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随筆紹介 『神坂峠への思い』    文科系

2014年08月22日 18時02分51秒 | 文芸作品
 神坂峠への思い      M・Aさんの作品

 五月下旬の夏日、神坂(みさか)神社と周辺に出かけた。カルチャーセンターの講師による現地講座で、テーマは「神坂神社と古典文学」。参加者は十人にも満たない小グループの旅で、和気合いあい。マイクロバスで出発した。
 神坂神社周辺はすでに数回行っており、今年も花桃の盛りの季節に夫と車で行ってきたばかりだ。この講座に関心がなく、観光スポットだけのことなら参加しないが、今回は講師との打合せもあった。又何より上代文学と古代史に関わりのある所なので、何度訪ねても飽きることがない。
 むろん、観光スポットも緑や川のせせらぎなど、自然が心を癒してくれる場所もあり、それだけでもいいのかもしれない。ただ私の場合、その土地の歴史的な背景を理解し、人々の生活の営みに思いを馳せてみたいのだ。

 この日の主たる目的地神坂神社へは、名古屋方面から中央自動車道の国原インターで降り、「ヘブンそのはら」をやり過ごしてさらに上って行くと、三十分もかからずに資料館「ははき木館」に着く。そこから徒歩四十分で神社に出る、と案内道標がある。前回は散り始めた「駒止の桜」を見るために、雨の中を歩いた。神社までのちょうど中間点で、私の足で片道三十分かかった。
 今回は神社までマイクロバスで上ったので、楽な行程だった。だが、そこから「神坂峠二㎞」の道標と石だらけの鬱蒼とした山道を見ただけで、体力と脚力のない私には無理難題で、足を踏み出せない道と分かる。
 この先の神坂峠(標高一、五七六㍍)は、古代東山道の難所の一つ。恵那山(二、一九一㍍)と富士見台(一、七三九㍍)の間の鞍部で、木曽谷から伊那谷へと向かう折の最大の難所であった。古代東山道は全長約千キロに及ぶ険しい山の道だが、古く縄文時代から中世まで重要な役割を果たしてきた。軍事の道であり、税を都に運ぶ人々の物資運搬と交易の道でもあった。
 「大宝律令」の施行によって「駅(えき)制(せい)」が定められ、通常は約十六キロごとに駅家(うまや)が設けられた。だが、阿智の駅(今の国原)と美濃国の坂本駅の距離は千メートル以上で、急峻な坂道、尾根歩きと沢越えの山道で、気象環境も苛酷であった。馬も両駅に最多の三十疋を置いたとする記述も頷ける。
 現代の整備された高速自動車道を使い、行楽にでかける私たちは、古代人が受けた艱難辛苦を想像したり思いを感受するのは難しい。古代人は官道を歩くしかなく、必要に迫られて往来したのであろう。『古事記』と『日本書紀』には、日本武尊の窮地脱出の神坂峠越えが記されている。又、『万葉集』には、防人として東国から派遣された人たちの歌や題詞(詠まれた事情などを記した言葉)として残っている。

ちはやぶる神の御坂に幣奉り斎ふ(いはふ)いのちは母父(おもちち)がため
(巻二十ー四四〇二・埴科郡神人部子忍男(かむとべのこおしを)

 周知のことだが、防人とは辺土を守る人。古代多くは東国から徴発され、難波から出航して遠く旅に出た人たちが、この難所の峠を越える。家の両親を思い、旅の安全を祈願して神坂神社に幣を奉った決死の思いが歌から伝わってくる。もう祈りしかない──そう思うと、想像を絶する難渋に気が遠くなりそうである。
その後、平安時代以降になっても、この神坂峠の麓にある園原の名は『源氏物語』(箒木)に、『新古今和歌集』の藤原輔伊の歌や詞書に記されていく。他にも『狭衣物語』や『梁塵秘抄』などにも残されている。

 神坂神社周辺を何度訪ねてみても、実際には峠越えどころか、園原からロープウエーで上がり、約一キロのトレッキングで富士見台にやっと辿り着いたくらいの体験しかない。現在、峠越えをするには中津川側からもできるコースや他の行程もある。が、なにせ老いの始まりを痛感する今、こと更に古代人の難渋、苦行を思うたびに胸が痛くなる。できないことへの未練か、ただ周辺をうろうろしているだけである。

〈参考文献〉
 『東山道の峠の祭礼』市澤英利・新泉社
 『古代東山道園原と古典文学』和田明美・(株)あるむ


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