夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『おじさ~ん・・イェ~イ!!』と私は励まされて・・。

2010-05-14 17:00:29 | 現役サラリーマン時代の想いで
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の65歳の身であるが、
民間会社のサラリーマンを卒業した身であり、
現役時代を振り返る時、どなた様も体験されたと思うが、
その時、思いもよらない人たちから私は激励の言葉を受けたりした。


私は東京オリンピックが開催された時に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をし、先行きの見えないような彷徨(ほうこう)した5年を過ごした後、
ある民間の大手企業に何とか中途入社した後、
まもなくレコード会社に転籍させられた。
もとよりレコード会社は中小業であり、この音楽業界に35年ばかり勤めたが、
最後の5年間が決まった時、私なりの人生のターニング・ポイントのひとつと成った。


私の勤めていたあるレコード会社は、業界全体の売上げピークは1998(平成10)年で、
この前後は、各社が社内業務の見直し、組織の大幅な改定、グループ会社内の統廃合、
そして資本による合併などが行われたりした。

これに伴ない、正社員のリストラが行われ、
人事配置転換による他部門の異動、出向、早期退職優遇制度により退職が行われた。


私は1970(昭和45)年の中途入社であったが、
この頃の時代の風潮としては、多くのお方と同様に、
この会社で定年の60歳まで勤め上げて、
私なりの人生設計を持っていた。

そして激動の1998(平成10)年の前後、
先輩、同僚、後輩の一部の人が、第二の人生を選択し、
早期退職優遇制度に申請を出されていたが、
私は定年まで勤め上げる思いが強くあったので、彼等の決断を見送っていた。

その後、1999(平成11)年の新春、
私は人事担当の取締役から、出向の話を打診された時、
《何で・・俺が・・》
と思いがあった。

周囲の人事異動が激しく行われていた時期であったので、
ある程度の人事の異動が覚悟していたが、
出向とは予測もしていなかったのが本音であった・・。


私は出向を受け入れ、取引会社のひとつに勤めはじめた。
出向身分は、会社に直接に貢献できる訳もなく、まぎれなく戦力外なので、
屈辱と無念さが入り混じ、失墜感があったのである。

出向先は神奈川県の東名高速道路に隣接した所にある物流会社の本社であった。
この物流会社は全国の主要基点に物流センターを設置し、
音楽商品のレコード、カセット、CD等、映像商品としてビデオテープ、DVD等を運営管理している。
そしてそれぞれの物流センターは、
販売店からの日毎の受注に応じた出荷や返品を含めた商品の出入り、保管などの業務管理を行っている。

私はこの中のひとつの物流センターに通ったが、
センター長をはじめとする正社員の5名の指示に基づいて、
若手の男性の契約社員、アルバイトの10名、
30代と40代の多い女性のパートの100名前後の職場であった。

それまでの私は、殆ど30年近く都心の本社勤めで、
いろいろな部門を異動してきたが、もとより男性社員はじめ、多くの女性正社員、契約社員と職場を共にしたが、
こうした物流センターの職場環境には戸惑ったりした。

そして通勤時間帯も大幅に変貌したのである。
それまでの都心の本社は9時半が始業時であり、私は8時に家を出て、
少なくとも30分前後に出社していた。

物流センターは原則として9時の始業時であったが、
曜日によっては実質8時からであり、その前の事前準備などをが配慮すると7時半過ぎとなっていた。
退社できるのも曜日によって異なり、大半は7時前後であり、
私の通勤時間は1時間半は要していた。

私の通勤の最寄り駅は、小田急線の『成城学園前』で、
自宅から始発のバスに乗り、この駅から下りの電車で『本厚木』まで利用した後、
バスに乗り継いで、各諸業種の物流倉庫が建ち並ぶ場所へと通ったのである。

都心の本社に通っていた時代からすれば、まさに都落ちの心情であった。


通勤はじめて半年ぐらいは、センター長のご厚意で、
私の出社は8時半となった。
最初の頃、現場を学ぶために、倉庫の中を歩き商品配列を覚えたり、
急ぎの商品を手配したり、移動させたりすると、
不慣れとそれまでの本社はデスク・ワークばかりしてきた私は、
退社後は疲労困憊となっていた。

こうした時、確か週末の金曜日か土曜日になると、
明日は休みだ、と思いながら、『本厚木』の駅近くのバス・ターミナルでバスを下車した後、
小田急線の『本厚木』の駅に向う途中に長いアーケード街を歩き、
この中のある居酒屋に寄ったのである。


確か物流センターに通いはじめて数週間と記憶している。
一軒の小さな居酒屋に9時過ぎに入っていたのであるが、
お客さんが2人の男性客が差し向かいとなっているだけであった。

私は片隅の席に座り、注文に取りに若い女性に、
地酒を弐合とおつまみとしてふた品をお願いした。
私は弐合徳利を傾け、ぐい呑みに注(そそ)ぎ、少し呑んだ後、
おつまみの焼き魚を食べたり、煙草を喫ったりした。

そして、心身共々の一週間の悪戦苦闘が終った、と疲労困憊となったりしていたが、
安堵したりした。
この後、私は通勤のアタシュ・ケースの中から、
持参しているCDアルバムの五枚から、一枚を選定した後、
CDウォークマンをセットし、聴きはじめた・・。

この後、私は弐合徳利のお代わりを注文し、
運ばれてきた若い女性から、
『何を聴いて・・いらしゃいますの・・』
と私は訊(たず)ねられた。

私はイヤホーンを外して、
『ここ一年はX-JAPANが多いけれど・・中島みゆきもよく聴くよ・・』

確かこのように私は云ったりし、たまたまこの若い女性が中島みゆきのファンであったので、
お客さんが少なかったせいか、私達は10分ぐらい談笑した・・。

この若い女性は、小田急沿線にある大学に通われ、
アルバイトとして、友人と共にこの居酒屋に週三回勤務している、
と私は教えられた。

私の疲労困憊の疲れきった表情、そして落胆している表情も隠し切れず、
『都落ちで・・この本厚木も不慣れでねぇ・・』
とこのようなことを私は云ったりしたと思われる・・。


この後、終電の一時間前に私はこの居酒屋を辞して、
駅の改札口に向かい歩き出した。

この直後、後ろから、
『おじさ~ん・・イェ~イ!!』
と先程の大学生が友人と共に、右手を高く掲げて、私に大声で云った。

私は驚きながら、右手を少し振りかざして、応(こた)えた。


その後、この居酒屋は店じまいされて、新たな店となり、
ふたたびこの大学生の女性とは逢うことはなかった・・。

私は半年後、この出向先の物流センターに馴染み、
精進しながら、定年退職までの5年間を勤めた。

この間、このアーケードを通り過ぎると、
ときおり私は励まされた大学生の女性の表情と
しぐさを思い出されることがあった。

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