プロ野球選手初の理学療法士になった栗田聡さん(52)は1986年、広島東洋カープからドラフト1位指名され、入団しました。ノンプロ三菱重工神戸の左腕エースとして活躍し、切れの良い速球と大きく曲がるカーブで「大野豊2世」と期待されていました。
ところが、入団後、肘、膝、頸などを次々と故障し、1軍登録のないまま、1990年自由契約となります。故障も回復し、翌91年、近鉄バッファローズに移籍しますが、ここでも1軍登録のないまま、その年、引退しました。
兵庫県立明石高校、三菱重工神戸のエースとして活躍した栗田さんにとって、実力をまったく発揮できないまま、プロ野球生活を終えなければならなかったのです。小学校、中学校ではエースで4番という、ずば抜けた身体能力を持ち、高校野球、ノンプロと華々しい球歴を持つ栗田さんにとって悔やんでも悔やみきれないプロ野球生活だったことでしょう。
プロ野球を目指す選手たちは中学、高校では、勉強より練習という生活を送っています。柔道整復師の専門学校では、プロ野球の夢が破れた同級生が何人かおりましたが、中学校のテストは名前を書いただけで合格点をもらったといいます。高校は監督枠で合格し(県立進学高校にも監督枠があることを知りました)、高校では練習中心です。
栗田さんがどんな高校生活を送ったかは知りませんが、学習に割く時間はほとんどなかったと推察します。それだけに、人生で初めてといってよいほどの猛勉強の結果、理学療法士に合格しました。自らがけがで泣いただけに、けがした選手たちの快復には力を尽くしました。多くのプロ野球選手、とりわけけがが多い投手を復帰させました。そのモットーは「リハビリは地道で長くてつらいもの」だそうです。