団塊タケちゃんの施術日記

一人二人生の旅立ち

イチローが泣いた夜

2011-09-30 10:57:38 | スポーツ

イチロー選手の200本安打がメジャー11年目で途絶えました。大リーグのシアトル・マリナーズでの今シーズンの成績は184安打、打率2割7分2厘。オリックス時代の1994年から続いていた打率3割台の記録も終わりました。安打製造機と呼ばれた天才打者、イチローは10月22日の誕生日を迎えると38歳になります。前人未踏の偉大な記録もいつかは破れる日が来ます。イチローにも、その日が来たということでしょう。

私たちは親と上司は選べません。イチローとて同じです。イチローは愛工大名電高時代から好打者として鳴らし、春夏の甲子園に2回出場しました。3年春は投手としてマウンドに立ちましたが、いずれも初戦で敗退しています。91年、ドラフト4位でオリックスに入団しました。持ち前の振り子打法で2軍で大活躍しましたが、土井正三監督に振り子打法を否定され、バッティングを直すよう指導されましたが、打法にこだわるイチロー(当時は鈴木一朗)は変えませんでした。2軍で高打率を続けたことから93年の開幕からスタメンに登録されました。

そして、問題の6月12日。対近鉄バファローズ戦で野茂英雄投手から、念願のプロ初本塁打を放ったあと、土井監督から2軍に行くように言われました。その夜、愛工大名電高時代の中村豪監督の自宅に電話してきました。中村さんがまだ帰宅していなかったので、奥さんが出ましたが、泣きながらプロで初めてのホームランを打った日に2軍行きを命じられたことを話しました。最後は嗚咽で言葉にならなったそうです。帰ってきた中村さんは、奥さんからイチローが涙をポロポロ流しながら2軍に行くことを連絡してきたことを聞き、折り返しイチローに電話しました。イチローの実力は1軍で十分通用するのだから、くさらずに頑張れ、といった激励をしたとのことです。中村さんの講演で伺った話ですが、あのときイチローがくさって練習の手を抜いていたら、いずれ1軍に上がってくるだろうが、随分遠回りになっていただろう、とも語っていました。

イチローは翌94年、監督に仰木彬さんが就任すると同時に、たぐいまれな打撃センスを評価され、名前も鈴木一朗からイチローに変え、世界を代表する大打者の道を歩み始めます。天才イチローでも大きくへこむことがあるのですから、私のような凡人が浮き沈み(沈み沈みかもしれませんが)するのは当たり前と感じる一方、くさってあきらめたらアカンと思いました。

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なぜ 整骨院?

2011-09-29 09:53:04 | 健康・病気

会社を退職したあと、どのように生きていくか、を考えるヒントになったのは邱永漢さんの言葉でした。「株の神様」ともてはやされる邱さんは88歳の現在も起業家として活躍し、次々と新事業に取り組んでいます。邱さんは、退職後の第二の人生は「他人によって首を切られる仕事ではなく、自分で自分の首を切れる仕事を始めなさい」と提案していました。つまり、自分が経営者になって自分の考えで退職する時期を決められるようになりなさいというのです。起業のススメです。

私の父母は紳士服仕立て業を営んでいました。紳士服そのものは大量製造、大量販売をする洋服製造販売会社が登場した1980年代から注文が激減し、紳士服の仕立てでは生活ができなくなりました。クリーニング店をしよう、たばこ屋を始めたい、などの相談を受けましたが、60代になって新しい仕事を始めるのは大変だよ、と意見がまとまりました。それで、長年の技術を生かして、紳士服や婦人服の丈直しや裾詰めなどの直しを中心にした仕事に変えました。子ども二人は独立し、夫婦がなんとか食べていければよい状況でしたので、父が83歳、母が78歳まで直しを続けました。お客さんが店に訪れると、二人が応対に出て、仕事の注文からいつのまにか世間話になり、お客さんと楽しそうに語り合っている父母の姿を見て、高齢になっても仕事ができるのはありがたいな、と思いました。父が黒と紺の糸の区別ができなくなり、母も足を悪くしたので、7年前に店を閉めました。

退職する数年前から、第二の人生をどう過ごすか、を考えました。タレントの永六輔さんは、若いときやりたくてもできなかったこと、あるいは若いとき好きだったことを第二の人生でやったらどうですか、とアドバイスしています。私は希望の新聞記者になり、記者の仕事はとても楽しかったものの、高年齢になって続けるのは難しいのはわかっていました。そこで、これまでの人生で一番飽きずに続けてきたことは何かと考えると、健康問題が浮上しました。虫垂炎も含めて手術歴が4回あり、生死にかかわる病気はしなかったが、病気との付き合いは多種多様です。「ヘルシー」担当の記者もしたこともあります。

高齢になっても働くことができ、しかも自分の判断で退職の時期を決断でき、健康にかかわる仕事という基準で整骨院を選びました。柔道整復師になって、お年寄りの人たちのロコモティブシンドローム(運動器症候群)を防ぐ手伝いができれば、とも考えました。開院して11カ月。自分の給料も出ない低空飛行の運営が続いていますが、患者さんの悩みを伺い、不確かなことはネットや知人に聞いて確認しています。掃除、タオル類の洗濯(家族にも助けてもらっていますが)、会計処理、保険の請求などを一人でこなし、患者さん以外にもセールスの人や広告の勧誘、寄付を求める人らも訪れ、退屈することがない毎日を送っています。

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運動療法を広げるには

2011-09-27 10:23:46 | 健康・病気

私のカミさんのモットーは「楽して生きよう。一度しかない人生」です。女性漫画家がマンガの中で書いていた言葉だそうです。私は「刻苦勉励」が好きで、苦労して何かを成し遂げると達成感を感じるタイプです。患者さんには、肩の痛み、腰の痛みを改善するストレッチ、運動、転倒を防止するために、どんな筋肉を鍛えればよいか、身を持って示して、できるだけ丁寧に指導しているつもりでした。

施術をしながら、家や勤務先で「肩甲骨を動かす運動は続けていますか」「腹筋を強くするトレーニングはしていますか」などと伺うと、「時々」とか「時間があるときは」など口ごもってしまう方が多いのに気が付きました。会社員時代、過労から腰の張りがひどく、朝起きるのに「ヨッコラショ」と掛け声をかけながら、両足を上げてから下ろす反動を使わなければ起きられなくなりました。三十代初めのころです。そこで運動器の筋肉を鍛えなければ、生活に支障が起こると気が付きました。休みの日はジムでの筋肉トレーニングをはじめ、ジョギング、ウォーキングに励んできました。

カミさんに、患者さんがなかなか運動療法を自宅ではしてくれないようだと話すと、「当たり前でしょう。疲れ切っているのに、休みはゆっくりしたいのです。私だって、家で運動しようなんて思いません」と言われてしまいました。そして「刻苦勉励のあなたみたいなタイプは圧倒的に少数派、ほとんどの人たちは私と同じ楽して生きよう派」と諭されました。

自宅でできる運動療法を続けるのは困難な患者さんが多いことがわかりました。それ以来、患者さんと院内のストレッチマットで一緒に腹筋・腕立て伏せ・スクワットのスロートレーニングや、六尺棒を使った肩の上げ下ろし、チューブ運動をしています。少なくとも来院したときは必要な運動をしてもらっています。

一緒の運動を重ねるうちに、大腿四頭筋を鍛えるレッグス・エクステンションを始める80歳近い女性も現れてきました。女性の背筋ははた目から見ても、目に見えて伸びてきました。女性は「先生、腰が伸びてきて歩くのが苦にならなくなった。胸も張ってきたので呼吸が楽になってきた。杖も今は使っていません」と喜んでいます。ちょっとした努力を続けることが大きな改善につながることを実感してもらわないと、運動療法は広がらないようです。

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年を取ったら、かきくけこ

2011-09-26 10:16:23 | 健康・病気

高齢になったら、日常生活の中で「かきくけこ」を意識しようという呼びかけを読みました。「か」は感動すること。最も手軽に感動できるのは、タケちゃんはやはり映画を見ることだと思います。ノン・ストップ・アクション映画を見てハラハラドキドキし、悲劇を見つめて思いっきり涙を流します。「き」は興味をもつこと。関西では、JRの新快速は運賃だけで、私鉄は近鉄を除けば特急料金が要りませんから、私は気が向けば、ふらりと知らない街歩きに出かけます。京都、神戸、奈良、姫路、敦賀、長浜、福知山などの街は小旅行には最適です。知らない人たちばかりの街で、気の利いていそうな居酒屋を見つけて、一杯やるのは楽しみです。そこで初めて会った人と「一期一会」の付き合いが生まれることもあり、興味深々です。でも、店や隣の人が私に合いそうもないときは、さっさと引き揚げます。

「く」は工夫をすること。整骨院を開院するとき、飲食店を営んでいる息子や娘、妻から「毎日の動きを少なく、効率よく仕事ができるよう動線を強く意識してレイアウトを考えてください」と忠告されました。それなりの工夫はしましたが、運動療法を重視した施術では、そう流行る院にはならないだろうとの予感がありました。さらに、動き回るのは嫌いではないので、家族から見れば無駄な動きが多い行動をしていることでしょう。「け」は健康であること。これには気を付けています。受付から施術、終了後の後片付けまで一人でこなしている一人院長ですから、けがや病気をしたら、即刻「休診」です。開院してから二日酔いするほど飲んだことはありません。院内のエアロバイク、腹筋台、レッグ・エクステンションなどの運動機器を使って体を動かし、健康づくりに励んでいます。

「こ」は恋をすること。これは難しい課題です。本当に恋をしたら、家庭に波風どころか、暴風雨が吹き荒れることでしょう。「酸いも甘い」も噛み分ける高年齢の私は、せめて恋心をひそかに燃やす程度にとどめています。

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栄養映画の楽しみ 続々

2011-09-25 10:25:10 | 映画

「ええぞ! 栄養映画の会」の呼びかけ人、Mさんは市川雷蔵さん主演の「忍びの者」に出演したとき、監督から大目玉を食らったといいます。忍者ですから、覆面姿です。覆面をかぶって全力で走るシーンを撮影するとき、息がしやすいように、覆面を口の下にまで下ろしました。全力で疾走するのですから、覆面を口から外した方が合理的で、忍びの者はこの覆面姿で走ったと考えたからです。それに、雷蔵さんも覆面は口の下まで下ろしています。「顔を見せる奴があるか」と怒鳴りまくる監督さんに「雷蔵さんも覆面を下ろしていますよ」と口をとがらせると、監督さんは「主役はいいんだ。観客は雷蔵の顔を見に来るんだから」と言われました。

主役は夢を売る仕事だから、お金には頓着しません。勝新太郎さんは大部屋俳優や裏方さんを連れて飲みに行くのが好きでした。勝さんが飲みに行ったと聞くと、次々と俳優や裏方さんが押し掛け、最初4、5人だったのが、あっという間に50~60人になったそうです。最上級のブランデーやウイスキーをドンドンあけ、一晩で数十万円を使うキャバレーやクラブの最上客です。支払いはすべて勝さんのつけ。昭和30年代の数十万円です。会社員の月給が「1万3800円」と歌謡曲で歌われた時代です。現在ならば、一千万円以上に上るでしょう。妻の中村玉緒さんが次々と届く請求書を、黙って支払っていたそうです。勝さんが競馬で1400万円も勝ったが、一週間で使ってしまったという週刊誌の記事を、昔読んだことを思い出しました。

主役級のお金は千円単位だったそうです。女優さんが「煙草を買ってきて」と千円札を出すと、80円のハイライト1箱を渡して、おつりはお使い賃。「おつりは、というスターさん、準スターさんはおりません。夢を売る商売の人がお金をけちってはいけません」とMさん。大衆の夢を裏切らないため、容色の衰えを感じたら、銀幕からさっさと降りる女優さんも少なくありませんでした。「女もつらいよ」ですね。

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