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新聞の片隅に載ったニュースから(164)    大西五郎

2014年08月28日 19時40分48秒 | Weblog
来年10月再増税「困難」 本田・内閣参与景気懸念で慎重 (14.8.28 中日新聞)

安倍晋三首相の経済政策のブレーンで内閣官房参与の本田悦朗・静岡県立大教授は二十七日、共同通信のインタビューの応じ、消費税率を予定通り二〇一五年十月に10%へ引き上げることは「難しいのではないか」と慎重な見方を明らかにした。
今年四月に消費税率を8%に挙げた後の景気の落ち込みを踏まえ、再増税は「リスクが大きい」と懸念を表明。「七~九月の(経済統計の)数字を見たい」としながらも、経済の情勢次第で、実施時期を半年から一年半程度延期することも検討すべきだと指摘した。
首相は10%への再増税を今年十二月に判断する方針で、本田氏の慎重姿勢が影響を与える可能性がある。
本田氏は最近の景気に関し「非常に厳しい状況が続いている。消費と設備投資の落ち込みが激しい」との認識を示した。その上で、四月に消費税率を8%に上げてから再増税判断までの期間が短すぎるとし「2回目の増税によって相当消費マイインドが落ち込んでしまう」と語った。
消費税の再増税には、デフレ脱却にめどがつき、経済が安定することが必要だと強調した。こうした環境が整うと期待され、予算年度の始まる月でもある十六年四月か十七年四月に実施時期を遅らせる案を選択肢に挙げた。
増税を延期しても「(財政再建に向けた)説明責任を国際社会に果せば国債の信認が傷つくことはあり得ない」と述べ、国債が売られて金利が急騰するとの懸念は当たらないとした。

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内閣府が13日に発表した4~6月期のGDP速報値は、前期比1.7%減、年率換算で6.8%減となりました。4月の消費増税前の駆け込み需要の反動で、個人消費が過去最大のマイナスになったことが主因。設備投資や住宅投資も下落に転じており、1997年の消費増税直後を大幅に上回る刑期の冷え込みを示した(毎日新聞)。
最近の政府の月例経済報告(8月26日公表)では、景気の基調判断を「緩やかな回復基調が続いており」としながらも、個人消費や生産に弱さが残っていることを踏まえ、景気下振れのリスクの要因として「駆け込み需要の反動の長期化」を新たに盛り込み、先行きへの警戒感を示した(毎日新聞)。
政府は7月下旬、今年度のGDPを1.2%増という見通しを発表しましたが、民間の調査会社各社は当初の今年度1.0%増の見通しを軒並み0.5%に引き下げており、政府見通しの1.2%増は実現困難とみています(毎日新聞)。
今年4月の消費税率引き上げがわが国の経済にマイナスの影響をもたらしているようです。一時マスコミからも持て囃された感のあるアベノミクスですが、民間投資を喚起する成長戦略という第三の矢もあまり働いていないようで、首相の経済ブレーンからも疑問符を突きつけられた格好ですね。
                                          大西 五郎
コメント (1)
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「我々はなぜ金太郎飴だったのか」後編  文科系

2014年08月28日 07時26分21秒 | 国内政治・経済・社会問題
 さて、以上のような全体を振り返った時、従来の正統な「変革の哲学」、科学的社会主義思想には、客観主義という重大な欠陥があったということに突き当たります。古今東西多くのマルクス主義(的)哲学者達が、こういう批判を行ってきました。戦前のヨーロッパでは、ルカーチ、グラムシ。戦後すぐの日本でも、マルクス主義の客観主義的理解を批判する「主体性論争」が有名です。古在由重、真下信一、丸山真男、村松一人、清水幾太郎などなど、そうそうたるメンバーが岩波の雑誌、「世界」などで論争しました。この論争において客観主義批判を行ったのは、真下、丸山の両氏です。清水氏らの科学(万能)主義や古在、村松氏らの「正統派」弁証法的唯物論者に対して、「人間の主体性というものはどこ行っちゃったの?」という論争だったと言われています。さらに比較的近くでは、戦前からのマルクス主義哲学者・古在由重氏の追悼論文集「転形期の思想」(梓出版社、1991年刊行)にも、そのような批判論文が多く収められています。

 過去に全般的危機論こそ誤りとして退けられましたが、貧困、困窮が変革を起こすという発展途上国型変革論、視点が今でもまだまだ暗黙の主流なのではないでしょうか。重ねて言いますが、困窮が変革を起こすものならば、失業やニートが激増し、年収200万円社会というように格差が深刻になり、また高齢者に厳しすぎるようになった日本で、労組や変革の陣営が力を減じているということが説明できません。それどころ、労組の方が労働者を獲得できないこんな時代に、逆に体制側が労働者の「自主的」組織化を進めえてきたという例は、この数十年山ほど存在しているのではないでしょうか。自主管理活動、QC活動、提案活動などは「経営者主導の大衆運動」という側面さえありました。「アメだけでなくムチもあっただろう!」と言ってみても、始まりません。そんなことは当たり前の話ですから。
「経済、『土台』が人々の生活を困難にしている。そのことを『学び、知らせ、宣伝する』ことに努めれば議会で多数を占め、やがて世の中が変えられるはずだ」という理論は人々を獲得できていないのです。それは、変革方針を考える哲学が以下のような誤りを持っていたことに呼応するものだと、僕は考えるに至りました。マルクス主義哲学、科学的社会主義のいわゆる土台と上部構造の関係の捉え方に客観主義的な誤りがあったと、そういう哲学で政治戦略を考えることしかできなかったからだと。
以下次に、そういう哲学にかかわる批判的まとめを数点にわたって行い、結びとしていきます。

1 土台が上部構造を規定すると言い、他方で上部構造が土台に反作用すると言います。そして、いわゆる社会主義的変革においては、後者の上部構造の「相対的独自性」が極めて重要になってきます。政権を取ってから土台を変えていくという、過去の国家の歴史にはなかった過程をたどると規定されているからです。つまり社会主義的変革においては、上部構造でイニシアティーフが取れなければ政権がとれず、新しい社会は来ないはずだと言いうるわけです。

2 上部構造の相対的独自性とか、その土台への反作用とか言われたもの自身については、古典の中には僅かですが、こんな論述が残っています。土台は上部構造諸領域に直接に何かを作り出すということはなく、それらの中の歴史的に与えられた独自の枠組み、諸条件を、外から間接的に変えうるだけだと。しかしながら、階級性とか「労働者的」とかいう表現、考え方には、こういう上部構造諸領域の独自な発展に対して外から土台的な物を持ち込みがちだという傾向が含まれていたのではないでしょうか。「階級性が科学性を保障する」という「方法論」は機械論の一種にもなりうるもので、客観主義の危険性を常にはらんでいます。土台を重く見過ぎる政治(主義)が政治学、哲学、文学などと絶えず摩擦を起こしてきた過去の世界的・歴史的姿は、極めて悲しむべきその証明であったとは言えないでしょうか。

3 1、2からすると、政治学、哲学、文学など専門学者たちの尊重ということが極めて重要になってきます。しかしながら従来の政治は、これらの方々からは学ばず、逆にこれらの方々への統制ばかりが目立ちました。その結果として多くの人材を失ってきたというのも明白な事実だったと思います。ましてや、外部の学者などとの討論などは、狭められるばかりではなかったでしょうか。こうして残った人々の作る政策、方針はますます、機械論、客観主義の色彩を帯びてくることになったと言えるのではないでしょうか。

4 客観主義は、戦略を考え、政策を作る過程で、「土台の上部構造への規定性」という視点から見たその都度の社会認識、その宣伝を重視しすぎて、実践的契機を軽視するという特徴をも有することになります。こうして、社会変革が結局、認識・宣伝の問題に矮小化されていなかったでしょうか。「客観的に明日がそこにあるのだから、それを知らせるだけでよい」と表現できるような姿勢です。しかしながら、そういう「正しい」認識、宣伝が進まないならば、その元である実践的世界を重視しつつ、そこからもう一度戦略を練り直すという努力が必要だったのではないでしょうか。人々が認識を進め、深めれば社会が変わるという側面は確かに存在するでしよう。しかしながら、2の諸側面も含めて、様々な生活点、生産点で実際に日々人々が変わりあい、生活を改善しあっていなくとも社会への認識を深め、広めあうことができる考えるならば、それはやはり客観主義の一種という誤りなのだと考えます。「改善の感性は十分にあるのだから、あとはそれを整理し、認識、宣伝すればよい」というのではなく、「改善の感性自身を実践的に育て合わなければ、必要な認識も生まれないし、広がらない」と言い換えても良いと思います。

 終わりにさて、こんな事を何故今むしかえすのかというご批判もあるかも知れません。今こそもう哲学よりも行動の一致だろうとも言われ、政治の表面に見える姿は既にこんな論議を必要とはしないはずだとも指摘されそうです。でも、世界観政党が、己の世界観の根本をなし崩しソフトランディングさせていくというような姿には、一種やはり根本的に胡散臭いものを感じざるを得ません。そう見ている人々は多いと思うのです。
 また、客観主義のままでしかもそれを表面上は隠しておいて、将来「正しかった」と強弁できる日が来るだろうなどという姿勢であるならば、それは二重の意味で論外というものではないでしょうか。
 いずれにしても歴史に汚点を残すことになります。過去の文献は残っているのですから。世界観政党が、自らの公式世界観解釈史に汚点を残す。それこそ、取り返しのつかないことだと考えます。

(終わり)
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