先程、配達された読売新聞のある記事を読んで、ため息をついた・・。
かってアメリカをはじめとする自由陣営と
ソビエトが中核となす社会共産陣営があり、
第二次世界大戦後、しばらくした後に成立され、
世界各国がどちらかの陣営に属する色分けとなった。
10数年前、ソビエトが崩壊されるまで、中華人民共和国は別扱いとしても、
長い歳月にこのような色分けとなっていた。
こうした大国の怜悧に国益という大義の下で、
世界各国の多くの民衆の家族は、虐殺されたり、飢え死にされたり、
或いは悲惨な日々を過ごされた悲劇を私は小説・随筆で読んだり、
映画で観たり、そして親戚、知人から教えられたりしてきた。
今回の新聞記事もこうした状況で翻弄された家族を思考した。
こうした大国の怜悧な国益の中で、
翻弄された事実は、多くの方に知って頂きたいので、
あえて無断であるが、新聞記事を転載させて頂きます。
読売新聞の【交差点】というコーナーであり、
永野哲也・記者の綴られた記事である。
【
自宅のピアノの上に、一冊の本が置いてある。
『海峡のアリア』。
声楽家の田月仙(チョン・ウォルソン)さん(49歳)(東京都新宿区)が、
家族の人生をつづった作品だ。
『母の訴えを埋もれさせたくなかった』。
彼女は静かな語る。
1957年、東京・立川で生まれた。
両親は朝鮮半島出身の在日一世。
高校まで朝鮮学校で過ごし、音大を卒業後1983年に歌手デビューを果たした。
2年後、当時の金日成・主席の誕生日を祝う公演に、
出演者の一人として招待された。
悩んだ末に初めて訪れた北朝鮮。
かって崇拝の対象と教えられた主席は、既に『独裁者』のイメージしかなかったが、
それでも招待に応じた大きな理由は兄達に会うことだった。
子供の頃、母が部屋の隅で古びた写真を見つめているのを何度か目にした。
4人の若い男性が写っていた。
それが兄だと明かされたのは高校生の時だ。
1959年に始まった帰還事業。
『地上の楽園』と宣伝された北朝鮮に多くの在日朝鮮人や日本人妻が渡った。
兄達も希望を抱いて船に乗った。
田さんがまだ2歳だった。
長らく音信が途絶えていた息子達に会おうと、
母が北朝鮮に渡ったのは1980年。
そこで目にしたのは変わり果てた我が子の姿だった。
4人は1969年、いわれのないスパイ容疑で強制収容所に送られ、
二男は翌年に亡くなった。
3人は9年後に収容所から出たが、過酷な生活で体がむしばまれていた。
帰還事業で北に渡った人の窮状について、日本に残った家族が語ることは少ない。
しかし、母は帰国後、経営していた韓国料理店の客や知人に息子達のことを語り始めた。
そんな母の話を聞いていた田さんは、
主席の前で歌った数日後に、兄達と会った。
ぽつりぽつりと暮らしぶりを話す姿に胸が締め付けられた。
『すべての悲劇のもとは、朝鮮半島の分断にある』。
母はいつもそう語っていた。
田さんも、いつしか朝鮮半島の統一を願う歌を唄うようになった。
長男と三男はその後、亡くなったという知らせが届いた。
四男は音信がない。
母は一昨年2月、長い入院生活の末に病死した。
この年の暮れに田さんはパソコンに向かい、兄や母の無念を詳細に綴った。
『事実を伝えたい』という一心で書き上げた本は、
昨年の小学館ノンフィクション大賞優秀賞に選ばれた。
《兄達が命に代えて私に残した真実を、決して忘れない》。
同書の文末にはこう記されている。
】
以上、長々と転記したが、
こうした大国の国益の身勝手な論理から朝鮮半島は分断され、
北朝鮮、韓国が現在もあるが、
こうした国家の民衆は数多くの悲惨で悲劇が歴史の歳月の中で
埋もれているのが、現実である。
たまたま私は東京の郊外の日本人の両親の農家の子として生を受け、
日本人として、なまぬるい歳月で育成されて感謝はしているが、
ほんの一歩他国に入った時は、
それぞれの国情の怜悧な国益に無知ではいられない、
と再認識をしたりしている。
かってアメリカをはじめとする自由陣営と
ソビエトが中核となす社会共産陣営があり、
第二次世界大戦後、しばらくした後に成立され、
世界各国がどちらかの陣営に属する色分けとなった。
10数年前、ソビエトが崩壊されるまで、中華人民共和国は別扱いとしても、
長い歳月にこのような色分けとなっていた。
こうした大国の怜悧に国益という大義の下で、
世界各国の多くの民衆の家族は、虐殺されたり、飢え死にされたり、
或いは悲惨な日々を過ごされた悲劇を私は小説・随筆で読んだり、
映画で観たり、そして親戚、知人から教えられたりしてきた。
今回の新聞記事もこうした状況で翻弄された家族を思考した。
こうした大国の怜悧な国益の中で、
翻弄された事実は、多くの方に知って頂きたいので、
あえて無断であるが、新聞記事を転載させて頂きます。
読売新聞の【交差点】というコーナーであり、
永野哲也・記者の綴られた記事である。
【
自宅のピアノの上に、一冊の本が置いてある。
『海峡のアリア』。
声楽家の田月仙(チョン・ウォルソン)さん(49歳)(東京都新宿区)が、
家族の人生をつづった作品だ。
『母の訴えを埋もれさせたくなかった』。
彼女は静かな語る。
1957年、東京・立川で生まれた。
両親は朝鮮半島出身の在日一世。
高校まで朝鮮学校で過ごし、音大を卒業後1983年に歌手デビューを果たした。
2年後、当時の金日成・主席の誕生日を祝う公演に、
出演者の一人として招待された。
悩んだ末に初めて訪れた北朝鮮。
かって崇拝の対象と教えられた主席は、既に『独裁者』のイメージしかなかったが、
それでも招待に応じた大きな理由は兄達に会うことだった。
子供の頃、母が部屋の隅で古びた写真を見つめているのを何度か目にした。
4人の若い男性が写っていた。
それが兄だと明かされたのは高校生の時だ。
1959年に始まった帰還事業。
『地上の楽園』と宣伝された北朝鮮に多くの在日朝鮮人や日本人妻が渡った。
兄達も希望を抱いて船に乗った。
田さんがまだ2歳だった。
長らく音信が途絶えていた息子達に会おうと、
母が北朝鮮に渡ったのは1980年。
そこで目にしたのは変わり果てた我が子の姿だった。
4人は1969年、いわれのないスパイ容疑で強制収容所に送られ、
二男は翌年に亡くなった。
3人は9年後に収容所から出たが、過酷な生活で体がむしばまれていた。
帰還事業で北に渡った人の窮状について、日本に残った家族が語ることは少ない。
しかし、母は帰国後、経営していた韓国料理店の客や知人に息子達のことを語り始めた。
そんな母の話を聞いていた田さんは、
主席の前で歌った数日後に、兄達と会った。
ぽつりぽつりと暮らしぶりを話す姿に胸が締め付けられた。
『すべての悲劇のもとは、朝鮮半島の分断にある』。
母はいつもそう語っていた。
田さんも、いつしか朝鮮半島の統一を願う歌を唄うようになった。
長男と三男はその後、亡くなったという知らせが届いた。
四男は音信がない。
母は一昨年2月、長い入院生活の末に病死した。
この年の暮れに田さんはパソコンに向かい、兄や母の無念を詳細に綴った。
『事実を伝えたい』という一心で書き上げた本は、
昨年の小学館ノンフィクション大賞優秀賞に選ばれた。
《兄達が命に代えて私に残した真実を、決して忘れない》。
同書の文末にはこう記されている。
】
以上、長々と転記したが、
こうした大国の国益の身勝手な論理から朝鮮半島は分断され、
北朝鮮、韓国が現在もあるが、
こうした国家の民衆は数多くの悲惨で悲劇が歴史の歳月の中で
埋もれているのが、現実である。
たまたま私は東京の郊外の日本人の両親の農家の子として生を受け、
日本人として、なまぬるい歳月で育成されて感謝はしているが、
ほんの一歩他国に入った時は、
それぞれの国情の怜悧な国益に無知ではいられない、
と再認識をしたりしている。