編集幹部に忖度せず、地方記者として住民に寄り添った記事を書き続けたHさんが亡くなりました。韓国済州島で間質性肺炎の手術を受けましたが、術後の経過が悪く、肺炎で帰らぬ人となりました。77歳でした。
最初の妻とは離婚し、2度目の妻は死別し、3度目の在日韓国人の妻との結婚を機に、50代で新聞社を退職しました。奥さんと二人で大阪・鶴橋で焼き鳥店を始めました。「焼き肉の鶴橋で、焼き鳥店、これは受けるぜ」と話したように、売上を順調に伸ばしました。
その後、夫婦で韓国に移住しました。元新聞記者に似合わず、経営の才があり、焼き鳥店で稼いだ資金で1棟のビルを購入し、家賃収入で生計を立てていたといいます。
Hさんとは奈良支局で一緒に仕事をしました。40年以上も前のことです。仕事の打ち上げか、部会後の飲み会か忘れたのですが、Hさんら支局員数人と飲んだ後、しめのラーメンを食べに行きました。銀行の石段前に屋台があり、石段に座って食べるのです。
先客の男たちが並んで座っていたので、空いたところに座るため、前を通る際、私は「おっさん、すいません」と声をかけました。虫の居所が悪かったのか、男の一人が「おっさんとはなんや」とかみついてきました。私の胸ぐらをつかんできたので払ったところで、Hさんが叫びました。「なんや、やるんか」
そのまま乱闘騒ぎに。警官隊が出動する事態になりました。警官隊の幹部から「相手グループはかなり酔っていますから、私たちが抑えていますから、引き揚げてください」と言われ、私たち一行は支局に戻りました。
Hさんが「なんや、やるんか」と言わなかったら、私が袋だたきにあったかもしれません。その意味でHさんの男気に助けられました。警官隊が出動する騒ぎになったのですから、今だったら「新聞記者が乱闘」とネットで書かれ、処分問題になっていたでしょう。よい時代でした。