夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

またごあんそ、歴史のかたみに ④

2009-04-18 15:08:11 | 
    第4章 維新の人々に思い馳せれば

私は『仙厳園』を辞した後、カゴシマシティビューの観光バスで、
城山に向かった。

城山の展望台は、市内の街並みが一望でき、
私は見惚(みと)れながら数枚の写真を撮ったりした。
そして、下山するために遊歩道を歩き出し、タブ、シイ、クスなど照葉樹林の多い中、
新緑の葉に陽射しを受けて、時折きらめいたりする美麗に、思わず足を止めたりしていた。

街並みに出ると、『西郷銅像』の横道となり、
私は少し見上げたりし、微苦笑しながら、街の中を歩き出したのである。

そして、市電に乗り、加冶屋町で下車した後、『維新ふるさと館』を目指した。

この後、市民の方に道先を尋ねた後、
私たちの宿泊先の近くに甲突川が流れているが、橋の付近の小公園に、
『大久保利通銅像』があり、私はしばらく見つめたりした。
そして、この甲突川の川べりの遊歩道を歩いたのであるが、
桜花が終わった葉桜の樹の下は心身心地よかった。

この先に『維新ふるさと館』が見えたのであるが、
閉館時間は五時であり、わずか一時間ばかりで概要として拝見する程度となった。

この後、私は宿泊先に向かい、とぼとぼ歩きだしたのであるが、
なぜかしら無性にカツオなどの刺身が食べたくなったのである。
私は中央駅前の居酒屋を数軒廻ったが、開店前の時間であったり、
盛り付けの多い店であったりし、
やむえず東京でも見かけるチェーン店の『庄や』に入った。

私は朝食はホテルのバイキング形式で頂いた後、
『仙厳園』で抹茶を2煎と和菓子、そして城山の展望所でペットボドルの煎茶を飲んだだけであり、
とりあえずビールの大瓶をお通しで呑んだ。
そして焼酎の呑めない東京の田舎者の私は、
純米酒の辛口を五合ばかり呑みながら、カツオの刺身、たたき、
タコの刺身、からし蓮根、そして薩摩揚げを頂きながら、
日中に観たり散策した所を思い馳せたりしていた・・。

この夜、私はベットに横たわりながら、
芳 即正、毛利敏彦の両氏に寄る編著の『西郷隆盛と大久保利通』を深夜の二時まで読んだりした。

そして酒の酔いか、疲れたせいか定かではないが、
夢の中で、島津斉彬、大久保利通、西郷隆盛の人たちが出てきて、
私は西郷隆盛に苦言を言ったりしていたのである。

『貴兄は考えてもいない征韓論などで誤解されたが・・
西南の戦の前に政府の海軍中将が鹿児島に出向き・・
貴兄と面談したが・・決裂とした・・。
少なくとも貴兄は・・陸軍大将まで歴任した人であるから・・
政府の武器、弾薬はもとより、兵力の圧倒的な強さを認識していた・・

結果として、貴兄を慕う6千人余りの人々を死に追いやった・・』
と私は云ったりしたのである。

『おいどんは・・何も解かっていない・・』
と西郷隆盛は真っ赤な顔で私に言い切った。

『名誉とプライドを大切にする余り・・戦死された家族の人々を考えたことがあるのか・・』
と私は負けじと言い返したのである。


私は夢からさめて、冷たい煎茶を飲み、
窓辺により雨の降りしきる夜明け前の外景をぼんやりと眺めた。



《つづく》




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またごあんそ、歴史のかたみに ③

2009-04-18 11:31:56 | 
    第3章 島津公の威光の跡には

翌朝、私は独りで島津家の別邸で名高い磯庭園と称せられた『仙厳園』に向かった。
丸に十字の旗印の下で、鎌倉時代より明治の初期まで、
少なくとも薩摩地方を統治していた威光の残照は、この『仙厳園』に遺されている。

そして明治の維新後に、それまでの鶴丸城から追われ、
この『仙厳園』を本邸とした心中に思い馳せたりしたが、
もとより長年、この地の権力者としての集約した文化の一面も歴然として遺されているので、
こうした興味にあり、再訪した理由であった。

四年前に、家内と団体観光ツアーでこの『仙厳園』と隣接された『尚古集成館』を訪れた時は、
わずか二時間半ばかりで慌(あわ)ただしく拝見した程度であり、
何かと心残りがあったのも本心でもあった。


鹿児島市内と周辺を観光周遊をするには、
『カゴシマシティビュー』と称されたレトロ調に装飾された観光バス、
そして市電も一日乗車券があり、何回でも乗降車できる割安なサービスがあり、
私も利用させて頂き、中央駅前より『仙厳園』に向かったのである。

仙厳園の受付から入園し、ツツジ、モクレン等を花を誉めながら、
私は歩き出した・・。

http://www.senganen.jp/menu.html


お土産所の『亀鶴荘』に寄り、店内で装飾品、大島紬を見たりしたが、
大島紬を婦人服に加工した品のふたつには魅了され、
思わず微笑んだりした。

辞して歩き出した時、あのような品々を拝見すると、
薩摩藩が江戸時代に於いて、奄美大島、沖縄の島々を制覇し、
過酷な程に収奪した状況を思い浮かべたりした。
そして、沖縄本島を通して、中国大陸との貿易の盛況も重ねたりした。

30数分歩き廻り、喉の乾きを覚えたので、
『竹徑亭』に寄り、抹茶を飲みながら、和菓子を頂き、
窓辺からはボタンの花がたわわに咲き、それぞれの色合いに染められ、
この時節を教示してくれた。

この後、中国の江南地方より移植された孟宗竹の竹林を長らく私は見つめていた・・。
そして、この地から孟宗竹は日本各地に広まった、と解説されていた。

私の幼年期、東京郊外でも竹林が数多く見られ、
実家でも竹林を整備し、筍(たけのこ)を青果市場に出荷したり、
竹細工の業者に竹を売ったりしていた時代もあったので、
私にとっては感慨深い光景であった。


この後、私が最も印象深かった『曲水の庭』を再見したが、
この庭の周囲の石組の配置、水の流れ、そして庭を眺めると、
まぎれない美の結晶でもあり、
私は羨望と嫉妬を感じながら、長らくたたずんでいたのである。

そして、『磯御殿』を拝見した折、
座敷前の廊下で正座して庭を眺めたのであるが、
桜島を築山に錦江湾を池にみたてた雄大な借景と称される庭園は、
誰しも実感されられる余りにも贅沢な光景である。
私はため息をしたりしながら、長らく見つめたりした。


私は『仙厳園』を去る前に、隣接された『尚古集成館』に寄ったのであるが、
もとよりよ私は、製鉄、造船、紡績なども無知なひとりであり、
この館の解説にすがるしかないのである。

【・・
幕末、時の薩摩藩主であった島津斉彬は、
アジアに進出して植民地化を進める西欧諸国の動きにいち早く対応するために、
製鉄、造船、紡績等の産業をおこし、
写真、電信、ガス灯の実験、ガラス、陶器の製造など、
日本の近代化をリードする工業生産拠点をつくり上げました。
それが集成館です。中でも慶応元年(1865)竣工の機械工場は操業当時の姿
をとどめる重要文化財。
その内部は大正12年(1923)、集成館事業とこれを進めた島津家の歴史を語り継ぐ博物館となり、
「尚古集成館」の名で親しまれています。
・・】
このように解説されていた。

http://www.shuseikan.jp/

私は数多くの展示品を拝見したが、無念ながら理解できる能力に乏しく、
たったひとつだけ感心できたのは、『昇平丸』の模型であった。
あの当時、洋式船の技術を取り入れた実験船として、
小さいながらも洋式の軍艦を完成できたことに驚いたのである。

この後、売店の本のコーナーで数多くの書籍があったが、
ひとつの本を買い求めたのである。

芳 即正、毛利敏彦の両氏に寄る編著の『西郷隆盛と大久保利通』(河出書房新社)であり、
薩摩藩のそれぞれの島津公、西郷隆盛、大久保利通を中核に、
幕末から明治の初期までを解かりやすく解説された本であった。


私は『仙厳園』と隣接された『尚古集成館』を辞する時、
五時間ばかりであったが、昼食も食べず、
『竹徑亭』に二回ばかり寄り、抹茶を飲みながら、和菓子を頂き、
そして各所の喫煙コーナーで煙草を三本喫ったりしていたが、
それなりに心を満たされたひとときでもあった。




                                《つづく》




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またごあんそ、歴史のかたみに ②

2009-04-17 14:58:51 | 
    第2章 優(やさ)しく鹿児島歴史を学ぶには

私は家内たちと別れ、独りで中央駅の周辺を歩いたりした後、
私の旅先の習性から、その地の公共交通機関を利用することが多い。
幸いに鹿児島市内は、市電が頻繁に走って折、
私は鹿児島歴史を初心者として学ぶには、県立の歴史資料センターが最適と思い、
中央駅前より市役所前まで市電の乗客のひとりとなった。

市役所前で下車した後、
初めて訪ねる『黎明館』と称せられる歴史資料センターを目指して歩いたのであるが、
前方に城跡が見え、お濠には蓮の枯れた茎、豪壮な石垣、
そして整然としたツツジの花が帯のように長く彩(いろど)りが観えたりした。

門跡の入り口の近くには、石橋があり、そして石垣に囲まれた間の道を緩やかに歩くと、
忽然と賢美な建物が歴史資料センターであった。

http://www.pref.kagoshima.jp/reimeikan/


http://www.pref.kagoshima.jp/reimeikan/annnai/riyou.html

館内の一階に於いては、『テーマ展示』として、
原始・古代、中世、近世、近・現代のかごしま概観の4大区分に分けられ、
中世の志布志地域の山城の状景に驚いたり、
近世の出水地方の外城の独自性、そして昭和初期の天文館の街の情景など、
まぎれない鹿児島の歴史のかたみを私は学んだのである。

私は閉館までの二時間ばかりであったので、
二階に展示された民俗には余り観る余裕はなかったのであるが、
ある程度は満喫し、退館した。


この後、この城跡に近い大通りで信号待ちをしていた時、
ご高齢の婦人から声をかけられて、私は30分ばかり立ち話をしたのである・・。
この地に育ち、85歳のお方であり、数年前は大病されたが、今は心身健全にお過ごしで、
敗戦後まもなくご主人を亡くされ、ご子息を苦楽の中で2人育て上げられ、
それぞれ独立した自営業を今はなされている、
とお話して下さったのである。


私はこの婦人と別れた後、市電に乗り、中央駅前に向かったのであるが、
先ほどのご婦人の言葉、しぐさを思い馳せたり、
乗客の人たちの話し声を聞いたりしていた・・。

《 ちんからっじゃした 》と聴こえたのは、
《 さんざんでしたよ 》と私は解釈してみたり、

《 ずんばい あっど 》と話されたので、
《 たくさん ありますよ 》と私は感じたりしたのである。


このように私は市民の方たちから、さりげない言葉、しぐさを聞いたりして、
まぎれない鹿児島の文化を享受していたのである。



                                《つづく》




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またごあんそ、歴史のかたみに 【2009.4.12.~4.16.】 ①

2009-04-17 11:20:00 | 定年後の思い
    第1章 鹿児島・市内に


私達夫婦、家内の?E了或輿箸蓮⊇蕕瓩討亮膓舛肪紊①?br />空港ビ?E療絅咫爾妨㎠辰栃發Ⅸ个靴拭?br />
私は預けていた旅行バックを受け取?E戮紡垉,靴討い燭蕁?br />《 ゆくさ おさいじゃしたもした 》
とさりげなく大きな掲示板が掲(かか)げら?E討い拭?br />
私は少し首をかしげながら、?E療勅房圓了笋箸靴討蓮?br />《 ようこそ いらっしゃいました 》
と解釈して微笑んだのであ?E?br />
空港前から鹿児島市内の中央駅前まで?E爛献鵝Ε丱垢鰺僂靴燭♤?br />九州自動車道の高速で走?E崛?E㎠蕕蓮⇔せ海鮴擇?E㎠い疹覆㎠蕁?br />?E爾♢蠅寮欧?E屬涼罅⊃垢里燭?E?E兵擇鮗院?br />私は心のふ?E気箸里茲Δ幣襍覆某瓦蕨?なご)んだのであ?EΑΑ?br />

私自身、鹿児島・市内に初めて訪?E燭里蓮?br />?EⅤ?E鵐團奪㎐鼎料阿寮慌董?E悗㎠蕁慘彁ゝ濤圈〆臚鷙罅戮韮横兄嵌祥廚靴董?br />やっとの思いで終点の西鹿児島駅に下?E④辰拭?br />
あの頃は、『特急 はやぶさ 』の寝台列車が運行さ?E討い燭♤?br />うらび?E審慇犬了笋箸靴討蓮⇒擇ℓ世両紊梁減澆任△辰燭里如?br />無念ながら乗車は出来ないあこが?E梁減澆任△辰燭里任△?E?br />
45年前のことであ?E里把蠅㎠任覆い♤?br />確か市内の散策した後は、照国神社の付近の旅館に宿泊した。

その後は、指宿温泉の観光ホテ?E暴蒜颪掘∈腓魎儻靴靴晋紂?br />霧島に宿泊できず、小林市内の商人宿に宿泊し、熊本市内の旅館に3泊して帰京した。

この後は、四年前に家内と団体観光ツアーで西九州に三泊4?E撚浩麓靴靴浸?br />鹿児島県に関しては、霧島温泉に宿泊した後、
鹿児島市内を半?E个㎠?E儻靴掘陵抗拏佞亡鵑蝓∋惱匹暴蒜颪靴拭?br />そして桜島を寄り、宮?E④瞭?Eご澆惻靴靴芯戮任△?E?br />


このような拙(つたな)い鹿児島市内の情景を思い浮かべてい?E函?br />市内の中央駅前に到着した。

この後は、市内の予約してい?E咼献優好曠謄?E縫船Д奪ぅ鵑靴燭里任△?E?br />
http://www.kagoshima-i.tokyuhotels.co.jp/

このホテ?E話羆愾阿㎠蕋景♢个㎠蠅陵慇④里△?E茲如?br />部屋からゆったりとした甲突旋征観ら?E∀?なご)みのあ?E襍覆任△?E?br />
後で知?E海箸砲覆辰燭♤△泙犬㎠弊戮蠅両爐砲和腟彿殕未瞭質?E♢△蝓?br />?E㎠虧声藉?E泙任卜鯀海箸靴薪世魄?Eのこ)さ?E燭海里忙廚い魎鵑擦覆♢蕁?br />私はため息をしながら、長らく見つめたりしたのであ?E?br />

                                《つづく》


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またごあんそ、歴史のかたみに 【2009.4.12.~4.16.】 ①

2009-04-17 11:12:24 | 
    第1章 鹿児島・市内に


私達夫婦、家内の母の三人組は、初めての鹿児島空港に着き、
空港ビルの到着ロビーに向かって歩き出した。

私は預けていた旅行バックを受け取る為に待機していたら、
《 ゆくさ おさいじゃしたもした 》
とさりげなく大きな掲示板が掲(かか)げられていた。

私は少し首をかしげながら、東京の田舎者の私としては、
《 ようこそ いらっしゃいました 》
と解釈して微笑んだのである。

空港前から鹿児島市内の中央駅前までリムジン・バスを利用したが、
九州自動車道の高速で走る車窓からは、里山を切り開いた状景から、
昼下がりの晴れ間の中、森のたわわな樹木が光を受け、
私は心のふるさとのような情景に心は和(なご)んだのである・・。


私自身、鹿児島・市内に初めて訪れたのは、
東京オリンピック開催の前の盛夏、東京駅から『臨時 急行 桜島二号』で27時間半要して、
やっとの思いで終点の西鹿児島駅に下り立った。

あの頃は、『特急 はやぶさ 』の寝台列車が運行されていたが、
うらびれた学生の私としては、遥か雲の上の存在であったので、
無念ながら乗車は出来ないあこがれの存在であったのである。

45年前のことであるので定かでないが、
確か市内の散策した後は、照国神社の付近の旅館に宿泊した。

その後は、指宿温泉の観光ホテルに宿泊し、桜島を観光周遊した後、
霧島に宿泊できず、小林市内の商人宿に宿泊し、熊本市内の旅館に3泊して帰京した。

この後は、四年前に家内と団体観光ツアーで西九州に三泊4日で温泉地周遊した時、
鹿児島県に関しては、霧島温泉に宿泊した後、
鹿児島市内を半日ばかり観光周遊し、知覧、開聞岳周辺に寄り、指宿に宿泊した。
そして桜島を寄り、宮崎県の日南海岸へ周遊した程度である。



このような拙(つたな)い鹿児島市内の情景を思い浮かべていると、
市内の中央駅前に到着した。

この後は、市内の予約しているビジネスホテルにチェックインしたのである。

http://www.kagoshima-i.tokyuhotels.co.jp/

このホテルは中央駅前から7分ばかりの利便性のある処で、
部屋からゆったりとした甲突川が観られ、和(なご)みのある情景である。

後で知ることになったが、まじかな川べりの小公園には大久保利通の銅像があり、
幕末から明治初期までに歴然とした点を遺(のこ)されたこのお方に思いを寄せながら、
私はため息をしながら、長らく見つめたりしたのである。


                                《つづく》




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本日より、鹿児島・市内そして霧島温泉に・・。

2009-04-12 03:42:19 | 定年後の思い
昨日、このサイトで【明日より、鹿児島・市内を訪れる前に・・♪】と題し、
投稿した通り、本日より4泊5日で、
私達夫婦と家内の母の三人組で鹿児島・市内そして霧島温泉を訪れる。

鹿児島・市内を選定したのは、
私が家内の母に知覧の特攻平和会館にある遺書、手紙などに、
深く心に感じ、情感をまじえて話したのがきっかけで、
利便性のある鹿児島市内のビジネスホテルに連泊することした。

家内達が『知覧特攻平和会館』、『桜島』を訪れている間、
私は独りで照国神社、尚古集成館、そして磯庭園に知られている仙厳園を拝見したり、
城山を散策する予定である。


こうした折、特に旅先のときなどは、私は日常のぐうだらな生活を反省しながら、
亡き作家の城山三郎氏の遺(のこ)された格言を心の底に秘めて、
歩き廻ったりしている・・。


【 ・・
人生の持ち時間に大差はない。
問題はいかに深く生きるか、である。
深く生きた記憶をどれほど持ったかで、
その人の人生は豊かなものにも、貧しいものになるし、
深く生きるためには、ただ受け身なだけでなく、
あえて挑むとか、打って出ることも、
肝要となろう。
・・】

城山三郎・著の『この日、この空、この私』と題された随筆の一冊であり、
この中の『無所属の時間に生きる』に綴られている。


私は父に小学二年の時に死去されたので、特に城山三郎氏からは慈父のような言葉と感じ、
改めて定年退職後の年金生活は、人生は深く生きるように、
と生活信条として学んだのである。


今回、たまたま鹿児島県で4年ぶりに訪れるが、 鹿児島県のお方たちは、
うわべの言葉よりも熱き思いを秘めて行動される方が多い、と私なりに感じてきたが、
果たして歓迎されるか、
或いは東京の田舎者、と石を持って追われるか、
私の言葉、しぐさに係わっていることは、云うまでもないことである。

いずれにしろ、旅行先ではWeb環境から離れて、
訪れた地に心身思いを寄せるので、この間は投稿はしない。


尚、こうした時間に投稿するのは、異例であるが、
旅の出発日で早く目覚め、たわむれの一文と了解を願いたい。




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明日より、鹿児島・市内を訪れる前に・・♪

2009-04-11 08:41:55 | 旅のあれこれ
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
家内との共通趣味は国内旅行なので、
子供に恵まれなかった為か、若い夫婦の時代から、日本の各地を訪れる。

私が定年退職後は、現役時代の多忙なサラリーマンと一変し、
ある程度は宿泊数が増えた旅行もしたりしている。

こうした中で、家内の父は、私が定年退職時の少し前に死去し、
家内の母は独り住まいとなったので、
ときおり、私達夫婦は家内の母を誘い、年に数度ぐらいは国内旅行をしている。

殆どは温泉観光ホテルに5泊6日前後で滞在する中、
2006年の夏ごろに、家内の母は、
『元気なうちに・・北海道に行って見たいわ・・』
と家内に云ったりしたので、
この年の秋に、家内の母にとっては、初めて飛行機に乗り、
初めて北海道に7泊8日で私たち三人は周遊したのである。

翌年になると、沖縄のひめゆりの塔、平和記念館を参拝したい、と要望し、
秋のひととき8泊9日で沖縄本島を訪れたのである。

そして、今年の2月には、長崎の原爆祈念館を中心に、
長崎市内・雲仙温泉に8泊9日で訪れたりした。


昨年の年末から今年の新年を迎えるにあたって、
家内の母を我が家にきて頂き、ここ4年ばかり恒例となっている。

この時に、たまたま私達夫婦が訪れた『知覧 特攻平和会館』に関して、
私は家内の母に話したのである。

このことは、このサイトに於いて、
【 九州湯けむり紀行【2005.4.10~4.13】 】
と題して、帰宅後に投稿している。

【・・
   (略)

        第三章 桜の舞い散る頃に・・。


4月12日(火曜日)
霧島温泉をでて、霧雨の中、霧島神宮に寄る。
広い境内を霧雨の中、静寂のひとときにつつまれ、心にしみてくる・・。

その後、島津家の別邸《仙厳園》に立ち寄った後、
知覧にある《特攻平和会館》に行く。

私は、歴史の中で不幸にも、
若き日に命を国家に捧げた隊員の遺書が確認したかった。

私の特攻隊に関する根底は、ニュース、歴史書物、映画から得た知識があり、
何より阿川弘之・氏の『雲の墓標』を二十歳過ぎの時に読んだのが
基礎知識と影響を受けていた。

鹿屋基地にある海軍海兵団を描かれていた。

   雲こそ吾が墓標
        落暉よ碑銘をかざれ 

この小説は、私の人生観を揺さぶられたひとつの書物である。

そしてここ数年前に映画の『ホタル』を観た。
この映画は、知覧にあった陸軍の特別攻撃隊をテーマにしている。

このような拙(つたな)い知識の上で、この平和会館に入った。

おびただしい遺書、日記が展示されていたが、二十分過ぎると、心重くなった。


うみやまに まさるめぐみに むくひなむ
        道をゆくなり いさみいさんで
                       佐藤 新平


君がため 雄々しく散らん 桜花
                  上成 義徳


会館を出ると、大通りの桜並木があった。

おびただしい石燈篭の中で、桜の花びらが空をさまよい、
地上に舞い降りていた・・。

そして路肩に吹き寄せられた花びらが、薄い絨毯のように敷き占めていた。

     (略)

・・】

このような思いを情感をまじえて、私は家内の母に云ったりしたのである。

家内の母は関心を示したので、
私はこの『知覧 特攻平和会館』で買い求めた村永 薫・編の『知覧特別攻撃隊』の本を
手渡したのである。
この本は、写真、遺書、日記、手紙などが掲載されているので、
たとえ高齢者の家内の母も理解できると思ったりしたのである。

翌朝の午前のひととき、
『少し・・難しそうで・・でも・・遺書などを読みはじめると・・
とても読み続ける心境になれなかったわ・・』
と家内の母は私に云いながら、本を返却したりのである。


この後、私はビデオ棚から、
降旗康男・監督、高倉 健・主演の『ホタル』(2001年・公開)を取り出して、
家内の母に、
午後のひとときに観たら、と云ったりした。

昼下がり、家内の母は居間の一角に炬燵(コタツ)に入りながら、
このビデオの作品を観ながら、ときおり涙を浮かべていたのを、
たまたま私は見てしまったのである・・。
そして、家内に、
『一度は・・知覧に行って観たいわ』と云ったりしていた。


明日より、私達3人は鹿児島市内に訪れ、
家内達は『知覧 特攻平和会館』に行く予定である。
二月の下旬の時に、桜が舞い散る頃と予測しながら、旅行会社に予約したのである。

家内の母にとっては、かの大戦のさなかは、
新潟の上越市(旧・高田町)で青春期を過ごしたひとりであるので、
多くの高齢者と同様に、それぞれの思いの慰霊の旅かしら、と私は思ったりしたのである。


私達は鹿児島・市内のビジネスホテルに2泊した後、
家内の母の身を案じて、霧島の観光ホテルに2泊する。

私は鹿児島市内は、3度めとなるが、
独りで照国神社、尚古集成館、そして磯庭園に知られている仙厳園を拝見したり、
城山を散策すればよいかしら、
とこの一週間はぼんやりと思ったりしている。



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桜花(さくらばな)舞い散る中、散策して・・♪

2009-04-10 23:06:59 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の身であるが、
昨日、朝のひととき地元の天気情報を視聴していたら、
昼下がりは22度前後と予報され、
5月下旬のような陽気かしら、と少し戸惑ったりした。

家内は美容院に行く為に準備していたのであるが、
いつもの美容師の方が休みと知り、
家内はせっかく準備が終えたのに、と予定が外れ、少し落胆していた。

そして私は家内が外出の容姿であったので、
久々に桜を誉(ほ)めに出かけよう、と誘ったのである。

近くにある野川の川沿いの遊歩道を40分ばかり歩き、深大寺に参拝した後、
神代植物園でお花見をしょう、
と提案したのである。

10時過ぎに外出したのであるが、
川沿いの桜は満開の中、早くも花びらが空中を舞いながら、周辺に散乱していた。
そして川辺には、菜の花が黄色い色合いを散りばめたように群生し咲き、
川面は桜花が薄っすらと花筏(はないかだ)となり、白と淡き桃色に染められ、
ゆっくりと流れていた。

このような情景の中を私達夫婦は歩いたのである。

私は調布市に生を受けて、結婚前後の5年を除き、この地に住み、
家内と結婚して3年目に実家の近くに家を建てて、30年は過ぎている。
私は初めの10年頃までは、この遊歩道を含めて、
家内を伴い、自宅から周辺を私の休日のときなど歩いたりしていた。

そして、私の幼年期を含めた青年期までの思い出の地を歩き、
家内には私の屈折していた時代のことまで話したりしていた。


桜花が舞う中、私達は遊歩道を歩き、
花びらが私の身体にもまといついたり、思わず微笑みながら、
手でやさしく払ったりした。

小学校の脇を通り過ぎると、桜の樹の下の周辺で、
低学年の児童たちが歓声をあげながら、走り廻ったりしていた。

神代植物園のそれぞれの桜は満開であり、
遊歩道の情景と同じように、早くも花びらが空中を舞いながら、周辺に散乱していた。
そして歩道の外れには、吹き寄せのように花びらが重ね合い、
わずかながら積もっていた。


私達は日中のひととき、5時間ばかりであったが、
桜花(さくらばな)舞い散る中、遊歩道、植物園を散策したり、
食事処で昼食を頂いたり、
過ぎ去った日々をとりとめなく思い出し、そのときの心情を語り合ったり、
ときには笑ったりしたのである。



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確かな伝統美を感じる『色の歳時記 ~目で遊ぶ日本の色~』・・。 【下】

2009-04-09 17:08:35 | 定年後の思い
『色の文化史』に於いては、
京都国立博物館・切畑 健氏が、歴史を彩る色として、
奈良時代以降から江戸時代を正倉院御物の三彩磁鉢、
西本願寺の雁の間の襖絵として名高い金碧障壁画など十二点を掲載しながら、
具現的に解説されている。

この後は、『色彩の百科』と題され、暮らしに役立てたい色彩の知識、としたの中で、
女子美術大学助教授・近江源太郎氏が『色のイメージと意味』として、
『赤』、『ピンク』、『オレンジ』、『茶』、『黄』、『緑』、『青』、『紫』などを、
現代の人々の心情に重ねながら、さりげなく特色を綴られている。


『配色の基礎知識』としては、日本色彩研究所・企画管理室部長の福田邦夫氏により、
《配色の形式は文化によってきまる》、
《情に棹(さお)させば流される》
などと明示しながら綴られれば、私は思わず微笑みながら読んでしまう。


最後の特集として、『和菓子』、『和紙』、『組紐』、『染』、『織』が提示されて、
掲載された写真を見ながら、解説文を読んだりすると、
それぞれのほのかな匂いも感じられるようである。


そして最後のページに『誕生色』と題されたページが、
さりげなく掲載されて折、私は読みながら、思わず襟を正してしまう。

北越の染めと織物の街・十日町の織物工業共同組合が、
情緒豊かな日本の伝統色を参考にとして、十二ヶ月の色を選定していたのである。

無断であるが、この記事を転載させて頂く。

【・・
『誕生色』と命名して現代の暮らしに相応しい《きもの》づくりを行っている。
『誕生石』にもあやかって興味深い試みである。


1月
おもいくれない『想紅』

初春の寒椿の深い紅。
雪の中で強く咲き誇っている姿に華やぎ。


2月
こいまちつぼみ『恋待蕾』

浅い春に土を割る蕗のとう。
若芽のソフトな黄緑が春を告げる。


3月
ゆめよいざくら『夢宵桜』

春のおぼろ、山桜の可憐な色。
桜、それは心躍る春の盛りを彩る。


4月
はなまいこえだ『花舞小枝』

春風に揺れる花を支える小枝。
土筆(つくし)もまた息吹いている。


5月
はつこいあざみ『初恋薊』

風薫る季節の薊の深い紫。
5月の野には菖蒲も咲き、目をなごます。


六月
あこがれかずら『憧葛』

さみだれが葛を濡らして輝く緑。
蓬、青梅・・緑たちの競演がいま。


7月
さきそめこふじ『咲初小藤』

夏近し、紫露草のうすい紫。
きらきらと夏の光の中で、緑の中で。


8月
ゆめみひるがお『夢見昼顔』

夏の涼しさに朝顔、昼顔。
庭に野に夏には欠かせない風物の彩り。


9月
こいじいざよい『恋路十六夜』

月冴えるころ朝露に身を洗う山葡萄の深い紺。
十六夜の色にも似て。


10月
おもわれしおん『想紫苑』

風立ちて、目もあやに秋の七草。
野に咲き乱れる桔梗と紫苑の色。


11月
こいそめもみじ『恋染紅葉』

秋の野の残り陽に照る紅葉の赤。
心にしみ入るぬくもりのかたち。


12月
わすれなすみれ『勿忘菫』

淡雪のほのかな思い。
菫が咲き、小雪が舞う季(とき)の色。やすらぎの感覚。

・・】
注)記事の原文より、あえて改行を多くした。


私はこうした美しい言葉、綴りに接すると、
その季節に思いを馳せながら、その地の風土を想い、
心にひびき、香り、そして匂いまで伝わったくる。

日本風土の古来からの人々の営みの積み重ねの日常生活から、
さりげなくただよってくる色あいの結晶は、
まぎれない日本文化のそれぞれの伝統美でもある。


この本は、昭和58(1983)年に発刊されているので、
稀なほど優れた執筆陣でありながら、
現在は無念ながら故人となられた人が多いのである。

こうした遺(のこ)された随筆などを、改めて読んだりすると、
日本風土と文化に限りなく愛惜されているので、
日本文化を愛する人たちへの遺書のひとつかしら、
とも思ったりしている。



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確かな伝統美を感じる『色の歳時記 ~目で遊ぶ日本の色~』・・。 【上】

2009-04-09 06:52:26 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
古惚けた一軒屋に家内と2人だけで日々を過ごしている。

陽春に恵まれた日中、主庭のテラスに下り立ち,
常緑樹の新芽、落葉樹の芽吹き、幼葉などを眺めながら、
煙草を喫ったりし、季節のうつろいに深く心をよせたりしている。

私は読書も好きであるので、居間のソファに座りながら、
その日の心情に応じた本を開いたりしている・・。

昨日、昼下がりのひととき、一冊の本を本棚から抜き取った。

『色の歳時記 ~目で遊ぶ日本の色~』(朝日新聞社)という本であるが、
私が本屋で昭和62(1987)年晩秋の頃、
偶然に目にとまり、数ページ捲(めく)ったりして、瞬時に魅了され本であった。


巻頭詩として、『色の息遣い』と題されて、
詩人の谷川俊太郎氏が、『色』、『白』、『黒』、『赤』、『青』、『黄』、
『緑』、『茶』と詩を寄せられ、
写真家の山崎博氏がこの詩に託(たく)した思いの写真が掲載されている。

そして、詩人の大岡信氏が、『詩歌にみる日本の色』と題されて、
古来からの昨今までの歌人、俳人の詠まれた句に心を託して、
綴られている。

本題の『色の歳時記』としては、
春には抽象水墨画家・篠田桃紅、随筆家・岡部伊都子、造形作家・多田美波、
夏には英文学者・外山滋比古、随筆家・白州正子、女優・村松英子、
秋には俳人・金子兜太、歌人・前 登志夫、歌人・馬場あき子、
冬には詩人・吉原幸子、作家・高橋 治、作家・丸山健二、
各氏が『私の好きな色』の命題のもとで、随筆が投稿されている。
そして、これらの随筆の横には、季節感あふれる美麗な情景の写真が
幾重にも掲載されている。


或いは『日本の伝統色』と題し
伝統色名解説として福田邦夫、素材にあらわれた日本の色の解説される岡村吉右衛門、
この両氏に寄る日本古来からの色合い、色彩の詳細な区分けはもとより、
江戸時代の染見本帳、狂言の衣装、江戸末期の朱塗りの薬箪笥、
縄文時代の壺、黒塗りに朱色の蒔絵をほどこした室町期の酒器、
江戸時代のいなせな火消しの装束など、ほぼ余すことなく百点前後に及び、
紹介されているのである。

                            《つづく》


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ふたたび、たがが『定額給付金』、されど『定額給付金』・・♪

2009-04-08 00:02:28 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
古惚けた一軒屋に家内と2人だけの家庭である。

家内の父は、私が定年退職時の少し前に死去し、
家内の母は老朽化した一軒屋に独り住まいとなっている。

家内の母は私より14歳ばかり齢上の高齢者であるが、
体力は衰えた身ながら、程々に元気である。

日頃は月に数回ぐらい旅の仲間の数グループの女友達と、
国内旅行に10日程度は行ったりしているので、
新聞の購読は取りやめ、自宅にいる時はテレビなどは殆ど娯楽番組、医療関係の番組を視聴したりしている。

家内は季節の変わり目に、実家に一週間ぐらい泊りがけで、
大掃除をしたり、季節に応じた暖冷房、カーテン、衣服などの準備で、
行ったりしている。

そして、年に数度は、私達夫婦は家内の母を誘い、
国内旅行に行ったりしている。


いつものように家内は夕食前に、実家に電話をした後、
家内はお風呂に入った。

私はNHKのニュースをぼんやりと視聴していたら、
家内の母から電話があった。

『先程・・XXに云い忘れたの・・
「定額給付金」の封筒・・着いたの・・』
と家内の母は、申し訳なさそうに私に云った。

家内は母が高齢者はもとより、外出が多い身なので、
「定額給付金 申請書」が配達されたら、連絡するように、
過日、連絡していたのである。

『おかあさん・・良かったじゃないの・・』
と私は家内の母に云いながら、「定額給付金 申請書」について、
解かりやすく説明したりした。

『解かりました・・間違いのないように・・2万円の手続きしますわ・・
毎月のことですからね・・』
と家内の母は明るく私に云った。

『おかあさん・・間違っている・・
毎月じゃなくて・・国から頂けるのは一回限りですよ・・』
と私は優しく家内の母に云った。

『そうなの・・』
と家内の母は少し声を落として私に云った。

私はこの後、12日より鹿児島・市内と霧島温泉に四泊五日で、
私達夫婦は家内の母を誘い、四泊五日で旅行するので、
これらの話題に5分ばかり話したりし、電話連絡を終えた。


家内がお風呂から上がってきたので、
『おかあさんから・・「定額給付金」の申請書・・着いたって
一応・・解かりやすいように記入する時の注意ごとは・・云ったよ・・
お母さん・・解かったみたい』
と私は家内に云った。

『そぉ・・ありがとう』
と家内は微笑みながら私に云った。

『だけどね・・お母さん・・勘違いしていたよ・・
給付金・・毎月頂ける、と思っていたみたい・・
お母さん・・テレビのニュースは殆ど見ていないからねぇ・・』
と私は笑いながら家内に云ったりした。

『・・』
家内も笑っていた。

『だけどねぇ・・国が毎月・・給付金を配布していたら・・
国がつぶれるよ・・』
と私は家内に笑いながら云ったりした。


この後、私は家内の母のような高齢者の独り身で、
新聞を読まなく、テレビのニュースを殆ど見ない人は、
昨年の秋から、『定額給付金』に関して、たとえ政治・社会が混迷しても、
国民一人ひとり周知徹底することは困難なことである、
と改めて考えさせられ、苦笑したりした。


私は『定額給付金』に関して、これまでの思いは、
このサイトに3月31日に於いて、
【 たがが『定額給付金』、されど『定額給付金』・・♪ 】
と題して投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
昨夕、調布市の調布市定額金支給実施本部より、
『定額給付金 申請書在中』と明示された封筒が郵送されてきた。

私は苦笑しながら、封筒を開けて、
給付金額リスト(世帯員詳細)として、私、家内の氏名が書かれ、
それぞれ12000円、合計額24000円と明記されていたのである。

そして、同封されている『定額給付金 申請書』と送付用の封筒で、
郵送すれば、申請から振込みまで最長二ヶ月程度・・
と明記されていた。

私は少しボケた身であるが、この『定額給付金』に関しては、
複雑な思いで、昨年の秋から注視してきた・・。


2008年10月30日の時点に於いては、
【 『定額給付金』は、麻薬と同じようなので、険悪・・♪ 】
と題して、このサイトに投稿したりしていた。

その後、景気浮揚策を真剣に考えれば、
国民ひとりに高額を支給しなければ本当の効果は得られない、
と何か読んで、そうだよね、と私はうなずいていた・・。


そして、2009年2月下旬の頃、ネットでニュースを検索した時、
経済アナリストの森永 卓郎氏が『検査定額給付金は本当に意味のない政策か』
と題した提言に、
偶然に読んで、やはり専門家のご提言はまぎれなく正論だ、
と深く賛意したのでる。

http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/o/172/index.html

森永 卓郎氏の提言は、給付金の必要性を明論した後、
最終の部分に、
【・・
1人当たり1万2000円の給付で、ここまで萎縮した国民の気分が切り替わることはないだろう。
世帯平均で4万円に満たない金額では、普段の生活費に紛れてしまって、
大きなものを消費しようという気にならない。

わたしが言い続けてきたのは、最低1人あたり10万円の給付である。
4人家族で40万円あれば、大型家電や車を買い替える人も出てくるだろう。
何より、いまの閉塞感を打破することが可能になる。

財源はある。たとえば、霞が関のいわゆる埋蔵金だ。
外為特会(外国為替資金特別会計)こそ減少してはいるが、
それでも財務省所管以外の特別会計に手をつければ30~40兆円やそこらはすぐに出てくる。
1人10万円の給付なら必要な予算は12兆円なので、十分に足りる。
・・】
注)記事の原文より、あえて改行を多くした。


このように私は読みながら、大いに経済アナリストの森永 卓郎氏の提言に、
まぎれなく正鵠な提言と確信したのである。

このように私は、実施されているわずかな『定額給付金』は実感が乏しく、
少なくとも10万円以上でなければ、
経済の浮揚効果はないと、ぼんやりと思ったりししている。



尚、私が今2008年10月30日の時点に於いては、
【 『定額給付金』は、麻薬と同じようなので、険悪・・♪ 】
と題して、
このサイトに投稿したりしていたが、あえて再掲載をする。

【・・
私は年金生活の4年生の身であるが、
昨日、読売新聞を読んで、景気浮揚の一環として、
『定額給付金』を年度内に実施の予定を知り、
驚いたり、ため息ををしたりした。

午後になると、【YOMIURI ONLINE】を検索している時、

【 定額給付金は全世帯に、所得制限見送り…自公が最終合意 】

という見出しがあり、私は精読しはじめたのである。

【・・
政府・与党は29日、追加景気対策の柱となる定額減税に代わる定額給付金について、
全世帯を対象に2兆円規模で実施することで最終合意した。

所得税と住民税が課税されない低額所得者の一部は対象外とする案も検討されたが、
株価急落で景気の先行き不透明感が強まったことから、
幅広く景気刺激効果を狙う必要があるとして、全世帯を対象とすることにした。

与党は当初、定額減税と減税の恩恵が及ばない非課税世帯に対する臨時福祉特別給付金の二本立ての対策とし、
特別給付金は高齢者などの生活困窮世帯に限定する方針だった。

高額所得者は定額給付金の対象外とすべきだとの意見もあったが、
「所得額を把握するには法改正などの手続きが必要になる」(総務省幹部)ことから、
年度内実施のために所得制限は見送られた。

総額2兆円を2008年3月末現在の全国の世帯数で単純に割れば、
1世帯あたりの給付金は約3・8万円になる。
実際の給付額は家族構成によって異なる。

追加景気対策は30日に決定する。
具体的な給付方法は今後、支給窓口となる市町村と協議する。

・・】

無断であるが、上記が記事の全文である。
注)記事の原文より、あえて改行を多くした。


私は憂鬱になったのである。
確かに私を含めた年金生活にとっては、朗報であるが、
国が財政赤字なのに、これ以上増やしても大丈夫なの、
そして果たして『定額給付金』は景気浮揚の効果があるかしら、
と思ったのである。


1部の政治に関連した方たち、選挙対策の『ばらまき』と批判したいるが、
私もまぎれなく『清き一票』を国民から買収する策と感じ、
心の純潔を汚されたように思ったのである。


昨今は高齢者社会となり、社会保障の財源は国家の財政を圧迫しているので、
私は年金生活で、何かと心苦しく感じる時もある。
そして政治家の諸兄姉は、清き一票を多く獲得するには、
ご年配者を優遇すれば念願が叶うが、これは麻薬のような政策であり、
一時は良くても、あとで苦しむのは、国の財政と
現実に汗水を流して働いて下さる人たちなのである。

1部の人たちは、国力が衰退するよりも、
目の前の国民の生活を優遇するのが肝要である、と叫ばれているが、
果たして私たちの世代が亡くなった後は果たして・・と思っているのである。

たわむれで発言させて頂ければ、
私は年金生活で子供に恵まれなく、次世代、そして孫の世代も心配しないので、
国の財政赤字が膨らみ、孫の世代が困窮しても、
私は既にあの世である。


私たち、ご高齢者の人々は、社会保障の最優先の政策にすがることなく、
働いて下さる人方たちのこれ以上の負担をなくし、
程々に心の節度を持って過ごすことが、
何よりの次世代、孫世代のお手本となる、と考えたりしている。


余談であるが、かって1999年に於いて、
『地域振興券』として約7000億円が配布された。
ご高齢者の多くは、2万円が配布されて、買物に使ったりした、
と聞いたりしたことがあった。

私はこの頃は、あるレコード会社に勤めていたが、
宇多田ヒカルという歌手が『First Love』というCDアルバムが発売され、
たちまち765万枚の空前の売れ行きとなり、
ご高齢者の一部の方がお孫さんの歓心を乞う為に購入された、
と風の噂で聴いたことがある。
私はこれまでの業界のCDアルバムの記録は500万枚前後であったので、
そう云われれば本当かもしれないねぇ、と友人と苦笑したのである。
・・】


このように投稿していたのであるが、
政治・経済に疎(うと)い私は、齢ばかり重ねたボケた身と、
反省しながらも、恥じている・・。

・・】



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『春爛漫』の時節であるが、やはり読書に熱中し・・。

2009-04-07 10:17:36 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の身であるが、
ここ数日は春爛漫の陽気に恵まれ、
陽射しを眩(まぶ)しげに見つめたりしながら、喜んでいる。

今朝も6時過ぎに10度となり、昼下がりは20度前後、
そして夕暮れの6時は17度前後が予測され、
5月の中旬のような陽気かしら、と私は微笑んでいる。

日中は買物、散策をして、桜花の満開を誉めたり、
落葉樹の芽吹き、幼葉などを小躍りしながら歩いている。

こうした日々を過ごしているが、大半は読書をしている。


ここ数日は、映画雑誌の『1946~1996 キネマ旬報ベストテン全史』を読み返して、
敗戦後からの名作品を思いを馳せたりしていたり、
遅ればせながら佐野眞一・著の『遠い「山びこ」 ~無着成恭と教え子たちの四十年~』(新潮文庫)を
読んだりしている。

そして、読売新聞の読書の案内コーナーで、
小林竜雄・著の『久世光彦vs.向田邦子』(朝日新書)で知り、
私は本屋に買い求めに行ったりした。

私は向田邦子氏の遺(のこ)された作品の愛読者のひとりであり、
テレビの脚本も好感していた。
そして久世光彦氏の遺された随筆なども愛読している。


http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=10138


この朝日新書の解説に明記のように、
【・・
テレビドラマの黄金時代を駆け抜けた久世と向田。
2人は戦友でもライバルでもあった。

直木賞受賞ほどなく事故死した向田の死後、
久世は彼女に挑むがごとく小説を執筆する。

3年前に急死した久世の残したかった傑作とは、
彼女への思いとは。
知られざる2人のドラマ。
・・】
このように作品は紹介されている。
注)紹介の原文より、あえて改行を多くした。


私が過日、読売新聞の読書の案内コーナーで、読んだ記事もほぼ同様であり、
両氏の遺された作品に関心がある私としては、
最優先で読みはじめている・・。



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桜花を観賞した後、東北の南部地方に思いを馳(は)せれば・・♪

2009-04-06 17:07:43 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の身であるが、
春爛漫の陽気の中、昼過ぎから桜の満開を誉(ほ)めるために、
自宅周辺を三時間ばかり歩いた・・。

川沿いの遊歩道、駅周辺、そしてお墓参りまでしてしまい、
帰路は住宅街の少し外れた遊歩道を歩いたりしていた。
大半は満開の樹の下を歩き回ったりしていたが、
中には早くも散りはじめ、花びらが空中を舞いながら、
ゆったりと歩道に落ちていった・・。

帰宅後、煎茶を飲みながら、
私の周辺は、染井吉野(ソメイヨシノ)、山桜(ヤマザクラ)は今週で散り、
あとは数週間遅れで八重桜(ヤエザクラ)かしら、と思ったりしていた。

そして、これからは桜花は北上するので、
東北の南部地方にみじかな旅行でめぐり逢えた桜花に思いを馳せたりした。


私達夫婦は、2005年4月18日から1泊2日で、
東北の南部地方を桜めぐりの団体観光ツアーに参加した。

この時のみじかな旅については、あるサイトに於いて、
【 南東北桜めぐり紀行 】と題して、
投稿しているが、あえて再掲載をする。


【・・
『三春』の滝桜、『白石』の一目千本桜、『最上川』千本桜、
『長井』の久保桜を含めた6ヶ所の桜めぐり1泊2日のみじかな旅を
団体観光ツアーで訪ねる。

私達夫婦は東北地方の南部地方に、桜の季節を訪ねるのは初めてであり、
未知の空間となる。

    
郡山の近郊にある《三春の滝桜》は、一分咲きだった。

紅枝垂桜(べにしだれざくら)で樹齢千年以上いわれる大木で、
枝は支柱で支えら、里の中の斜面に忽然とあった。

見事な大木であったが、支柱に支えられるのを視ると、
痛ましいような感情をよぎった。

この桜の周辺は、樹齢50年以上の桜が30数本あり、
やはり一分咲きであったが、
清々しく、東北の遅い春を現(あらわ)していた。

肌寒かったが、観光客で賑わっていた。


その後、白石市のはずれにある白石川の川堤で、
数多くの染井芳野が七分咲きを見せていた。

観光客は少なく、市民の人たちで賑わっていた。

この川べりに7キロ近くわたって千本の白っぽくたわわな桜並木が続いている、
と市民の方から教えて頂く。

こうした情景を観ると、
地元に住まわれている市民の方たちの春の訪れを楽しまれているのに、
素朴な喜びを頂いた・・。


この地を後にして、宿泊先の蔵王温泉より高台にあるホテルに行くため、
スカイケーブルを乗り継いだ後、根雪が2メートル以上残っているので、
雪上車に乗る。

落葉したブナ林の中に、ホテルがあり、その周辺にドッコ沼があった。

浴室から、ブナの樹木を通し、
ドッコ沼が見え、根雪が沼に押し寄せていた。
雪解けのひとつの情景である。

       
早朝、部屋からドッコ沼を眺めた・・。
弱い朝陽がブナの樹木を照らし、
樹元の根雪は幾分薄く、少し離れた根雪は相変わらず厚く、
沼岸に押し寄せている。

沼の水面は、陽差しを受けて早春の漂いを見せていた・・。

ホテルをチェックアウト後、
スカイケーブルで下山する途中、蔵王温泉の街並みが快晴の陽だまりの中、
浮いているようだった。

バスの車窓からは、山形盆地の街並みが一望でき、
ここからの景観は何回見ても飽きない光景である。

盆地特有の山並みから緩やかな斜線の中での雑木林が観られ、
その山里には、切り開かれた畑があり、点在した人家が見られた。
盆地の底は、人家の多い街並みがあった。


最上川に面した白鷹町の付近にある河川岸にある千本桜は、
固いの蕾であった・・。
川の流れは急速で、ゆたかな清冷な流れでを見せてくれた。
やはりこの地は、東京の郊外より、
暦(こよみ)を一ヶ月もどしたような遠方な地であった。


長井市にある久保桜を観に行くため下車し、
歩き始めた時、田畑の道あぜの付近には、
土筆(つくし)、蓬(よもぎ)が見られた。
素朴な情景であったが、この後の江戸彼岸桜はどうでも良い、と思えた。

里の春の訪れを確かに受容できたので、
私は満足し、心が豊かになったことを自覚した。

久保桜は、一分咲きで樹齢千二百年の風格があったが、
先ほど見た土筆、蓬の方に、私は魅了された。

観光客は多く、地元の方が、この地で採れた蒟蒻(こんにゃく)を串刺しで、
烏賊(イカ)で味付けをしたのが、
家内はイカ味を工夫してあって美味しい、と言った。

私は地酒の試飲をした後、
純米酒は美味しくなく、やむ得ず原酒を買い求めた。


会津若松の鶴ヶ城公園の桜も、一分咲きであった。

その後、郡山の開成山公園に行き、満開の桜に出会ったのである。

桜はもとより、白木蓮、日陰の付近に辛夷(こぶし)咲き誇っており、
周辺一帯を白い花で染められていた・・。


旅の終わりに、たわわに咲く満開の桜の樹の下で、
家内と言葉を交わした。

『色々と観て廻ってきたが・・
ここで春一色とは・・予想もしなかったょ・・』
と私は家内に言葉をかけた。
・・】


このように投稿していたのであるが、
これからの時節、桜花はゆっくりと北上し、
東北の南部、北部、北海道の道南、そして道北地方を染めていく。
道北のオーホック海に面した地域は、5月の下旬の頃かしら、
と思いながら、
それぞれの地域を訪れた旅先の情景に思いを重ねたりしている。



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各地の桜花の情景の彩(いろど)り、我が家でお花見・・♪

2009-04-06 07:33:58 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の5年生の身であるが、
先ほど、いつものようにネットの【Yahoo! JAPAN】で地元の天気情報を見ていて、
朝の6時は7度、昼下がりは18度、夕暮れの6時で15度、
快晴の春爛漫の一日となる、
と明示はしていた。

私の住む地域も桜は満開となって折、
日中のひととき買物、散策の時、どの桜を誉めようかしら、
とぼんやりと思った・・。

この『地元の天気情報』の下段に、

【 お花見特集 2009
            みんなでつくる桜特集  】

と表示された欄をクイックしたら、


http://sakura.yahoo.co.jp/spot/list/13.html

【Yahoo! JAPAN
        お花見特集 2009
               みんなでつくる桜特集  】



全国の各地の桜花の状景が観られるのであるので、
私は微笑みながら、しばらく各地の状景を眺めていたのである。
そして、これほど解かりやすいガイドブックはないと、
笑ってしまったのである。

何より、こうして見たりしていると、
想像力を逞(たくま)しくすれば、日本の各地の桜花の情景の彩(いろど)りまで、
パソコンの置いてある一室でゆっくりと観ることができるので、
何かと便利で頼りになるガイドブックと確信している。



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『ネット利用者9000万人超…ブロードバンド利用73%』、齢を重ねた私は、思わず苦笑し・・。

2009-04-05 12:45:18 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
今朝、いつものように読売新聞を読んだ中で、
『ネット利用者9000万人超…ブロードバンド利用73%』と題された記事に、
思わず苦笑したのである・・。

幸い、ネットの【YOMIURI ONLINE】に於いて、
同一の記事であるので、転載させて頂く。

http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20090404-OYT1T01177.htm?from=main4

【・・
日本のインターネット利用者数(推計値)が初めて9000万人を超え、
4人に3人まで普及が進んでいることが4日、
総務省が今年1月に実施した通信利用動向調査(2008年末時点が調査対象)でわかった。


総務省によると、08年末のネット利用者数(6歳以上)は、
前年比280万人増の9091万人。

総人口(同)に占める利用者の割合も2・3ポイント上昇して75・3%。
利用端末別(複数回答)では、パソコンからの利用は8255万人と最多で、
携帯電話などによる利用が7506万人、
ゲーム機やテレビなどからの利用者も567万人に達した。


自宅でパソコンから利用している世帯を対象とした調査では、
ブロードバンド(高速大容量通信)回線を利用している割合は、
前年比5・8ポイント増の73・4%に達した。
ブロードバンド回線の利用者のうち光回線での利用は53・1%に達した。

ただ、日本のネットの利用者数は07年末時点で、米国、中国に次いで3位。
08年末時点の各国の最新の統計は出そろっていないが、
総務省によると日本は3位か4位程度で、ネットの普及率は10位前後とみられる。


調査は、20歳以上の世帯主がいる全国4515世帯から回答を寄せてもらい、
そのデータと国勢調査などを基に利用者数と普及率を推計した。
・・】
注)記事の原文にあえて改行を多くした。


我が家のインターネット導入時は、遅ればせながら私の定年退職時の少し前、
2004年の夏季であった。
以前から、ADSL回線を検討したが、私の住む所は電話局から遠方なので断念し、
光回線は余りにも高い価格であったので、迷っていた時、
J-COMの傘下の地元のケーブルテレビ会社が、我が家の門扉に近い電信柱で施設工事を行っていた。

私が訊ねると、電信柱まで光回線を施設し、
そこから各家庭までの配線は、通信速度が下り30メガ、上り2Mメガを目標とし、
ADSL回線よりも安定した高速回線で、価格も程ほどであったので、
私は加入することとした。
従って、プロバイダはJ-COM Netの30メガ・プレミアとしたのである。


翌年の春頃から、NTT東日本が、光フレッツの加入促進のキャンペーンに伴い、
我が家にも電話勧誘、チラシの広告が郵送されたり、そして新聞の折込チラシも入ったりしてきた。

光回線はもとより、ひかり電話もセットにすれば、
我が家のJ-COM Netとプシュフォン電話機の電話利用料金より、
料金面は廉(やす)くなる上、ネットの回線速度も早くなるので、
6月に加入したのである。

NTT東日本の光フレッツ対応の初期工事は無料となり、
プロバイダはニフティを選定したが、数ヶ月お得キャンペーンに便乗したので、
通信回線も実質50Mメガ前後となり、私は心の中で小躍りしたのである。

この間、私の肝要のパソコンが故障し、3年前に買い換え、
富士通のディスクトップの程ほどの高価な機種を愛用している。


私は年金生活の今は、ネットで原則としては毎日このサイトに投稿し、
ニュース、文化の本、音楽などの興味のあるサイトなどを検索したり、
ときおり国内旅行に行ったりしているので旅行情報、
そして、【YouTube】を開き、音楽を視聴しているので、
少なくとも数時間は毎日利用している。

家内はパソコンは苦手であり、もとよりキーの入力は出来できないが、
私がお気に入りに入れた観光先、ホテルなどの情報検索をしている。


我が家はネットに関しては、パソコンだけであり、
携帯電話は無念ながら使えないので、私達夫婦は保有していない。
そして、ケーム機は興味がないので、保有することなく、
ネットはパソコンが随一の命綱となっている。


余談であるが、ネットには関係がない話題として、
家内が何よりも喜んだのは、
私の定年退職前は家内のお気に入りであった旧態のダイヤル式の黒電話、
退職後まもなくプシュフォン電話機となり、
そして現状はひかり電話となったので、
驚くほど電話利用料金が廉(やす)くなったことである。




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