから、五回ぐらい繰り返せば、送ることができたはずです。騙されたのでした。今では、同じことが電話でも起きるので、しつこく、同じナンバーを入れてみたり主人のスマホを使ったりして、パソコンの故障へのある程度のサポートは、得られる様になりました。しかし、学友に電話をしようとすると軒並み、「この電話番号は、使われていません」と言われて、通じないのです。こういう事もすべて、警察が裏でやっているでしょうから、2024年8月2日に全財産を、たった4分間の間に盗まれたことをはじめとして、ひどいいじめ行為を受け続けているというわけです。それが、全部、安野智紗夫人が「お砂糖を貸してください」と言いに来た日に、断って以来、CIAの家来たる警察が、安野夫人の味方をしているので、この手の大泥棒も起きるわけで、しかも三回目ですから、私がご近所人間を実名で、あれこれ、書くのも致し方ないといえましょう。
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ところで、ここらあたりで、アンダーパス問題へ入ります。銀座7丁目にカフェパウリスタという伝統の長い、カフェがありました。今はないみたいです。7丁目の表通りも、ビルの建て替えが激しいですから。源吉兆案があるあたりの路面店だったという記憶があります。京橋の上島コーフィーから始まって、タレントまたは、プロダクションのマネージャーが、テレビプロデューサーと、打ち合わせをしている姿をよく見たものです。
で、私もある雑誌の編集長とそこで、打ち合わせをしたいとお願いして、見本の文章を一本読んでもらったのです。そのタイトルが、『鎌倉駅の地下道で』という物でした。わたくしはノートパソコンを60台近く壊されているのでその実物が、今は、有りません。
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だけど、記憶に頼って、再現をしていきます。概略です。本物は静かで、静かで、
かつ、暗喩的に、戦争反対を表明しているものです。ただし、今のような、ブログ文と違って、実名は登場せず、詩的な風情で、仕上げています。
・・・・・・ある日、私は、夜九時ごろ、鎌倉駅の地下道を、表駅側から裏駅に抜けていきました。当時は、西口側に、三つの銀行があり、そこに用事があったのです。で、5分後に帰って来て裏駅側から表駅へ向かって、通ろうとすると、トンネル全体に、女性の声が、響き渡っていることに、二度目として、気が付きました。
先程は、気にも留めなかったのに、二度目だから、「あれ、どうしたのだろう?」と、不思議に思いました。というのは、女性は、一人で壁に向かっているからでした。隣に家族とか、友人がいないのです。鎌倉駅の地下道には、南側の壁に展示用のショーウィンドーがあって、団体が申し込むと、貸してくれる形式だと思います。
中学校の美術の時間の制作結果とか、老人ホームのデコイ(鳥の木彫り)教室の作品展示とかは、ただ、見て、通るものです。でも、時々、字がびっしりと、埋まっている展示物もあります。彼女は、そういう「文字で、表現をされた展示物」を、読んでいるのですが、いちいち、音読なのでした。
このエッセイを書いた22年後の、今、【寅と翼】で余貴美子が、認知症になっているという設定で、登場しました。彼女の演技に、すさまじいリアリティがある・・・・・こんな端役に彼女を使っておかしいなあと、今まで、疑問がいっぱいだったが、24-9-3日の放映で、腑に落ちた・・・・・と、ネットで、大評判になっています。が、22年前の私も、最初は、そのご婦人が、認知症か、認知症に近いのではないかと思いました。
だって、隣に誰もいないから、音読して、伝えるべき人間がいないから、そう考えたのです。しかし、結構長い地下道を歩いてきて、彼女のすぐそばまで、来た時に、『あ、私の考えは間違っているわ。この人は認知症ではない』と、理解しました。どうしてかというと、彼女は、相当に上等なスーツを着ていたからです。若い人向けのスーツを売っているチェーン店で買った様な固い感じの黒のスーツではなくて、柔らかい色と、織のウールでできたスーツです。足元はそれこそ、銀座で買ったであろう、上等なヒール付きの靴です。眼鏡をかけている。だけど、背中がしゃんとしている。日常生活が、立派な女性だと、思われました。ただ、バッグ類を持っていないのです。
ハンドバッグを持っておらず、肩に下げる、ショルダーバッグも持っておらず、もちろんスーパーで買い物をした結果である、レジ袋も、持っていませんでした。彼女はしゃんとして壁に向かい、文字を音読しているのです。
この人は、この展示物を読むだけが目的で、家を出てきた、鎌倉の住人なのだ。10年前まではどこか、きちんとしたところ、横浜・関内か、東京・丸の内あたりで、働いてきた人なのだ。家族が、昔は、親や、兄弟が、一緒に、いたかもしれないが、今は、一人暮らしであろう。もし家族がいたら、家で、一緒にテレビでも見ている時間であり、絶対に鎌倉市街に出てきている筈はない。
でも、これほど、きちんとした格好で、家を出てきて、鎌倉駅の地下道の展示物を、声を出して読んでいる。それは、不思議だ。背が高いので、よいおうちのお嬢様だと、推察された。2002年ごろ、70歳以上という事は、戦時中や、戦後、世の中に食べ物が少ない時代に女学校時代を過ごしているので、上流階級のお嬢様なのだ。だけど、なぜ、人通りの少ない時間帯に、家を出てきて、この展示物を声を出して読んでいるのだ? なぜ、なぜ? 認知症でもないのに。・・・・・と思っているうちに、そうか、この人は、
昔の婚約者に、向かって、展示物の内容を、説明をしているのだ・・・・・きっとそうだ。年金は、高額出ていると思われるが、すでに、70歳を超えていると、お出かけをする体力もお金もない。いや、あるかもしれないけれど、一人暮らしだと、心配がいっぱいあって、お金を使わないで、生活をしているのだ。真面目そうな、この人にとって、最近の、テレビの番組など、ついて行かれないのだ。それに、地デジ化などしてしまって、その変化にどう対応してよいかを教えてくれる、子供がいない。で、映らなくなった、テレビは、そのままにしておいて、情報は、新聞などで、得ていると仮定すると、このショーウィンドーの展示物は、とても、意味のある見ものとなっている可能性があった。真面目でまっすぐな彼女にとって、ここの展示物の内容は、心と頭脳に訴えるものになっている可能性があった。で、彼女は、それを熟読玩味、したくて、人通りが途絶える、夜に、ここにやってくる。
そして、その内容を戦死した婚約者と、分かち合いたくて、音読をしているのだ。天国にいる婚約者に聞かせたいと思って、大きな声で、音読をしているのだ。
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という文章でした。是の良いところは、私が、その老婦人に同情をしているところです。「変な人」と思って、単純に、通りぬいたわけではなくて、深く、同情したのです。
でも、かの女の一人暮らしは、幸せなものでしょう。寂しいけれど、戦後57年間、彼女はある一人の男性を慕い続けて生きてきたのです。
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いまだ、生きている井上ひさしは、私のエッセイの出来の良いものを選んで、それを潰そうとしています。なびす画廊で、必ず、新聞の切り抜きが張ってあった三田晴夫さんは、電車の中で、ほかの乗客から、ひどくからまれて、つい殴ってしまい、毎日新聞をやめることとなり、現代アート会に大きな損失を与えました。
そして、三田晴夫さんのwikipedia が、立っておらず、同姓同名の、音楽評論家が、顔写真や、猫写真を、掲げて、google 検索頁を占めています。これは、私のペンネーム、雨宮舜ととても良く似ている漫画家雨宮舜青を、google 検索では、私より、目立つように置いた、ケースとそっくりです。
この雨宮舜青というのは、実際には、存在しておらず、既存の漫画家、または、アニメーターに、イラスト数作品を提供させ、ネットに載せていると思いますが、その絵が、青系統の絵の具だけで、できている、ぞっとするほどに気味悪いものでした。
だから、私のブログを読んでいる方が別の人に紹介してくださっても、雨宮舜青が先に出てくるので、何、これ、気味が悪いとなって、紹介してくれた友達が嘘を言っていると考えた節はあるのです。
こういうのも、私の被害の一つです。そして、アンダーパスなんて言われても、現在80歳以上で、英語を覚えていない人には何の事だか、わからないと思いますよ。NHKは、税金に等しい視聴料をとっているのに、ただ、ただ、鎌倉エージェント(=CIAエージェント)にこびへつらって、日本国民全体の事は、考えていないのでした。
この文章の良いところは、技術云々ではありません。書く際の、心構えがよかったのです。そういう文章は、いつもできるわけではありません。これは、私のエッセイの中でも、数百本に一本の出来にあたるものでした。
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千葉県内 市原市などで「住宅浸水」や「道路冠水」の被害
湿った空気の影響で、千葉県では、3日朝、雨が強まり、市原市などでは住宅の浸水や道路の冠水の被害が出ています。
千葉県には、3日朝、発達した雨雲がかかり、県が市原市に設置した雨量計で午前7時までの1時間に85ミリの猛烈な雨を観測したほか、佐倉市では午前7時半すぎまでの1時間に53ミリの非常に激しい雨が降るなど各地で大雨となりました。
消防によりますと、市原市では、これまでに八幡地区や五井地区などで床上浸水が3棟、床下浸水が14棟、確認されたほか、市内12か所で道路の冠水が起きました。
このうち五井地区の国道では、アンダーパスが、3日朝から数時間にわたって冠水し、車が水につかる被害が出ました。
当時の状況を見ていた男性は「水が車の窓ガラスまで来ている状況で車2台が動けなくなっていた。人の手で押したりレッカー車で移動させた」と話していました。