団塊タケちゃんの施術日記

一人二人生の旅立ち

骨折で入院、4か月のベッド生活を送ると

2019-02-28 10:11:04 | 健康・病気

70代半ばの女性は右の大腿頸部骨折で入院、人工関節の置換手術を受けました。4か月のベッド生活を送り、退院しました。

骨折するまでは、自分の脚で歩き、日常生活に支障はありませんでした。ただ、加齢に伴う筋肉の衰えがありました。高さ20センチの台に腰かけてから立ち上がることはできず、ロコモ度2と判定されていました。

病院では、20分程度のリハビリ訓練を受けていたといいますが、ベッドで寝ていることが多かったと聞いています。手術を受け、自分の力で歩くことができなくなったことから、リハビリパンツを着け、おむつの生活となりました。

そうした生活が4か月続いた結果、女性は一人では歩けなくなりました。外出するときは、夫が押す車いすで出かけます。自宅でも、夫に手を持ってもらい、よちよち歩きでなんとか移動しているそうです。

おむつの生活を直視するのがつらいのでしょうか、痴呆の症状が出てきました。幻覚が現れるようにもなりました。専門病院でCT検査を受けたところ、脳に萎縮があると診断されました。

4か月の入院・ベッド生活で、女性の心身に起こった変化です。

 

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肩を痛めたのは球種を増やそうとしたため、と遠山投手

2019-02-26 09:28:10 | 健康・病気

阪神タイガース、ロッテオリオンズで投手、外野手として活躍した遠山奨志さん(51)の講演「プロ野球選手がトレーナーに望むこと」を、明治東洋医学院専門学校で聞いてきました。阪神の二軍投手コーチや育成コーチを務めた遠山さんは「選手に寄り添ったトレーナーになってほしい」と繰り返し強調しました。

遠山さんは1986年、熊本県の八代第一高校からドラフト1位で阪神に入団し、左腕からの速球、カーブで8勝5敗の成績を残しました。ところが、翌年から思うような成績をあげられず、91年にはロッテにトレードに出されました。投手としては振るわず、95年には外野手に転向しました。

98年には入団テストを受け、投手として阪神に再入団。サイドスローに変え、シュートを修得し、ワンポイントリリーフとして活躍しました。左打者の内角に食い込むシュートに威力があり、巨人の松井秀喜選手を13打数で連続13無安打に打ち取るなど「左打者キラー」で鳴らしました。

講演の質疑応答では、阪神ファンの柔道整復師が「阪神入団1年目には活躍できたのに、2年目にこけたのはどうしてですか」と質問しました。遠山さんの答えはー。

「1年目はがむしゃらでした。シーズンが終わった後、アメリカのフロリダで育成・教育リーグに参加しました。そこで、コーチからもう一つ球種を増やした方がよい、といわれました。当時はまっすぐとカーブしか投げられませんでしたから。ところが、違う変化球を投げようとしたら、腕に新たな負担がかかり、そんな状態で投げ続けていたら肩に無理がかかり、痛めてしまったのです」

違う変化球を投げるには、腕のどの筋肉を鍛えなければならないかを考えずに、無理を重ねてしまったというのです。そうしたことを教えてくれるコーチもトレーナーもいなかったといいます。

自らの反省を踏まえ、遠山さんは「選手ファーストで、筋肉など体の仕組みを説明するトレーナーになってほしい」と呼びかけました。

 

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「金銭貸借等及び女等の関係全然ありません」

2019-02-25 09:57:28 | 健康・病気

読売新聞大阪ビルにあるギャラリーよみうりで開かれた知覧特攻平和会館企画展「恋人への最後の手紙」展を見てきました。穴澤利夫大尉(少尉、戦死後2階級特進)と婚約者の智恵子さんの記録、池田元威大尉(同)の大阪の家族にあてた手紙を中心に特攻隊員が残した遺書、手紙、日記が展示されていました。

鹿児島県南九州市にある知覧特攻平和会館では、太平洋戦争の沖縄戦で特攻戦死した1036人の遺影、遺書、遺品を保存しています。

穴澤大尉は福島県出身。23歳で戦死。穴澤さんが智恵子さんにあてた最後の手紙には「散って行く男子として、言って征(い)きたい。あなたは過去に生きるのではない、過去を忘れ、将来に新生活を見出すこと、穴澤は現実の世界にはもう存在しない」と、自らが死んだあと、智恵子さんの行く末を想う心情が綴られていました。

そして最後に「一 読みたい本 万葉 句集 道程 一点鐘 故郷 二 観たい画 ラファエル聖母子像 芳崖慈母観音 三 智恵子 会いたい 話したい 無性に」と書かれていました。 

池田大尉は大阪市出身。21歳で戦死。父は幼いころに亡くなり、母の手で育てられました。母への遺書には、敵艦に激突して戦果を挙げる決意、母への感謝、弟、妹たちへの労りの気持ちが綴られていました。そして母への伝言として「金銭貸借等及び女等の関係 全然ありません」と記述していました。

「(私たちは)死ぬところに向かって生きている」。そのことを時折考えることが、自分の人生を整えることになる、と作家の池波正太郎さんは言います。

祖国のために特攻死した若者たちの遺書を読みながら、じじいの私も残り少ない人生をどう整えるかを考えさせられました。

 

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オーダーメイドの背広上下が10円とは!

2019-02-22 09:29:04 | 健康・病気

「要らなくなった背広などがあれば、高く買いますよ」と、70代半ばの男性の自宅に電話がかかってきました。会社を定年退職したあと、嘱託として5年勤めました。それから10年近くが過ぎ、もう背広を着ることもないだろうと考えて、「背広があるので見に来てくれ」と答えました。

すぐに30代の男性が訪れました。どうやら自宅近くで携帯電話から電話してきたようです。男性が出したのは注文紳士服店でこしらえたオーダーメイドの背広上下8着です。買取の男性はさっと目を通した後、こう言いました。

「1着10円で合わせて80円ですが、イロをつけて100円で買います」と言って小銭入れから100円玉を出しました。

背広は会社員時代、10万円から15万円を出してあつらえたものです。それが上下1着が10円。よほど怒鳴りつけてやろうかと思いましたが、こらえにこらえて「高く買いますが、1着10円ですか。売るのをやめます」と告げました。少なくても上下1着で1000円にはなると思っていたといいます。それが10円ですから、「ふざけるな」です。

買取の男性は「切手や古銭などもあれば買い取りますよ」と持ち掛けました。男性は小学校時代から集めた希少品を含めた切手が多数ありましたが、買いたたかれるのがオチと考え、「そんなものはないので、帰ってください」と追い返したそうです。

私のカミさんも高級ブランデー・ナポレオン(販売価格2万5000円)が買取店では500円といわれ、持ち帰りました。500円のナポレオンは私が愛飲しています。

 

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「詞先」だったメンデルスゾーンの「パウロ」

2019-02-21 10:18:19 | アート・文化

歌謡曲の作り方に「詞先」「曲先」があります。歌詞が先に作られ、そのあとに曲をつけるのが「詞先」です。阿木燿子作詞、宇崎竜童作曲の「横須賀ストーリー」「プレイバックPart2]などは阿木さんの詞に宇崎さんが曲をつけました。宇崎さんが「詞ができたら、曲はどんどん作るから、詞を書いて書いて」と妻の阿木さんにせっついたといいます。

反対に曲ができて、それに詞をつけるのが「曲先」です。「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」など永六輔作詞、中村八大作曲のヒット曲は中村さんが書いた曲に、永さんが詞をつけました。永さんは「八大さんは早稲田大の先輩です。当時は先輩の命令は絶対です。こんな曲ができたから詞をつけて、といわれたら、はいわかりました、です」と話していました。

京都コンサートホールで先日開かれた京都シティフル合唱団創立60周年記念演奏会でメンデルスゾーンのオラトリオ「パウロ」を聴きました。パンフレットにあるドイツ語の詞とその訳に目を向けながら、合唱、独唱、関西フィルハーモニー管弦楽団の演奏に耳を傾けました。

荘厳な調べに比べて、その訳(ドイツ語は私はわかりません)は詩的な要素がみられません。訳の冒頭に(使4:24,26,29)とか(マタイ23:37)(ヤコブ1:12)などと書かれています。

楽曲の解説を読んで、はたと気が付きました。「パウロの伝道の様子を記した新約聖書の使徒言行録を中心とした聖書から選択された、ドイツ語のテキストによる45曲」と書かれていました。(使)は「使徒言行録」のことでした。

メンデルスゾーンは聖書の文章に曲をつけ、2時間を超えるオラトリオをつくりあげたのです。「パウロ」は1836年に初演され、27歳のメンデルスゾーンの作曲家としての名を確固たるものにしたといいます。

そんなことを、元合唱団員の友人に話したら「聖書を題材にした合唱曲はほとんどそうだよ」と、そんなことも知らなかったのか、という顔をされました。

 

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