私は東京郊外の調布市に住む年金生活の68歳の身であるが、
私が加入しているブログのランキングの『にほんブログ村』に於いて、
私が秘かに魅了された74名の50代から80代までの男性、女性のお方たちの投稿文を、
隠れキリシタンのように投稿されるたびに、深く読ませて頂いている。
或いはタイトルに魅せらて、思わず投稿文を読ませて頂いていることもあり、
こうした中で、昨日のひとつとして、
【学士会館 中へ・・・】と題された投稿文に、私はクリックした。
そして『小春日和♪ときどき森へ・・・~ by 華 ~ 』のお方の投稿文のひとつと解り、
添付された数々写真を見たりし、
http://blog.goo.ne.jp/cocoa3003/e/efc6f16e682d6c1db3fe4add27f11c89
☆『小春日和♪ときどき森へ・・・~ by 華 ~ 』<== 6月25日【学士会館 中へ・・・】☆
この最下段に《外から・・・は早々にUPしています》と明記されていたので、
私はクリックして、このお方の6月21日の【東京散歩・・・学士会館】も読ませて頂いた・・。
私は数々の写真を見たりして、最近の『学士会館』の情景も、確か38年前の頃と余り変わっていない、
と懐かしさもあり、長らく見惚(みと)れたりした・・。
私たち夫婦は、遠い昔の1976〈昭和51〉年の3月下旬に、
この『学士会館』で結婚式、その後に披露宴を挙げた処であった。
私が家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。
妹は1969〈昭和44〉年の秋に嫁ぐ前に長兄宅に同居していたが、
結婚後は義父母宅に同居することでなっていたので、
私は妹の新生活の準備の荷物を、幾たびか自動車で義父母宅の一室に運び入れたりした。
こうした時、義父と何かの時に、文學のことが話題となった。
この義父はある中堅の商事会社の監査役をしていたが、平素はこよなく文學を愛し、
余暇は10畳の書斎の中で過ごし、ある地方の文学誌に寄稿されている方であった。
私は文学青年の真似事をした時期もあったので、
やはり永井荷風(ながい・かふう)は群を抜いた文士でした、と私は言ったりすると、
この義父は微苦笑されながら、何かと私を可愛いがってくれた。
こうした縁で、この商事会社に勤めていたひとりの女性を紹介してくれたのは、
1975〈昭和50〉年の秋であり、
私たちは交際をはじめ、この年の12月15日に婚約するために、両家の結納となった。
その後、結婚日、結婚式場、新居の場所、荷物のことなどで、行き違いが発生して、
もとより人生初めてのことで私、そして新妻となる家内は大波にもまれたりした。
この中の結婚式場もひとつであった。
私たちは結納の前の交際時、私は余り結婚準備金がなく、
長兄のように結婚式場と名高い『椿山荘』は経費も要するので、
ホテルの小さな式場で結婚式を挙げれば・・、
このような意味合いの言葉を相手方の新妻となる女性に言ったりした。
こうした時、この女性は『会社の首脳の方が、学士会館も良い処、と言っていました・・』
と私に言い、
私は恥ずかしながら『学士会館』は未知の処であり、
その後に私なりに調べると、私は国立大学には縁がなく、私立大学の中退の身であったので、
困惑したした。
やむなく単細胞の私は、中途入社する時に、何かとご尽力を頂いたお方が東大法学部出身であったので、
このことを頼りに、新年早々、ご自宅に訪れて丁重に懇願した。
そして結婚式の後の披露宴は夜6時からが難題となった。
秋になった頃の土、日曜日の日中にすれば良いのに、結婚式、披露宴など夜に行うのは、
我が家の代々行わったことはありません、母に言われたり、
長兄、次兄からも言われたりした。
この当時の私は、音楽業界のあるレコード会社に勤め、
情報畑でシステム改定をしていたので多忙期であり、秋には軌道する予定であった。
私としては、新たなる新年度の4月から新妻と寝食を共にし、
桜の樹の下で散策することを夢にみていた私は、
結婚式場の学士会館の空白は、3月の最終一週間としては、この日しか空いていなかった。
こうした多事多難もあったりし、何とか私たちは3月下旬のある日、
学士会館で結婚式、そして披露宴と決定した。
この日の当日の朝は、激しく雨が降り、ときおり風が激しく吹く春の嵐のような状況であった。
この当時、私は小田急線と南武線の登戸の地域で、アパート経営をしていた母宅に同居していた。
そして前日まで会社で深夜勤務をしていたので、朝の9時過ぎに風呂に入ったりした。
髪の毛を洗ったり、髭(ひげ)を剃ったり、身体を清めていると、
夕方の4時45分から結婚式を挙げた後、披露宴は夜の6時であるが、
来て下さる方たちに余りにも悪天候なので、申し訳なく思い重ねたりしていた。
そして私のこれまでの幼年期からの素行が何かと悪かったので、
天上の気候の神々はこのような采配をされたと思いながら、
今後の結婚生活は大丈夫かしら、と少し不安化でもあった。
その後、調布市の片隅みに住んでいる生家の長兄宅に集合した後、
先発隊として私は、次兄の運転する自動車で末妹と共に3人で、
小降りなった中、都心の結婚式場の学士会館に向った。
そして首都高速道路から、シティ・ホテルのニューオータニが観え、
あすこに今晩泊まるのかょ、とぼんやりと思いながら、
披露宴に来て下さる方たちのひとりひとり、思い重ねたりしていた。
学士会館に3時半過ぎに着き、私たちは指定された控え室に行き、
まもなく長兄と義姉の夫婦と子供ふたり、そして長兄の自動車に同乗してきた母の姿も見え、
少しばかり家族間で談笑したりした。
その後、私は着付け室に移動した。
結婚式の1週間前になると、母は突然に思いつめたように、
『やはり・・貴方・・羽織(はおり)、袴(はかま)にしなくては・・おかしいわよ・・』
と母は私に言った。
私は当時はサラリーマンの5年生であり、和服を身に付けたことは少なく、
着慣れたスーツの代わりに、黒の礼服を着れば良いと思っていた。
『でもねぇ・・結婚式は羽織、袴にして、その後の披露宴のなかばで・・黒の礼服を着れば・・
そうして頂戴・・』
と母は私に言ったのである。
このようなこともあり、式場の着付け室で、
私と長兄が和服の着付けをして貰う予約をしていたので、
50代なかばの女性、そして40代と思われる2人の女性に着付けをはじめてくれた。
私の父は小学生の2年の時に病死されたので、
何かと父の代理として長兄が面倒を見てくれたりした。
長兄はこの中のリーダー格と思われる50代なかばの女性人に、寸志を手渡していた。
しばらくした後、
『お兄さま・・良いお召し物で・・ やはりある程度以上のものですと・・』
とこの女性は、兄の衣装を誉(ほ)めちぎっていた・・。
長兄は旧家であったので、日頃から着慣れ高価な紋付の羽織と袴を所有していたのである。
私の方は、借り物の《やや良い》の部類で、昔の通信簿だと『4』程度であった。
しばらくすると、長兄の着付けに何かと3人掛かりとなって、私の方は誰もいなくなった。
やむなく私は、
『本日の・・主役・・僕なのですが・・』
と中年の女性たちに聴こえる程度の小声で私は言った。
『あらぁ・・ご免なさい・・そうでしたわねぇ・・』
と40代と思われる2人の女性がきて、私の着付けをはじめた。
『主役の貴方・・スラっとしたお方で素敵ですが・・でも、少しタオルを当てましょうね・・』
とひとりの方が私に言った。
この当時の私は、体重は56キロ程度で、身長は170センチであった。
やがて私のお腹周辺にタオルを2枚あてがって、着付けをしてくれた。
着付けが終わると、私を大きな鏡の前に導いて、
『お似合いですわ・・』
とリーダー格と思われる50代なかばの女性が言った。
私は不馴れな羽織、袴はそぐわなく落ち着きを失った上、
明(あき)らかに誉(ほ)め倒されていると感じ、
『兄貴・・俺・・先に出て・・煙草を喫っているよ・・』
と私は長兄に大きな声で言った。
この後、私は不馴れな羽織、袴、そして扇子を持ちながら、
結婚式に参列して下さる新族、親戚の人たちと控え室で談笑した後、
結婚会場の進行担当者に導かれて、指定の4時45分に結婚式の式場に向った。
そして花嫁人形のような角隠しで白むくの容姿となった新妻となる人を見て、
この先の人生、どのような荒波があろうと私は・・、
と私は改めて思いながら緊張した。
そして神前結婚式の中で、おはらいなどを受けた後、
誓詞奏上で初めて見る誓詞を、今後の人生の責任感で緊張の余り、少し閊(つか)えて大きな声で述べたら、
隣の新妻がクスッと笑っているのが、私は聴こえたりした・・。
この後、披露宴が始まる6時まで、披露宴の控室にいる友人と談笑したり、上司に挨拶したり、
祖父の代からの交際のある近所の小父さんなどに挨拶していると、
披露宴の進行担当者から、控室に戻るように私は言われたした。
そして私たち夫婦は披露宴の会場に向った・・。
その後は媒酌人の挨拶、主賓の祝辞を頂いたり、各テーブルにキャンドルの点火をしたりした後、
私たちは、それぞれ色直しで退場した。
私は苦手な羽織、袴から解放されて黒の礼服に着替え、ほぼスーツと変わらないので、平常心となり、
まもなく愛(いとお)しい新妻と逢えば、水色のロングドレスとなり、
お似合いだょ、と私は言ったりし、余裕さえあった。
この後も、数多くの来賓の方たちから祝辞を受けながら、
私は照れ臭いので、お酒を呑みながら、料理も盛んに食べたりしていた。
そしてボーイさんは、私の空になった徳利、料理皿を見て、
次から次へと新たなる徳利、料理皿を持参してくれ、私は積極的に呑み、食べたりした。
横にいる新妻は、余り食べていないようで、ボーイさんが次の料理皿を待ちかねているようで、
私は下(さ)げて良いですよ、というしぐさをした後、
ボーイさんは安堵しながら皿を下げて、 新たな料理を新妻の前に置いたりした。
こうして余興、祝電を受けたり、花束記念品を私たち夫婦は、それぞれの母に捧げたり、
長兄が両家の代表謝辞を述べたり、友人のひとりが司会をして下さったので、
お開きの辞を述べたりしたのが確か8時半過ぎであった。
そして私たち夫婦と親は、披露宴に出席して下さった人が退場するのに、御礼を述べながら見送ったりした。
この後、私は新たなるプレイザー姿に着替えて、
学士会館前で私の友人、新妻の友人と談笑をした後、宿泊先のニューオータニに向った。
車中で、誰でも主役になれるのは、誕生、そして結婚式、やがて最後の死去する時、
と改めて実感させられながら、当人が意識できるのは結婚式だけだなぁ、と思ったりした。
そして参列してくれた友人のひとりが、翌年の春に学士会館で結婚式を挙げられ、
私も披露宴に出席し、フランス料理を気楽に頂いたりした。
このように学士会館は、結婚式、披露宴の申し込み、確認事項などで、
そして友人の披露宴などで、6回ぐらい行ったかしら、と私は思い馳せたりした。
尚、『小春日和♪ときどき森へ・・・~ by 華 ~ 』のサイトに於いて、
コメント欄がなく、やむなく無断で掲載させて頂いた。
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私は数々の写真を見たりして、最近の『学士会館』の情景も、確か38年前の頃と余り変わっていない、
と懐かしさもあり、長らく見惚(みと)れたりした・・。
私たち夫婦は、遠い昔の1976〈昭和51〉年の3月下旬に、
この『学士会館』で結婚式、その後に披露宴を挙げた処であった。
私が家内とめぐり逢えたのは、妹の嫁ぎ先の義父からの紹介であった。
妹は1969〈昭和44〉年の秋に嫁ぐ前に長兄宅に同居していたが、
結婚後は義父母宅に同居することでなっていたので、
私は妹の新生活の準備の荷物を、幾たびか自動車で義父母宅の一室に運び入れたりした。
こうした時、義父と何かの時に、文學のことが話題となった。
この義父はある中堅の商事会社の監査役をしていたが、平素はこよなく文學を愛し、
余暇は10畳の書斎の中で過ごし、ある地方の文学誌に寄稿されている方であった。
私は文学青年の真似事をした時期もあったので、
やはり永井荷風(ながい・かふう)は群を抜いた文士でした、と私は言ったりすると、
この義父は微苦笑されながら、何かと私を可愛いがってくれた。
こうした縁で、この商事会社に勤めていたひとりの女性を紹介してくれたのは、
1975〈昭和50〉年の秋であり、
私たちは交際をはじめ、この年の12月15日に婚約するために、両家の結納となった。
その後、結婚日、結婚式場、新居の場所、荷物のことなどで、行き違いが発生して、
もとより人生初めてのことで私、そして新妻となる家内は大波にもまれたりした。
この中の結婚式場もひとつであった。
私たちは結納の前の交際時、私は余り結婚準備金がなく、
長兄のように結婚式場と名高い『椿山荘』は経費も要するので、
ホテルの小さな式場で結婚式を挙げれば・・、
このような意味合いの言葉を相手方の新妻となる女性に言ったりした。
こうした時、この女性は『会社の首脳の方が、学士会館も良い処、と言っていました・・』
と私に言い、
私は恥ずかしながら『学士会館』は未知の処であり、
その後に私なりに調べると、私は国立大学には縁がなく、私立大学の中退の身であったので、
困惑したした。
やむなく単細胞の私は、中途入社する時に、何かとご尽力を頂いたお方が東大法学部出身であったので、
このことを頼りに、新年早々、ご自宅に訪れて丁重に懇願した。
そして結婚式の後の披露宴は夜6時からが難題となった。
秋になった頃の土、日曜日の日中にすれば良いのに、結婚式、披露宴など夜に行うのは、
我が家の代々行わったことはありません、母に言われたり、
長兄、次兄からも言われたりした。
この当時の私は、音楽業界のあるレコード会社に勤め、
情報畑でシステム改定をしていたので多忙期であり、秋には軌道する予定であった。
私としては、新たなる新年度の4月から新妻と寝食を共にし、
桜の樹の下で散策することを夢にみていた私は、
結婚式場の学士会館の空白は、3月の最終一週間としては、この日しか空いていなかった。
こうした多事多難もあったりし、何とか私たちは3月下旬のある日、
学士会館で結婚式、そして披露宴と決定した。
この日の当日の朝は、激しく雨が降り、ときおり風が激しく吹く春の嵐のような状況であった。
この当時、私は小田急線と南武線の登戸の地域で、アパート経営をしていた母宅に同居していた。
そして前日まで会社で深夜勤務をしていたので、朝の9時過ぎに風呂に入ったりした。
髪の毛を洗ったり、髭(ひげ)を剃ったり、身体を清めていると、
夕方の4時45分から結婚式を挙げた後、披露宴は夜の6時であるが、
来て下さる方たちに余りにも悪天候なので、申し訳なく思い重ねたりしていた。
そして私のこれまでの幼年期からの素行が何かと悪かったので、
天上の気候の神々はこのような采配をされたと思いながら、
今後の結婚生活は大丈夫かしら、と少し不安化でもあった。
その後、調布市の片隅みに住んでいる生家の長兄宅に集合した後、
先発隊として私は、次兄の運転する自動車で末妹と共に3人で、
小降りなった中、都心の結婚式場の学士会館に向った。
そして首都高速道路から、シティ・ホテルのニューオータニが観え、
あすこに今晩泊まるのかょ、とぼんやりと思いながら、
披露宴に来て下さる方たちのひとりひとり、思い重ねたりしていた。
学士会館に3時半過ぎに着き、私たちは指定された控え室に行き、
まもなく長兄と義姉の夫婦と子供ふたり、そして長兄の自動車に同乗してきた母の姿も見え、
少しばかり家族間で談笑したりした。
その後、私は着付け室に移動した。
結婚式の1週間前になると、母は突然に思いつめたように、
『やはり・・貴方・・羽織(はおり)、袴(はかま)にしなくては・・おかしいわよ・・』
と母は私に言った。
私は当時はサラリーマンの5年生であり、和服を身に付けたことは少なく、
着慣れたスーツの代わりに、黒の礼服を着れば良いと思っていた。
『でもねぇ・・結婚式は羽織、袴にして、その後の披露宴のなかばで・・黒の礼服を着れば・・
そうして頂戴・・』
と母は私に言ったのである。
このようなこともあり、式場の着付け室で、
私と長兄が和服の着付けをして貰う予約をしていたので、
50代なかばの女性、そして40代と思われる2人の女性に着付けをはじめてくれた。
私の父は小学生の2年の時に病死されたので、
何かと父の代理として長兄が面倒を見てくれたりした。
長兄はこの中のリーダー格と思われる50代なかばの女性人に、寸志を手渡していた。
しばらくした後、
『お兄さま・・良いお召し物で・・ やはりある程度以上のものですと・・』
とこの女性は、兄の衣装を誉(ほ)めちぎっていた・・。
長兄は旧家であったので、日頃から着慣れ高価な紋付の羽織と袴を所有していたのである。
私の方は、借り物の《やや良い》の部類で、昔の通信簿だと『4』程度であった。
しばらくすると、長兄の着付けに何かと3人掛かりとなって、私の方は誰もいなくなった。
やむなく私は、
『本日の・・主役・・僕なのですが・・』
と中年の女性たちに聴こえる程度の小声で私は言った。
『あらぁ・・ご免なさい・・そうでしたわねぇ・・』
と40代と思われる2人の女性がきて、私の着付けをはじめた。
『主役の貴方・・スラっとしたお方で素敵ですが・・でも、少しタオルを当てましょうね・・』
とひとりの方が私に言った。
この当時の私は、体重は56キロ程度で、身長は170センチであった。
やがて私のお腹周辺にタオルを2枚あてがって、着付けをしてくれた。
着付けが終わると、私を大きな鏡の前に導いて、
『お似合いですわ・・』
とリーダー格と思われる50代なかばの女性が言った。
私は不馴れな羽織、袴はそぐわなく落ち着きを失った上、
明(あき)らかに誉(ほ)め倒されていると感じ、
『兄貴・・俺・・先に出て・・煙草を喫っているよ・・』
と私は長兄に大きな声で言った。
この後、私は不馴れな羽織、袴、そして扇子を持ちながら、
結婚式に参列して下さる新族、親戚の人たちと控え室で談笑した後、
結婚会場の進行担当者に導かれて、指定の4時45分に結婚式の式場に向った。
そして花嫁人形のような角隠しで白むくの容姿となった新妻となる人を見て、
この先の人生、どのような荒波があろうと私は・・、
と私は改めて思いながら緊張した。
そして神前結婚式の中で、おはらいなどを受けた後、
誓詞奏上で初めて見る誓詞を、今後の人生の責任感で緊張の余り、少し閊(つか)えて大きな声で述べたら、
隣の新妻がクスッと笑っているのが、私は聴こえたりした・・。
この後、披露宴が始まる6時まで、披露宴の控室にいる友人と談笑したり、上司に挨拶したり、
祖父の代からの交際のある近所の小父さんなどに挨拶していると、
披露宴の進行担当者から、控室に戻るように私は言われたした。
そして私たち夫婦は披露宴の会場に向った・・。
その後は媒酌人の挨拶、主賓の祝辞を頂いたり、各テーブルにキャンドルの点火をしたりした後、
私たちは、それぞれ色直しで退場した。
私は苦手な羽織、袴から解放されて黒の礼服に着替え、ほぼスーツと変わらないので、平常心となり、
まもなく愛(いとお)しい新妻と逢えば、水色のロングドレスとなり、
お似合いだょ、と私は言ったりし、余裕さえあった。
この後も、数多くの来賓の方たちから祝辞を受けながら、
私は照れ臭いので、お酒を呑みながら、料理も盛んに食べたりしていた。
そしてボーイさんは、私の空になった徳利、料理皿を見て、
次から次へと新たなる徳利、料理皿を持参してくれ、私は積極的に呑み、食べたりした。
横にいる新妻は、余り食べていないようで、ボーイさんが次の料理皿を待ちかねているようで、
私は下(さ)げて良いですよ、というしぐさをした後、
ボーイさんは安堵しながら皿を下げて、 新たな料理を新妻の前に置いたりした。
こうして余興、祝電を受けたり、花束記念品を私たち夫婦は、それぞれの母に捧げたり、
長兄が両家の代表謝辞を述べたり、友人のひとりが司会をして下さったので、
お開きの辞を述べたりしたのが確か8時半過ぎであった。
そして私たち夫婦と親は、披露宴に出席して下さった人が退場するのに、御礼を述べながら見送ったりした。
この後、私は新たなるプレイザー姿に着替えて、
学士会館前で私の友人、新妻の友人と談笑をした後、宿泊先のニューオータニに向った。
車中で、誰でも主役になれるのは、誕生、そして結婚式、やがて最後の死去する時、
と改めて実感させられながら、当人が意識できるのは結婚式だけだなぁ、と思ったりした。
そして参列してくれた友人のひとりが、翌年の春に学士会館で結婚式を挙げられ、
私も披露宴に出席し、フランス料理を気楽に頂いたりした。
このように学士会館は、結婚式、披露宴の申し込み、確認事項などで、
そして友人の披露宴などで、6回ぐらい行ったかしら、と私は思い馳せたりした。
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