私の母が婦人系のガンで5年間に入退院を繰り返した後亡くなったのは、
平成10年の1月中旬であった。
母は都心から農家に嫁がれ、5人の子供を育て、父が亡くなったのは昭和28年の春だった。
祖父も父を追うように2ヶ月後に亡くなった。
残されたのは母と5人の子供、そして父の妹2人の未婚の叔母達であった。
私達子供といっても、長兄は中学生、末の妹は5歳足らずであった。
農家はある程度手広くしていたが、男手を失った農家は次第に衰退した。
私が中学生になった頃は、母はアパート経営をし、何とか人並みの生活となった。
そして5人の子を生育され、学校に通わせ、そして成人させ、巣立っていった。
母は老朽化したアバートを賃貸マンションに変貌させたのは、
昭和の終わりかけていたパブル期であった。
平成になると、『絹のブラウス・・思い切って買ったの・・』
と私に言ったりしていた。
『母さんさぁ・・自分の働きなの結果なのだから・・
遠慮することはないよ・・』
と私は言ったりしていた。
母の60数年間は、労苦の多い時期を過ごしたのだから、
子供の私としては、心底喜んでいた。
母は親族、親戚の交際には目配りを人一倍気をつける人であったが、
食にはそれ程興味はなく、衣服だけは拘(こだわ)っていた。
母の最期の10年は、後期の入退院もあったが、
はじめて充たされた生活を送られたと思う。
危篤の知らせを受けた私達は、数年前から覚悟があったので、
病室に駆けつけた時は、亡くなっていた。
私は何かしらぼっかりとした心持となったが、
実家の長兄宅に母が安置された時から、
兄妹、そして親族の人々と仮通夜、本通夜、告別式、そして初七日と調整したりした。
本通夜の日中から、東京では珍しい程、雪が本降りとなったりした。
四十九日を済ませた後、妹の2人と話合っている時、
『母さん・・私を忘れないで・・
と雪が降ってくれたのかなぁ・・』
と私は冗談まじりに話したりした。
お盆を迎える時、母の新盆に当たるので、私達は提灯のことで話し合った。
母の性格を思いだし、数多いより気品のある提灯を2つ飾ることにした。
妹に選別をまかせ、お盆の時、長兄宅に行った。
お盆用の仏間の一角に、薄い美濃紙に母の好きだった桔梗が描かれ、
うすうすと浮かびあがっていた。
平成10年の1月中旬であった。
母は都心から農家に嫁がれ、5人の子供を育て、父が亡くなったのは昭和28年の春だった。
祖父も父を追うように2ヶ月後に亡くなった。
残されたのは母と5人の子供、そして父の妹2人の未婚の叔母達であった。
私達子供といっても、長兄は中学生、末の妹は5歳足らずであった。
農家はある程度手広くしていたが、男手を失った農家は次第に衰退した。
私が中学生になった頃は、母はアパート経営をし、何とか人並みの生活となった。
そして5人の子を生育され、学校に通わせ、そして成人させ、巣立っていった。
母は老朽化したアバートを賃貸マンションに変貌させたのは、
昭和の終わりかけていたパブル期であった。
平成になると、『絹のブラウス・・思い切って買ったの・・』
と私に言ったりしていた。
『母さんさぁ・・自分の働きなの結果なのだから・・
遠慮することはないよ・・』
と私は言ったりしていた。
母の60数年間は、労苦の多い時期を過ごしたのだから、
子供の私としては、心底喜んでいた。
母は親族、親戚の交際には目配りを人一倍気をつける人であったが、
食にはそれ程興味はなく、衣服だけは拘(こだわ)っていた。
母の最期の10年は、後期の入退院もあったが、
はじめて充たされた生活を送られたと思う。
危篤の知らせを受けた私達は、数年前から覚悟があったので、
病室に駆けつけた時は、亡くなっていた。
私は何かしらぼっかりとした心持となったが、
実家の長兄宅に母が安置された時から、
兄妹、そして親族の人々と仮通夜、本通夜、告別式、そして初七日と調整したりした。
本通夜の日中から、東京では珍しい程、雪が本降りとなったりした。
四十九日を済ませた後、妹の2人と話合っている時、
『母さん・・私を忘れないで・・
と雪が降ってくれたのかなぁ・・』
と私は冗談まじりに話したりした。
お盆を迎える時、母の新盆に当たるので、私達は提灯のことで話し合った。
母の性格を思いだし、数多いより気品のある提灯を2つ飾ることにした。
妹に選別をまかせ、お盆の時、長兄宅に行った。
お盆用の仏間の一角に、薄い美濃紙に母の好きだった桔梗が描かれ、
うすうすと浮かびあがっていた。