夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

岩崎時子さん、たった一晩で名曲『愛の賛歌』を訳詞されたと知り、改めて敬意を重ねて・・。

2012-04-05 13:48:14 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む年金生活の67歳の身であるが、
家内は過ぎし4月1日より独り住まいとなっている家内の母宅に、
季節の変わり目の支度を孤軍奮闘で行う為に、7泊8日で行っているので、
この間、私としては『おひとりさま』の生活となっている。

昨日の夜遅くビールを吞みながら夕食を食べたりして、
テレビでNHKの番組を視聴し始めたら、
【 歴史秘話ヒストリア 】の定例番組に於いて、
『 歌え!友情の“愛の讃歌~異色の宝塚スター越路吹雪と岩谷時子 』と題した番組が放送されていた。

私は苦手な越路吹雪さんかょ、と思い、テレビを視聴するのは止めようとしていたら、
何かしら作詞家の岩谷時子さんらしき人が出ていたので、番組を見続けた・・。

番組の内容は、NHKの解説に寄ると、
《・・
昭和の名曲『愛の讃歌』。その誕生の裏には宝塚歌劇で出会った二人の女性の秘話があった。
歌姫・越路吹雪と作詞家・岩谷時子、二人の知られざる友情のドラマ。

今から60年前、昭和の歌謡史に残る名曲が生まれた。
今も多くの歌手に歌い継がれている「愛の讃歌」。歌ったのはタカラヅカ出身の越路吹雪。
もともとフランス語の歌詞を訳したのは「君といつまでも」や「恋のバカンス」などのヒット曲で知られる作詞家・岩谷時子。
2人は宝塚歌劇を通じて運命的に出会った生涯の親友だった。
戦争の時代を支え合い乗り越えた2人が、戦後、新しい歌の世界を切り開いていく青春の日々を描く。
・・》
このような内容であるが、齢ばかり重ねた私でも、何よりも驚いたのは、
『愛の讃歌』の訳詩の創作の秘話であった。

越路吹雪さんが初めて大きな舞台で翌日に唄う時に、
編曲を担当された黛 敏郎さんを囲んで『愛の讃歌』を検討し始めた・・。
もとより『愛の讃歌』は、エディット・ピアフ の 名曲のひとつであり、
作詞・エディット・ピアフ、作曲・マルグリット・モノー基で、1950年5月にエディット・ピアフがレコーディグされ、
シャンソンを代表する曲として各国から親しまれている曲である。
そして唄われた原曲の作詞を直訳すると、

♪愛のためなら宝物を盗んだり
 自分の国や友達を見捨てたりする

このような内容であり、日本の方には余りにもなじめなく抵抗感があるので、
越路吹雪さんのマネージャーもしていた岩谷時子さんが、ひと晩徹夜をして、
私たちに聴いている有名な訳詩が誕生したこと、この番組から学んだ。

岩谷時子さんは1939年に神戸女学院大学部英文科卒業された後、
宝塚歌劇団出版部に就職され、月刊誌『歌劇』の編集長を務めていた。
この間、ためため編集部にやってきた当時15歳の越路吹雪さんとめぐり逢い、二人は意気投合し、
何かと越路吹雪さんの相談相手となる。
そして越路吹雪さんが宝塚を退団して歌手になりたいと相談した時、岩谷時子さんも退職を決意し、
共に上京し、越路吹雪さんが付き人を務めた。

そして 1951年から1963年までは東宝文芸部に所属しながら、越路吹雪さんをサポートし、
越路吹雪さんが死去するまでの約30年間、マネージャーとして強い信頼関係で支え続けたことは、
今や伝説となっている。

越路吹雪さんが大きく飛躍された原点は、この『愛の讃歌』の歌であり、
たった一晩で訳詩された岩谷時子さんの言霊(ことだま)の引き寄せは、
文學少女からの長年の言霊(ことだま)の蓄積に寄るものでものかしら、と思ったりした。

小説の世界で、たとえば浅田次郎さんが、
『小説すばる』の1995年11月号に掲載した『鉄道員(ぽっぽや)』の短編は、
一晩で書き上げた、と伝説があるが、
これは浅田次郎さんがあらがじめ構想されで、その日の一晩で執筆された、
と私は解釈している。


今回、越路吹雪さんと岩谷時子さんは、二人三脚のような形で、
この『愛の讃歌』の歌で大きく飛躍され、越路吹雪さんは大歌手の道を切り拓いた。
そして岩谷時子さんは作詩家、訳詩家として、もとより越路吹雪さんの歌を始め、
多くの歌い手に寄稿されヒット曲を重ねてきた。

私は歌に関しては、楽譜も読めなく、楽器のひとつも触れことがないので、
やむなく感性で音楽を聴いているので、越路吹雪さんの偉大さは、解らない。
こうした中で、私は若き頃の一時期に文學青年の真似事をしたので、
何よりも言霊(ことだま)を信愛しているので、岩谷時子さんの数多くの名曲には敬愛をしてきた。

番組を終わった後、『愛の讃歌』の歌が当時から絶賛され続け、
これまでのシャンソン分野に於いて、シャンソン・ファンしか知らなかった名曲の数々を、
越路吹雪さんと岩谷時子さんのお二人が、多くの日本の国民に、
数多くのシャンソンの歌を広めたことは、もとより功績のひとつである。


私は26歳を迎えた頃、それまでのシャンソンの知識としては、
越路吹雪、岸洋子さんぐらいは知っていた。
本場のシャンソンとしては、
ダミアの『暗い日曜日』は、私の先代の人たちが夢中になったり、
ジュリエット・グレコとか、やはりエディット・ピアフに尽きる、
とかはあくまで知識としての範囲であった。

この当時、たまたまバルバラの『私自身のためのシャンソン』アルバムのレコードで、
この中の『ナントに雨が降る』の歌を知り、
私の屈折の多い青春と私の父親を小学2生に死去された想いが加味され、
瞬時に魅了されてたのである。

そして、私はバルバラの魔力にとりつかれて、
アルバムを買い求めたりし、この当時12枚のアルバムから、盛んに聴いたりした。

この間、銀座の外れにシャンソンの殿堂として名高い『銀巴里』に通ったりし、
日本のそれぞれシャンソン歌手が唄われるのを、聴き惚れたりした。

そして、この行き帰りに、ヤマハの銀座店に寄ったりして、
数多くのシャンソンを唄われる方たちのレコードを購入したり、
数年過ぎると、私の自宅のレコード棚は、シャンソンのアルバムだけでも、
少なくとも100枚は超えていた。

やがて、バルバラ自身が、『黒いワシ』の異色作品を携え、日本に来日した。
日生ホールで公演され、私は駆けつれて、観たのである。

いずれにしても、このバルバラの『ナントに雨が降る』が
シャンソンに傾倒する10年の始まりで、熱愛した時期もあったりした・・。


このような私のささやかな思いでもさることながら、
深夜のひととき私は、岩谷時子さんが作詩、訳詩された数多くの歌い手に寄稿されたヒット曲を重ねた歌を
思い浮かべたりし、
改めて敬意を重ねたりした。


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コメント (3)
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