*1、・・・・・NHKアーカイブスを録画しておいたものを今、これを書きながら聞いています。タイトルは、『昭和歌謡黄金時代、・・・・・春日八郎と、三橋美智也』、というもので、5月12日の午後四時から放映されたものです。不思議な事に珍しく新聞のラテ欄を見て、気が付いて、録画しておきました。・・・・・
私はお歌が大好きなのです。それも、楽譜で勉強するのが。楽譜は読めます。それと、30代はピアノで、和音が、左手で、自由に使えました。今はぜんぜん駄目ですが。最も熱心に勉強していた頃は、林隆三さんよりだいぶ下手だけれど、とても似た感じで、お歌を歌っていたのです。林さんも、ピアノ伴奏は独学らしいのですが、国分太一君も独学らしいのですね。そう言う人は演奏家(特にピアニストとか歌手)としては、プロとして認められては居ないみたいですが、心から音楽を楽しんでいるし、それが顔に出ています。
私も、お歌の伴奏だけは、独学で、徹底的に自由に、自分で作っちゃう方です。正式な伴奏楽譜が、フォークソングとか歌謡曲では、手に入らないということもあるけれど、正式な伴奏楽譜どおりに弾くほど、力量が高くないからです。音楽は純粋に楽しみだけなので、苦労をしてまで、伴奏を、マスターしようとは思っておりません。
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*2、・・・・・親戚の人に、「え、ちっチャンって、歌謡曲を聞くの?」と、ひどく驚かれたことはあるのですが、昭和30年代は、テレビで、歌謡曲番組を視て、聴いていました。ちなみにその親戚の人とは東大卒です。・・・・・・
上で、歌謡曲をテレビで聞いたといっていますが、それは、高校時代までで、それ以降は、お歌のテレビ番組を見ている暇はなくて、よそから、歌が入ってくるのは、ショッピングタウンで、バッググラウンドミュージックとして聞くとか言う形で、歌を覚えたり、親戚の人がくれる試聴版のレコードで覚えたりしたものです。私は中一の夏休みに、クラシックを聞いて好きな曲の感想文を書いてきなさいという宿題が出ましたので、ラジオにしがみついて聞きまくりましたが、それ以外には、ラジオは聞かない主義です。
でも、楽譜を買う事は、大好きで、めちゃくちゃなレベルで、楽譜を探しました。映画音楽、オペラアリア等、等。そして、歌謡曲やポピュラーなら全音という出版社から、厚手の本で、500曲ほど、収録されている楽譜が、あるのに気がつき、それが、一番、自分には合うとも、気がつき、それを、何度も練習したものです。
でも、70歳をすぎた頃、自分はもう、お歌の勉強しないと決め、お若い人にそれをあげました。ラシャ紙の赤(歌謡曲)と青(フォークソング)の表紙で、それが手触りもよく、愛用をしましたが。
そして歌謡曲を、明治時代の祇園小唄から順に、500曲ほど、練習して行って、自分で歌うとして、一番すきなのは、春日八郎の、『長崎の女だ』と、気が付きました。
フォークソングでは、五輪真弓の、『空よ』です。しかし、フォークソングを、私が歌っても何の味も出ないのです。それは、声の質が、あまりにも素直すぎるのと、フォークソングは、歌そのものが、シンプルなので、シンプルの二乗では、面白いものが、何も表れないのですね。
複雑な歌を歌ってこそ、私のシンプルな声が、意外性を持って来て、生きるのでした。でも、あまり複雑な歌、たとえば襟裳岬(これは、歌謡曲ではなくて、フォークの範疇に入っています)なども、かえって難しくて、歌えないのです。
襟裳岬をマスターするぐらいなら、プッチーニのオペラ、トゥランドットから、『誰も寝てはならぬ』(テノールのお歌だが)を、マスターする方がやさしいと思うほど、森進一の歌は、難しいのでした。
ちなみに、春日八郎の、長崎の女は、ハ長調です。ハ長調はどこか明るいのです。で、ハ長調の歌謡曲は極めて珍しいです。
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*3、・・・・・銀座のホテル西洋が、閉鎖になって、その入り口のカフェが、星野リゾートのオフィスになっているが・・・・・・
私は、画廊めぐりを、仕事みたいに、熱心にやっている人間ですが、銀座と京橋の境に高速道路があって、それに沿った細いビルで、堤(兄)さんが、ホテル西洋を開いていました。中には、一度も入った事がないのですが、映画館か、劇場も備えていたと思います。スターの出待ちの列に出会った事があります。
その入り口の、カフェがあった場所が、星野リゾートという看板に変更になっています。BSジャパンの番組か、テレビ東京の番組か、NHKの番組かは忘れましたが、経済番組の中で、社長がよく取り上げられているところです。意欲的な社長というところです。
その星野リゾートは、経営不振に陥った、ホテルの、経営に乗り出して、再生しているという事でも有名らしいのです。で、弟が、その旧名・猫魔ホテルへのドライブ旅行へ誘ってくれました。彼は、このホテルには、旧経営者時代を含めて、三回か、四回来ているそうです。その上、今回は、福島県内のあっちこっちで、四泊したらしいのですが、私たち夫婦の方は、猫が心配なので、一泊だけです。
星野リゾートは、お客様のニーズをよく研究していると見えて、なかなかのおもてなし精神を発揮していました。バイキングが『東北料理50種類』というのでした。馬刺しを、初めて食べました。私が特においしいと感じたのは、蕗のトウを原材料とした、蕗ミソです。それから、お漬物の種類が多くて、おいしくて、それが、東北の文化であるとは感じました。
弟が、「お姉さんは、あれだけ飲んでも、けろっとしているので、強いね」と後で主人に言ったそうですが、ビールを中ジョッキいっぱい、ワインをグラスいっぱいと、日本酒を、お猪口いっぱいのミックスを呑みました。それぐらいでは、その夜は酔いませんでした。しかし、次の日にドライブ中に、気持が悪くなったので、これは、一種の二日酔いだったかな?。特に、毎晩呑むわけではないので、効いたのかもしれません。
4月7日の交通事故以来、傷を早く治したいので、お酒は、一切飲みませんでした。13日の夜は、一ヶ月たっているので、縫わなかった傷も、完璧に皮膚が引っ付いて、治っているので、呑んだのです。
一番、『これは、他のホテルとは、違うなあ』と思ったのは、映画類を見られない事と、ジュースの自動販売機が、目に付く場所には、置いていなかった事です。これは、健全性を売りにするに、結構な方針でしょう。ただし、パブリックのパソコンも無かったのでした。しかも貸しパソコンもない。自分の、パソコンは持って行って置いたので、それは、正解でした。ただ、持参のワイファイが効かなかったので、ロビーで、ブログの推敲やら、加筆をしないとならず、それは、また、小さな怒りを呼んだ事でした。
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*4、・・・・・カラオケを私は嫌いなのです。が、星野リゾート、裏磐梯ホテルには、カラオケルームはなくて、代わりに歌声喫茶があり・・・・・
私は、カラオケは嫌いなのです。これは、気取って言うのではなくて、それが、生まれる前に楽譜で、お歌をマスターしているので、それ以降に世の中に出てきた<機械に、支配されるという事>が、どうしても、なじめないのです。で、カラオケと言うのは、ほとんどやった事がないです。
ただね、APECが横浜で開かれていた頃、母が死亡して、その関係で、横浜・関内にどうしても、夜に、行かざるを得ない事があって、そこに、フォーク酒場があるので、一回入った事があるのです。夜だと、開いているからです。その時に、『日本人って、なんて、善男善女が多いのだろう』と思いました。
知らない人同士でも、お互いに、思いやりあって、順番を譲り合ったりして、本当に気持の良い場所でした。金銭的にも高くないです。女性は飲み物と、ひと皿の酒の肴をとって、だいたい3500円ぐらいで、ひと晩過ごせます。男性は女性側(それが、知らない人にでも)におごるという事で、5000円ぐらい使うらしい。『あなたには、この歌がいいのではないですか?」とフォーク酒場初心者である私に勧めてくれる人が居たりして、私は小坂明子の「もしも、わたしが、家を建てたなら・・・・・』という高音域の歌を歌わせていただきました。夜の10時からは、ボトルキープならぬ、エレキギター・キープの元プロらしい、おじさんたちが、集合してきて(私はテレビも視ないし、ライブにも行かないので、その人たちの名前を知らなかったが、多分、有名人です)、それ以降は、私は帰りましたけれど・・・・・
それもはやっているのですが、歌声喫茶と言うのが、今、また、復活して、はやっているのも知っていて、『それも、きっと、善男善女の集まりだろう』と思いながら、実際には、行った事がありません。
ところが星野リゾートには歌声喫茶と言うのがあるのです。で、私が行ってみたいというと、弟と、主人は「僕達は星を見に行くから」といって、付き合ってくれないので、ひとりで行ってみました。
そこでは、リーダーが居て、その指導の下で、カラオケの機械を使って、みんなが斉唱をするのでした。合唱ではないです。フォーク酒場より、ずっと、単純な形で、個性は発揮できないものでした。でも、そこに居るのは、上品で、優しい感じの人ばかりでした。日本人には善男善女が多いという実感は、ここでも、確認できました。
合唱の経験があるか、歌う事が好きで、かつ自慢をできるほど、上手な人が多かったです。そして、シルバーか、プラチナ世代と思われる人ばっかりでした。お若い方には申し訳ないが、今のシルバー世代は安定していて恵まれている人が多い模様です。
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副題5、・・・・・やがて、リクエストタイムに成り、私は最後の人として、『遥かな友に(磯部俶作曲)』をリクエストした・・・・・・
歌詞カードを入れたファイルを渡されるのです。最初は順番どおりに歌って行ったのですが、途中から、リクエストタイムになりました。
一人ひとりに独唱はさせない歌声喫茶というシステムは、フォーク酒場に比べると、ライオンと羊ほどの差があるが、・・・・・と思いながら、でも、若い日に、PTAの会長として、出席者にサービスをしなければならなかったほどの任務もなく、また、国展のパーティで、美大卒ではなくて、友達が居ないので、存在感を示すために、いつもお歌を歌っていた頃の気張りもなく、ゆったりと、例のお母さんムードで、後ろに控えていたのです。
が、18曲の歌詞カードの中にある『遥かな友に』を誰もリクエストをしないのに驚いて、最後の人として、それをリクエストしました。そこに、18曲の歌詞カードが入っていたのですが、メロディとしては、最も美しい曲が、その歌だと私は判断をしています。
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ここで、次の日の挿入として入れます。wikipedia に拠ると、作曲者の磯部としさんが、早稲田のグリークラブの指導者だった時に、津久井に全員で、合宿に出かけたそうです。その時に学生達がなかなか、寝ないので(そりゃあ、そうでしょう。若い人たちって、そう言うものです)鎮めるために、即興でおつくりになった曲なんですって。
なるほど、なるほどと、思います。歌詞の中に、呼びかける言葉として、「おまえ」とあって、『奥様(または、恋人時代の奥様)を思い出して、使う言葉にしては、変だなあ』と、長らく思っていました。奥様は音楽家なので、お前と呼ぶより、あなたと呼ぶ方が似つかわしいのです。が、年下の学生達に呼びかけるのなら、当時は適切な言葉だったのでしょう。
まあ、奥様を親しみをこめてお前と、及びになったのかもしれないけれど。ともかく、即興に作ったから短い曲ですが、言葉と、メロディが見事に、合致した良い曲です。
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作曲者の磯部俶先生は、その形骸に接しています。実は磯部先生の奥様(=和<かず>先生)の指導する合唱団に入っていたのです。1998年に、パリへ行かれる事が解って、美術一本やりで、進もうと考えて、そこをやめたのですが、ちょうどその年に俶(とし)先生は、亡くなったのでした。
で、それ以前、私の在団中は、ご主人の指導する合唱団(=早稲田の何とかかんとか言う合唱団のOB団体)と一緒に、墨田トリフォニーホールで、演奏会をした事もあります。そう言う思い出から元へ戻れば、
その夜、星野リゾートの歌声喫茶に出席している人たちは、横浜・関内のフォーク酒場に居た人たちと比べると、ライオンと羊ぐらいのレベルで、よりおとなしいのですが、といっても、皆さんが、声には自信があるらしくて、大きな声で歌う人も居たのです。この私だって、最高音部は、大きな声を出さないと出ないので、大きな声を出していたのです。
ところが、この『遥かな友に』に、なったら、不思議な事に、五分の一ぐらいの人が知らなかったのです。皆様はいかがですか? 歌詞は、『静かな夜更けに、いつも、いつも、思い出すのは、お前のこと』で、始まる歌です。一種の傑作という類の歌です。
で、大きな声を出す人が、これを、知らなかったので、おとなしい人たちが、前よりいっそう、上品に、しかも、より静かに歌ったのです。いかにもしみじみとした歌ですし、それにあわせた雰囲気で歌ったのです。私だって、非常に静かな声で、歌いました。この歌には、それほど、高音は使われておらず、したがって無理がない形で、歌える歌なのです。その上、団歌みたいな扱いで、和(かず)先生の合唱団時代には、練習の終わりや発表会の終わりに、歌っていた曲なので、自家薬籠中の曲という感じですから、余計無理がなく歌えました。でね、とても、美しく表現ができました。全18曲のうち、最も美しい歌い方ができた曲だったでしょう。
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副題7、・・・・・終わった時に、明日、自首しようと叫んだ人が居た・・・・・
すると、終わった時に、「明日、自首しよう」と叫んだ人が居たのです。私は、すぐ、そのジョークの意味がわかり、『ここに出席している人は、レベルが高いなあ』と、感心しました。音楽がもたらす感動を、こんなに瞬時に、しかも、驚くべき適切な言葉で、表現する人が出て来たからです。
だが、会場はシーンとしてしまって、拍手をする人もいず、笑う人も居ませんでした。で、叫んだ人が、『みんなが本意を解らないのだ』と、考えて左右の人に説明を始めました。
みんな静かに集中ができる人たちなので、先ほど程の、大声で話さなくても、大きな部屋中の、みんなに聞こえました。で、その人は、「あんまり美しい歌を聴いたので、懺悔したくなったのですよ。昨日までの、汚い自分を、全部捨てたくなったのです」と、説明をしました。
みんな、笑いもせず、茶化しもせず、静かにそれを聞きました。本当にそれほど、美しい歌い方が、できたのでした。しばらくは、部屋の中が、しーんとしました。やがて、夜の九時近くになって、ホテル側のリーダーが、せかせる様に、「最後の曲、赤とんぼを歌いましょう」といったので、そのジョークに賛同する会話は生まれませんでした。でも、私も、心を洗われました。しかも、さらに感動を深めました。
その男性は、多分、この曲、『遥かな友に』を知らなかったのです。五分の一が、知らないと見えたと、先ほど言いましたが、もしかすると、四分の一が知らなかったかなあ。この歌を自分の持ち歌とする歌手としては、ボニージャックスぐらいしか居ないので、テレビの世界(特にコマーシャル関係)では、出て来ない曲でしょうから。
で、私も、その静けさに合わせて、静かに歌いましたが、驚くほど、美しい声が出ました。そして、私の声は、他の上品な声の人たちのあいだで、織物に糊付けして行くみたいに、染みとおり、みんなの声を纏め上げ、接着をさせる役目を果たしている様に思えました。これは、もし、合唱をしているのだったら、最上の表現方法です。たまたま斉唱なので、合唱でよく言うハモルという現象はないのですが、本当に不思議にも、自分の声が、役に立っているという実感も得ました。
それを含めて、先ほどの、ジョークを聞いた事が、この旅行の白眉の経験だったと思います。
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副題8、・・・・・次の日に、このジョークを、主人と弟に話したのだが、あに、はからんやの反応が返って来た・・・・・
次の日に、裏磐梯から、吾妻小富士へ向かいました。対向車線にも、こちら側にも車がほとんど居ない、旧・有料道路・磐梯吾妻スカイラインを、すいすいと、走って行くのです。で、後部座席から、私は、上記のエピソードを前部座席に居る二人に話しました。
二人はあの美しい曲を実際には聞いていないので、なぜ、「明日、自首しよう」というせりふが突然出て来たのかが、理解できない模様でした。で、私は丁寧に言葉で説明をしながら、ついでに、「私も、とてもいい声が出たのよ」といいました。
弟は、クラシック音楽が好きなのです。数百万円もするオーディオを、数年に一回買い換えるのだそうです。で、話し声も美しいのです。その美しい声で、含み笑いをしながら、「まるで、教祖様だね」と、言いました。
その教祖様は、「自主しよう」と叫んだ、男性を指すのではなくて、無論、私を 指しているのでしょう。私も思わず、笑いながら、でも、言葉にならない各種の思いにとらわれました。
『あながち、それは間違っていないでしょう。特に日常生活の中に宗教観を持ち込むという意味では』とも思いました。最近書きかけ中の『オバマ来日』というシリーズも、隠れ主題は、「天罰は、ありや、なしや?」ということですし。でもね、と、同時に『やはり、私の身内は、シニカルだなあ』とも思いましたよ。身内でほめあう様な単純さは、無いのです。
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さて、16日の早朝、この一文の初稿を書いた時点では、上以外にも、種々さまざまなエピソードを同時に、ここへ入れ込めるはずでした。しかし、この一文は、歌手春日八郎の歌唱で、有名な『長崎の女』を、私が歌謡曲の中で、一番歌い易いと思っていることと、
フォークソングの中では、『遥かな友に』が、傑作だと思うことの二つだけで、終わることといたしました。恐れ入ります。では。
2014年5月16日に書き始め18日に完成とする。雨宮 舜(本名 川崎 千恵子)
尚このブログの、2010年より数え始めた伸べ訪問回数は、2206749です。