銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

岸田淳平夫人の癌による逝去は、私に責任があるのか?、それとも前田清子+安野智紗に在るのか?

2022-11-26 21:09:43 | 政治

 これは、ジンジャーと曼殊沙華の4と、なります。総タイトルの字数が多いので、シリーズを象徴する名前を、取り去って、書き続けましょう。

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副題1、『その土建業者が、何年に、お屋敷を買い、何年に売り払ったかを、確認すれば、山間の煙というエッセーで、書き表した事件が起きた時期が大体、判るのだが。尚、そのお屋敷は、今では、鶴岡八幡宮の所有物件となり、鶯吟亭と呼ばれ、結婚式関連のお客が使うお屋敷となっている』

 前報の後半で、岸田淳平夫人が、癌にり患をして、亡くなったことに少し触れ始めています。そこは、まだ、まだ、加筆をしたいところです。だが、長時間、このブログを書くことをやらないで、間を開けたのは、自分の精神状態が、非常に落ち着いていて、別に急いで、それを書かないでもよいと、判断をしていたからでした。

 一方で、肉体の方は、敵さんの攻撃==兵糧攻めにして殺そう==への防衛のために、重労働続きで、疲労困憊という状態になっていたので、肉体の回復を待っていたのです。

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副題2、『岸田淳平家には、ブーニンと名付けられた美猫がいた。その猫が、異様に寂しがっていた時期があり、その時期こそ、後で、思うと、岸田淳平家の奥様が、癌の末期で、入院していた時期と重なると、思う』

 私は、二冊目の本『れすとらん・ろしなんて』の中で、岸田淳平家の美猫ブーニンが、毎日、我が家の門柱の上で、座って待っていて、我が家の息子が、その顎を撫でて、出勤するのが、習慣になっていると、言うエッセイを書いて居る。ある日、息子が、泊りがけの出張に行っていて、朝、この家からは出勤をしないことがあった。その日に、息子が言っていた、岸田家の猫がどうなっているだろうか? と、玄関を開けて、道がカーブしているので、曲がって行って玄関からは見えない10mぐらい下の門柱を、見ると、確かに、その猫は、待っていたのだった。

 こういう状況こそ、岸田淳平夫人が、入院していた時期だと、推察される。すでに、お子さん方は、独立して家を出ていたので、妻の見舞いをしている淳平氏が、毎夜は、雪の下には帰らず、私がその存在を推察しているアトリエ(大船あたりにあるのかな?)で、泊まることもあり、三日に一回帰宅をして、カリカリを置き、飲み水を取り換えるなどと、言う作業をしていたか? または、鎌倉在住だと、聞いている次男殿が、猫の面倒を見に来ていたのか? ともかく、ご夫妻が不在だったのだ。

 あの家は、ご夫婦仲が、大変良い。で、家族の間の愛情の交換も、しっかりしている。というのも末っ子さんの性格が大変良いのだ。子供を見れば親が判ると言う。で、あの家には、愛情の交流があり、それが猫にも注がれていたと、推察する。だからこそ、猫は家族の不在の寂しさに耐えられなかったのだろう。

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副題3、『ここで、その人物が、犬派か?、猫派であるか?が大問題となって来る。どうしてかというと、ジンジャーと曼殊沙華というシリーズタイトルに象徴をされている様に、このシリーズは、岸田淳平家の北隣に住む大原光孝という画家へも、言及しないといけないからだ。そちらでは曼殊沙華が、キーアイテムとなり、岸田淳平家では、ジンジャーがキーアイテムとなっている。しかし、曼殊沙華の攻防と、ジンジャーの100%の伐採は、連動している様にも思われ、そうなると、このシリーズは、深い深い政治論と成って行くのだった。特にご近所問題ではなくなるからだ。その二つが連動をしているとすると、これは、伊藤玄二郎ら=鎌倉エージェント(=CIA)の仕業であり、非常に事が大きくなるからだ』

 岸田淳平家は、大型リフォームをする際に、南側に住む石川和子さんとの接触は避けました。しかし、北側に住む大原光孝さんの事は、信頼していたみたいです。そちらに開口部や、家族が、長時間滞在する居間などを設置しています。

 それは、どうしてかというと、お母さんの閑子さんが、上品で、素敵だから、それもあったと思います。で、息子の光孝さんも上品でした。で、15年ぐらい和気あいあいと、暮らしてきたのです。

 しかし、2000年の初夏、旧神奈川県立美術館本館二階の、喫茶店で、ニューヨーク時代の、版画の講評をしてもらっていた時に、「恵美子(奥さん)が、<川崎さんと付き合うな>っていうのですよ。<カワサキさんって、あなたが思っている様な人ではない。あなたの手におえる人ではないから>というのですよ」

 その時、恵美子さんの後ろには酒井忠康氏か、佐野ぬいさんがいると、考えました。だけど、それは彼には、言っていません。ところが、2004年か、2005年のある夜9時ごろに、私が、新橋の、ハナマサで、ワインを2本買って帰ったところ、石段の割れ目のせいで、赤の方が、志一稲荷の上の方で、割れたのです。その時彼が追い抜きざまに、「川崎さん、ワインが割れて惜しかったねえ」といったのです。

 私は、ものすごくプライドが高いから、五歳も年上の、この身に、若い彼が、そんな下卑た捨て台詞を浴びることなど許せないのです。でね。当時すでに、相当数の読者を獲得していたメルマガの下書きで、入力しました。当時は、今より元気だったので、長文です。ただ、名前は伏せました。でもね、一時期仲良しだったわけなので、次の日に電話で、「大原さん、あなたが、昨日の夜なさったことって、文章に表すと、ひどい事なのですよ」と言ったのです。

 この時点で、酒井忠康 → 柄沢斉 彼という流れで、CIAの攻撃用弾頭と化していたので、こういうひどい捨て台詞も言うのだったし、また、私が、ものを書く人間だと、言う事をも知っていたと思います。でも、まるで、恐れていませんでした。というのも対抗的存在として、柄沢斉が、輪舞などを書き始めていたし、その出版先も、決まっていたでしょうし、日経新聞が大個展を準備していることも知っていたから、私の事を屁でもないと思っていたのだと思います。「いいですよ」と言いました。
 その時に、判っていたことは、彼本人は大変貧乏であること。 それは、奥様に言わせると繊細なので、宮仕えができないという形で、給料が無いし(その後、厚生年金も出ていないと、推察される)らしいが、その繊細という部分が、嘘であると言う事。彼は、繊細でも何でもない、普通の人間だ。が、家庭内に大きな緊張があるので、外へ、勤めに出るなどという心理的な、余裕がない事。奥さんは、彼を愛していない事。家庭内の話題が、ご近所の噂話だけだと言う事。彼が、描く油絵が、テクニック重視であり(技術については、最上等な人物だが)、情感とか、哲学を表現しているものではない事。などなどが、判っていて、それを内包した文章を書きました。私のパソコンは、ハッキングを受けているので、これがすぐプリントアウトをされて、彼の手に渡った模様です。
 その後の、20年間にさらにとんでもないことが重なって、曼殊沙華の攻防へと、いたるわけですが、この時点で、大原光孝さんについて、書いたポイントは、すべて、南隣の岸田淳平さんとは、正反対なのです。その後、20年間、彼は、攻撃者であり続け、今、曼殊沙華の攻防という地点に至っているのですが、
 私は、彼が、どんなひどいことをしても、全く驚かないのですよ。それは、どうしてかというと、ある時点で、彼が、私に対して、こういったからです。
「僕は、猫は、だめなんです」と。大体、創作をする人は猫派です。というのも、犬はまとわりついて来て、飼い主の愛情を四六時中求めるので、仕事ができないからです。猫だと、飼い主が、忙しそうにしている時は、じっと待っていてくれます。ただし、新聞を読むなどと言う事は、「これは、仕事ではないね」と、思っているので、すぐ邪魔をしてきますが、パソコンに向かっている間は、何も求めないで、待っていてくれます。飼い主が、やっている仕事の、内容とか、深さが判っているのです。
大体、創作をする人は猫派です。というのも、犬はまとわりついて来て、飼い主の愛情を四六時中求めるので、仕事ができないからです。猫だと、飼い主が、忙しそうにしている時は、じっと待っていてくれます。ただし、新聞を読むなどと言う事は、「これは、仕事ではないね」と、思っているので、すぐ邪魔をしてきますが、パソコンに向かっている間は、何も求めないで、待っていてくれます。飼い主が、やっている仕事の、内容とか、深さが判っているのです。

@@@@@ここが、書きかけ中の最先端です。以下はメモです。本日は、すでに午前三時なので、就寝します。

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副題4、『彼が養子であることは、その時点では知らなかった。だが、スポイルド・チャイルドの典型だとは、書いた。ところで、富沢夫人が、大原さんって、養子なのよと、教えてくれたのだけれど、養子なら尚の事、養父母を敬って他人には、言うべきではないと、言う事を二つ聴いている。

 それは、リフォームの際に、「母親が、紙袋(洋服やさんなどで、買った洋服を入れてくれるもの)を大量に保存していて、始末に困ったのですよ」というのです。(ばかばかしい傾向ですよね)という表情を浮かべながらね。その時は、実母の愚痴だと思っていたので、笑ってやり過ごしたのですが、

 「父が吉原で、開業していたのです」というのは、「良くないなあ。どうして、そういうことを言うのだろう?」と、思いました。だって、吉原で開業していた医者となると、どうしても、性病を診たと推察されます。伝染性の病気というのは、ひどく嫌われます。お嬢さんが、結婚前なのに、どうして、こういうことを言うのだろうと、不思議極まりなかったです。無論彼にしてみれば、「今は、父は、死んでいて、吉原の医院は、閉鎖しているのだから、遠い昔の事であって、梅毒菌などは、僕の周辺には、存在していないのだから、平気」と、言うのでしょうね。

 私は山本容子に関しても「ホックニーの真似だ」とか、平山郁夫に関しても、「部分的に奥さんの代筆である」とか、聞かされました。でね、どうしてこうなるのだと、考え抜いて、やがて分かったのです。彼には、社会的経験というのが、あまりにも乏しいのですね。したがって話題が無い。でも、夕食時、黙っていると、お姑さんと、お嫁さんの間に、緊張関係が生まれてしまう。で、手っ取り早く、話すことが出来て、かつ刺激に満ちていることとして、ご近所の悪口などを家庭内で、言う様になったと。しかし、私にものをいう場合、ご近所の悪口は言えません。で、両親とか、酒井先生からの、柄沢斉を通じての、受け売りを、
 岸田淳平夫人が、その癌闘病の末に、亡くなった後で、

・・・・・・彼女は、川崎千恵子によって殺されたのよと、言う・うわさ・が、この山のご近所主婦の間で、合意的に、流されている・・・・・と、感じているから、大問題だった。しかし、20年以上私は、その件で、ひとと争う事はしなかった。じっと我慢の、日々だった。だが、ここへきて、それを書くきっかけが生まれたのだ。それが、この夏、見事に咲いたジンジャーだった。

 

 そのころ、岸田家の美猫ブーニンは、北隣の、藤本悌子夫人宅をも毎日訪問をし続けていて「開けて、開けて」と、言っていた。なんと天窓まで、上って、開けて、開けてと、言っていた。すると、藤本夫人は、掃き出し窓を開けて、煮干しを五、六本与えて返していたのだった。

 藤本夫人は、私が引っ越してきたころ、村八分の対象になっていて、みんなから大悪口を言われていた。で、それが、我が家の土地が盗まれる決定的な、事件(アジサイ畑欺罔事件)の始まりだったのだが、「特に前田清子さんが、意地悪で、目を吊り上げてにらむのよ」と、私に嘆いていた。彼女は、「でもね、岸田淳平さんだけは挨拶をしてくれるのよ」と、言っていた。そのころ、私は、岸田淳平(ペンネーム)の顔を知らず、したがって、本名で、この雪の下二丁目で、暮らしている彼が、ひとかどの、創作者であることを知らなかったが、

 この山の安野智紗夫人を頂点とするたこべや的、異様なヒエラーキー形成と、それに、前田清子さんが、過剰に奉仕しているのには、気が付いていて、後刻、「岸田淳平が、この山では、もっとも教養が高いのだ」と、メルマガと、ブログで、繰り返し書くこととなる。

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副題2、『この山の人間は誰もが平気でうそをつく。その例を、ここで、羅列して置きたい』

 一方で、岸田淳平家に、大金(現在の貨幣価値に直すと、三億円ぐらい)が入って、あの家を大規模リフォームをした時に、南側に、家を拡幅して、しかも、台所とかお風呂とかを配置していて、北側に、居間などの、長時間、ひとが滞在をする部屋を配置しているのに気が付いて、

 彼の南側に、住んでいる石川和子さんが、一種のごろつきであることには、以前から、私は、気が付いていたのだったが、岸田淳平も気が付いていると、確信をした。石川和子さんは、他の人間にも恫喝をしたと、聞いている。藤本夫人が、どんなに、なつかれても、美猫ブーニンを家に入れなかったのに、石川和子さんが、我が家の猫さびちゃんを、家に、毎日いれてしまって、警察を巻き込む大トラブルに発展したのは、何度も書いて居る通りだ。

 私が警察を呼んだのではない。盗んでいる彼女の方が、警官を呼んだのだった。ばかばかしい逆転現象で、あるが、原因は、私の猫が彼女を嫌って、私を選んだことに腹を立てて、私をいじめるために、警官を呼んだのだから、どれほどに、わがままで、嫌な人間だか、語るまでもないことだった。

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副題3、『この山で、私が見聞したウソ第一号は、我が家には、お砂糖がありません。だから、貸してくださいと、言う、訪問客の言葉だった』

 この山の住人は、誰もが平気でうそをつくのだが、一番最初に気が付いたのは、全く付き合っていない安野智紗夫人が、玄関のベルを押して、訪問をしてきて「子供(中学二年生である)に、友達が来たので、お紅茶を出したいのです。お砂糖が無かったので、お砂糖を貸してください」と言ったときだった。いかにも子供を大切にしているみたいだが、違う。本当の子供ではないのに、三人の子供がいると言う事が、彼女の他者に勝てるステータスシンボルであり、そこを勝利ポイントだと意識しているので、「如何にも子供を大切にしています」と言いたい風情で、訪問をしてきたのだった。

 私は嘘や小細工が大っ嫌いで、・・・・ああ、前から、気が付いていたが、彼女は略奪婚の人で、彼女が、勝利して、三人の子供と、その父親を奪った相手の女性は、その敗北に悲しんで、すでに死んでいるのだと、確信をした。というのも高三、高一、中二と三人のお子さんがいて、順調に育ててくれば、こんなことで、全く付き合っていない家を訪問をしたら、他人からバカにされると、言う事を熟知しているはずなのだから。それを、まったく、知らない模様だったからだ。

 だって、お砂糖など、歩いて駅前まで行けば、すぐ、買えるし、賢夫人を気取っている彼女が、我が家には、六種類ぐらい置いてある、お砂糖を、一種類も用意していないというのは、ありえない嘘だったからだ。
もう一つ、別の目的があることが見え見えだった。その上、子供たちがしーんとして声も上げない様子だったからだ。母親を恐れおののいていると言う事が明瞭にわかった。

 彼女が、我が家を訪問をしてきた本当の目的は、「二人の間柄を、お砂糖を貸し借りできるぐらいの、気さくなものにしましょうよ。そして、私が主催する井戸端会議に出ていらっしゃいよ」と、言いたかったのだと、思う。私は、もともと、こちら雪の下では、主婦同士の付き合いをするつもりがなかった。創作をする、一種の仕事人化するのが目的で、二人の子供がすでに、中学生になっており、子供の友人作りを母親が手伝う年齢でもないので、誰とも、付き合うつもりが無いから、安野夫人が毎日午後井戸端会議を開いているのは、知っていたが、参加する意思は、毛頭、無かった。それが、彼女には、気に入らないのだった。

 どうしてかというと、条件が似ている主婦たち(この場合は、専業主婦であり、子供が、中学生ぐらいで、年齢が、40代であるというくくりとなるが)が、全員参加しないと、その井戸端会議が持つ、束縛力が衰えてしまうからだった。彼女は、自宅前(それは隘路の、首の部分にあたり、誰もがそこを通らないと、駅前まで、行かれない場所で)で、井戸端会議を開くのは、中ボス(または、裏番長)として、他の住民を支配するのが目的だった。目の前にいる女性たちだったら、誰が相手でも、自分が上に立てないと、気が済まない性格の模様だったし。そのための情報収集の場として井戸端会議が機能をしていたのだ。

ところで、ここで、一時間ほど、このパソコンから、離れます。ご容赦くださいませ。

 これから先、私が書く予定の項目は、

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