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随筆紹介「児童虐待に思う─一里親の所感─」  文科系  

2014年08月03日 17時16分29秒 | 文芸作品
 児童虐待に思うー一里親の所感  N.Kさんの作品

なんと悲しい事件だろう。五月三十一日、中日新聞、夕刊。「六年に死なせた」父逮捕。男児衰弱死、救えた命。「遺体発見は十三回目の誕生日」。父子家庭で、男児に水や食糧を与えず、餓死させた。五歳の男の子は父を待ち、どれだけ空腹に耐えていたか、寂しかったことか、計り知れない。名前は理玖ちゃん。
 児童虐待とは、ネグレクト(育児放棄)・暴力・性的暴力・暴言などを言う。
 平成十七年二月四日。「児童虐待最多二二九件、被害六歳以下が五割」と、紙面に大きく取り上げられている。事件が起きると、行政は「判断が甘かった」と陳謝をくり返す。新聞によると(テレビでも放映)、当時三歳の理玖ちゃんが午前四時ころ、Tシャツ、紙オムツにはだしで歩いているところを近所の人が発見、警察に通報。翌日母親が引き取りに来る。この時点で児童相談所が介入し、強制保護をしていれば、後に死に至らなくて済んだものを──。実は報道されるのは氷山の一角で、多くの子どもたちが虐待で児相に保護され、一時保護所、施設、里親へと措置されている。

 私事であるが、一つの例を記させていただきたい。
 平成十一年秋、五人の子を置いて母親が失踪。母子家庭。母親はそれまでにも数回家出をくり返していたが、二日ぐらいで帰宅していた。
 上は高校生から下は小学生に、多くの借金。すでに、電気、ガス、水道は止められていた。冷蔵庫は空。数日が過ぎ、〈お母さんは戻ってこないかも知れない〉と警察に届けた。すぐに児相の職員がかけつけ、学校等関係機関と連携。休日にも拘わらず動いてくれたと、後にわが家にきた子が話してくれた。そして、児童養護施設、里親宅へと手配。高校三年の男の子がわが家に。

 「里親の家なんかヤダ」とふて腐れ、腰パン、ズボンの裾は擦り切れ、前髪垂らし、上目づかいに私をみた。片方の目玉がチラリ。〈まあ、ゲゲゲの鬼太郎みたい〉私は微笑んだ。つられて、腰パンはニイと笑った。おもろい子だ。
 私はせっせと弁当を作り学校へ送り出し、次第に心を開いてくれるようになった。学校から帰ると「『おい、このごろ弁当持ってきて、どうしたんだ。一口くれ』と、今日友だちに取られたんだよ」、愉しそうに話してくれた。それまではコンビニでぱんを買っていたという。
 本人によれば、小学校はよく休み、中学二年のときは、ずっとひきこもり。三年になり─やっぱり高校へ行きたい─と猛勉強。塾にも通ったと聞く。けれども高校に入ってからも二ヶ月ばかり休んだ。公立高校だからこれだけの欠席は響く。わが家にきたからには高校だけは卒業させたい。
 「前から、福祉関係の大学に行きたかったのに。お母さんが出ていっちゃったからもう……。大学へは行かせてあげると約束したのに」、目を伏せた。あと一年余りもあるじゃない。がんばれ」、勉強は本人がするもの。私はごはんを作ることしかできないけれど、トライする意味はある。学校へ通い、アルバイトにも精を出した。高三の秋、大学OAテスト受験、合格。
 平成二十五年春、大学生になった。児相が一年間の措置延長を認めてくれて、学校に、アルバイトに、多忙な日々を送った。
 授業料は奨学金を充当し、なんとか頑張れそうである。

 現在、児童養護施設で暮らしている子どもたちの大学進学率は低い。学力があっても、経済的な面であきらめざるを得ないこともある。
 平成二十六年春、大学二年生。わが家から二時間離れた大学近くにアパートを借り、アルバイトで貯えたお金とこれからのアルバイトで生活する自信があると断言してくれた。

「困ったら帰ってらっしゃい」。
 新緑に向かって「行ってきます」と腰パンは巣立って行った。
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