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夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

年金生活まもなく丸10年を迎える中で、何よりも困窮したことは・・。

2014-08-29 07:53:05 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
私は定年後の年金生活を始めて、まもなく丸10年を迎えるが、
先程ぼんやりと年金生活を過ごしてきた中で、一番困窮したことは・・と思い馳せたりしたした・・。

やがて困窮したことは、この出来事が何よりも困ったよなぁ、と独り苦笑したりした。

私が初めてパソコンを購入したのは、 確か1983年(昭和58年)の頃であったと思われ、
NECのPC8801だったと記憶している。

そしてフロッピー・ディスク装置、プリンター、この当時は漢字の表示が出来なかったので、
やむえなく漢字対応させる為に漢字ロムを付加させたりしたので、
この当時の私の年収の15%ぐらいで、住宅ローンの返済もあったので、
私としては高価なパソコン・セットであった。

そしてベーシック言語でプロクラムを書いたりして、この当時はネットの世界が一般の方に普及していなく、
独学の勉強のひとつとして、新古今和歌集を入力したりしていた。

        
その後、1998年(平成10年)の夏に、会社と自宅で使うので、買い改めたりした。
ノートパソコンで『ウィンドウズ 98』の基本ソフトであり、たまたま富士通を選定し、
この当時は付属の記憶装置はフロッピーであった。

そして自宅の居間で、表計算ソフトを活用して、会社の資料を作ったり、
或いは日記ソフトを買い求めて、私自身の日記を書いたりしていた。
         

やがて2001年(平成13年)の秋になると、定年退職時が2004年(平成16年)の秋であったので、
定年後の生活に備えてパソコンを一新した。
          

この当時はウィンドウズ旋風の中で、ウィンドウズの基本システムは
『ウィンドウズXP』であり、たまたま富士通のディスクトップのタワー型を選定した。

そしてこの当時は、液晶ディスプレイが普及し始めていたが、迷いながらも何よりも安定性を配慮し、
19型のこの当時の最後の画面のブラウン管ディスプレーを買い求めたりとした。

選定したパソコンの基本の付属の記憶装置は、DVD-ROM、CD-R/RW、フロッピーであり、
10年ぐらいは大丈夫かしら、と漠然と思ったりしていた。
そしてプリンターも新調し、民芸風の大きな机、脇机、そして椅子を買い揃え、定年後に備えたりした。

こうした中で、私が何より私は困り果てるのは、パソコンの無知な家内が、
パソコンは半永久的商品よねぇ、と確信したように思い続けていることであった。

私が現役時代の時は、程ほどの年収を得ていたので、
オーディオ、テレビ、パソコンなどの商品は幾たびか買い換えてきたが、
しかし年金生活となれば、限りある厚生年金、企業年金、積み立てきた個人年金からの収入には、
もとより限度があるので、私は気弱になり、予算を計上するできなかったことが多い。

こうした根底には、故障もしていないパソコンを買い改め費用があるならば、
国内旅行で、旅先の滞在日数を増やしましょう、
と家内が私に提案することが予測されるので、私はパソコンの予算計上をためらったりしてきた。
                              

やがて私は2004年(平成18年)の秋に定年退職後、まもなくブログの世界を知り、
私は無我夢中に毎日数通は投稿し、そしてブログ上のコメントで知り得た8名の人と、
お互いにコメントを交わしていたブログ熱中時代の時であった・・。

そして定年後の生活に備えた肝要のパソコンは、2006年(平成18年)9月中旬に、予告もなく突然にダウンして、
まもなく年金生活2年生を迎えようとしていた私は、
『10年ぐらい利用しょうと思ってたのに・・どうして突然に故障するのよ・・』
と心の中で呟(つぶや)きながら、長らく黒い画面を見つめ大いに落胆したりした。

やむなく買い求めたパソコンの量販店に修理を依頼したが、1週間後に我が家に来宅することをなり、私は困窮した・・。
我が家は無念ながらパソコンはたった一台しかなく、この来宅するまでの1週間の間、
どうしょうかしら、と悩んだりした。

この当時の私は、ブログ上で盛んにコメントで交流を重ねていた時代で、
コメントを頂いたりし、半日以内に必ず返信していたが、
もとより返信が出来なくなり、相手のお方はどうしたのかしら、と戸惑うと思いながら、悩んだりした。

もとよりリアルの交流であったならば、電話でお詫びの連絡もできるが、
ブログの世界は匿名が多く、連絡できる方法がないのである。
もとより匿名の世界であっても、何よりも信頼が大切なのに、と困苦したりした・・。
          

          
そして私はこの修理の期間、パソコンのレンタルを量販店に依頼をしたが、
弊社は扱っていません、と素っ気ない返事を私は受けたりした。

やがて修理が最悪の場合に備えて、このパソコンの量販店に最新のパソコンの下調べに行き、
魅了されたパソコンが販売価格25万円にため息をしたのである。
そして我が家の予算計上にしていないので、困り果てた・・。

この帰路、25万円・・空から舞い降りてこないかしら、と思ったりして帰宅した。

         
そして待ち焦(こ)がれたパソコンの量販店の修理の技術者が予通り来宅した時、
パソコンの故障を点検して結果、
心臓部のキャッシュメモリ、メインメモリの一部でわずかな磨耗があり、
部品の交換すると10万円を超える、と私は言われた・・。

私の現役サラリーマン時代の50代の頃は、冷蔵庫、クーラーなどを新調しょう、
と私は家内に気軽に言ったりして、購入したりしていた。

しかしながら、この当時の我が家の年金生活の年次購入予定品目もなかったが、
やむなくパソコンの新製品を買い改めることに決意した私は、家内にどう説得するかであった。

私は長らく中小業の民間会社のサラリーマンをしていたので、多事多難の対処には鍛(きた)えられ、
こうした中で多少の悪知恵も備えられてきた。

家内は冷蔵庫、洗濯機をよく手入れをするタイプで、
過剰に掃除し過ぎ、やむえず新調した体験があったのを、思いだしたりした。

私は居間に置いているパソコンから、台所にいる家内に近くに寄り、
『XXちゃんさぁ・・昨今のパソコン自体、飛躍的に進歩しているし・・
前に買ったパソコンより遥(はる)かに廉(やす)くなっているの・・
この際、思い切って新しいのにしょうねぇ・・』
と私は少し懇願するように家内に言った。

          
結果として、データ強制移行料などを含めて、27万円弱で、魅了されたパソコンに新調し、
やはり最新のCPUは速い、と私は微笑んだりした。

          
私が魅了されて買い改めたのは、『ウィンドウズXP』の液晶の富士通のディスクトップで、
ディスプレイは、この当時の流行の20.1型のワイド画面のスーパーファインVXのハイビジョン対応であり、
CPUはインテルのデュアルコア、メモリは1GB、ハードディスクは400GB、
付属の記憶装置は、DVDスーパーマルチ等で、この当時としては、程ほど最強版となっていた。

パソコンのデザインも良く、安定したドライブの配置もあり、好感し、
年金生活の中で、日々こよなく愛用して、文字通り私の愛機となった・・。

こうしたことは一般の御家庭すれば笑い話になるが、
私としては年金生活まもなく丸10年を迎える中で、何よりも困窮し危機一発の出来事であった。
          

尚、この後のパソコンは2011年〈平成23年〉6月に於いて、
この当時の主流の『ウィンドウズ7(セブン)』の新機種を買い改めた。
選定した機種は、ソニーのディスクトップのテレビ不要型で、
ディスプレイは、この当時から流行したワンタッチパネルの21.5型のワイド画面で、
CPUはインテルの最強版、メモリは4GB、ハードディスクは1TBであった。

そして付属のドライブ装置は、ブルーディスク対応で、
この上に、外部ドライブ装置として、ある専用メーカーのハードディスクの2TBを連結させたりした。

このような苦い体験があったので、私の少しばかり広い机には、
やむなく従来の『ウィンドウズXP』と新たな『ウィンドウズ7(セブン)』を
当面2台のパソコンを置いたりしている。
                     
           ☆この当時の記念写真・・右側は旧機の『ウィンドウズXP』、左側が現在愛用している『ウィンドウズ7(セブン)』☆

このような私のささやかなパソコンの足跡があるが、
『ウィンドウズXP』は2014年(平成26年)4月9日に賞味切れとなるので、
やむえなく私も『ウィンドウズXP』に別れを告げて、
2013年(平成25年)12月中旬に最新の『ウィンドウズ 8』を対応させた。
          
           ☆左側が現在愛用している『ウィンドウズ7(セブン)』、そして右側は買い求めた『ウィンドウズ 8』☆

          
そして選定したのはノートパソコンで、ソニーの秋冬モデル『VAIO Fit 15E』であった。
何かしら『Windows 8 64bit インテルCore i7-4500U(1.80GHz)、メモリ 8GB、HDD 1TB、15.5型の高輝度液晶』
このように記載されていた。

このように私が買い求めたパソコンの買い替え、そして性能も詳細に綴った理由は、
この20年余りにも急速に進化してきたので、どこまで進化したら気がすむのょ、と
ときおり戸惑ってきたからである。

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定年退職の直後から、私が年金生活を始めた理由は・・。

2014-08-28 08:04:25 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
私は東京オリンピックが開催された1964年(昭和39)年の秋に、
大学を中退し、アルバイトや契約社員をしながら映画・文學青年の真似事して、
あえなく敗退して、やむなくサラリーマンに転進する為に、
コンピュータの専門学校で一年ばかり学んだ後、
何とかこの当時は映像・音響の大手メーカーの民間会社に中途入社出来たのは、1970年(昭和45年)の春であった。

音楽事業本部の片隅で勤めていた私は、まもなくこの中のひとつの大きなレーベルが、
外資系のレコード会社として新設され、私も移籍の辞令を受けて、
音楽に直接に関わる制作畑ではなく、商品、情報、経理、営業などの部門を異動したりして、
35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職した身である。
          
              ☆すべて今回掲載した写真は、一週間前に自宅の付近を散策した時の情景☆

こうした中で中小業の多い音楽業界の各レコード会社は、
1998年〈平成10年〉に売上の主軸となるCDがピークとなり、その後は業界全体が縮小した。

この前後に、それぞれのレコード会社は再構築がよぎなくされ、リストラが具体的に実施された。

私たちの同世代は、定年退職時が60歳であり、
公言しなくても暗黙として、お互いに定年退職まで、頑張ろうとする意志は大半であった。
そして、もとより若き入社時代から人生設計の主軸として過ごしてきた・・。

こうした中で、私の知人の多くは50代となり、
この少し前の年から私の勤めた会社も同様に、 組織の見直しによる人事配置転換の人事異動、出向、
そして早期退職優遇制度による退職などのリストラ烈風となった・・。

このような状況下で、同じ時代の空気を共にした上司、同僚、後輩などと別離があり、
業界から去った人も数多くあった。

やがて私自身も1999年(平成11年)の2月、55歳の少し前に出向となってしまった。

私は本社に30年近く勤め放り出され、私でも失墜感もあり都落ちの無念さを感じたが、
半年後から何とか馴染み、精務した。
          

この間、私は出向を命じられた時、改めて家内と私の定年後の第二の人生を話し合ったりした。
具体的には、私たち夫婦の第二の人生は、どのように過ごしたいのか、主題であった。

やがて結論としては、定年退職後の60歳以降は、
私は働くことを卒業し、お互いのささやかな趣味を互いに干渉することなく過ごして、
私たち夫婦の共通の趣味のひとつの国内旅行を四季折々できればよい、という事になったりした。

こうしたことを実現するためには、私は各出版社から数多くの本が発売されていたので、購読した。

そして『定年後』~「もうひとつの人生」への案内~(岩波書店)、『間違いだらけの定年設計』(青春出版社)、
『「定年後」設計 腹づもり ~50代から考えておきたい~』(三笠書房)などを読んだりした。

或いは雑誌としては、 『ほんとうの時代 ~50代から読む「大人の生き方誌」~』(PHP研究所)であり、
こうした本を読んだりしながら、現在の我が家の貯金の確認、定年退職までの年収、退職金などの推定、
そして年金の推定額も算出し、収支概算表を年別に作表し、平均寿命までの年を総括表にしたりした。

やがて毎年の月別は、家計簿の応用で収入の項目、支出の保険、税金等を含め、予定表も作成したりした。
                    

こうした中で、最大の難関は私の場合は厚生年金に加入していたので、
厚生年金は『報酬比例部分』と『定額部分』で成り立っている、と知った時である。

たとえば厚生年金の総計を年間で230万円と仮定した場合は、『報酬比例部分』は150万円(65%)、
そして『定額部分』は80万円(35%)となっていた。

この『定額部分』の支給開始時期は、生まれた世代によって差異がある、と学んだりした。

◎1941(昭和16)年4月1日以前の方は・・・60歳から支給。
◎1941(昭和16)年4月2日~1943(昭和18)年4月1日の方は・・・61歳から支給。
◎1943(昭和18)年4月2日~1945(昭和20)年4月1日の方は・・・62歳から支給。
◎1945(昭和20)年4月2日~1947(昭和22)年4月1日の方は・・・63歳から支給。
◎1947(昭和22)年4月2日~1949(昭和24)年4月1日の方は・・・64歳から支給。
◎1949(昭和24)年4月2日~1953(昭和28)年4月1日の方は・・・
                 『定額部分』は、『基礎年金』に一本化されて65歳から支給。

このように明記されていたので、私は1944年(昭和19年)9月の生まれであるので、
『定額部分』の支給開始時期は、満62歳からと知った。

私は厚生年金に関し、友人たちと『報酬比例部分』は『定額部分』などの合算で、満額と称しているが、
悩ましいのは私の前後だけでも差異があることであった。

私たちの世代は、社会人になった頃の1970年〈昭和45年〉の当時は定年退職時は55歳が多く、
まもなく60歳に改定されてきたので、それぞれ人生設計の基幹としてきた。

そして私は、遅ればせながら、1994年(平成6年)の年金改正に於いて、
60歳代前半の老齢厚生年金の『定額部分』の支給開始年齢を、
2013年(平成25年)までに段階的に60歳から65歳に引き上げがされた、と学んだりした。

その後、2000年(平成12年)の年金改正では、
老齢厚生年金の『報酬比例部分』を2025年(平成37年)までに、段階的に60歳から65歳に引き上げ、と知ったりした。
        
このような関係で私の場合は、定年退職後の60歳からの厚生年金は、
『報酬比例部分』だけの支給開始となり、『定額部分』の支給開始時期は満62歳からであった。

この間の2年間は、まるで飛行機の片翼だけで水平飛行する年金生活となる、と遅ればせながら知った。
         

そして1941年(昭和16年)4月1日以前の先輩たちは、
もとより『報酬比例部分』、そして『定額部分』の支給開始時は、定年退職の60歳と同時に頂けるので、
いいよなぁ、と私は溜息をつきながら感じたりした。

しかし私の後輩の団塊世代の人たちは、私より『定額部分』の支給開始が遅れて、
この間の生活も大変だよなぁ、と思いを新たにさせられた。

この当時、民間会社の大手、中小業にしても、定年退職時は満60歳が多く、
その後に、単純に現役の処遇で継続できる人は、殆ど皆無である。

こうした現実の中で、定年後の年金満額までの期間をどのように生活するのか、
何よりの最優先の命題、と私は実感させられた。
          

こうした間、出向先の物流会社も大幅なリストラが実施されたり、
私が30年近く勤めてきた出向元のレコード会社でも、リストラ烈風となる中、
私はサンドイッチのような板ばさみの心情となる中、
私の同僚、後輩の一部が定年前の退社の連絡、或いは葉書で挨拶状を頂いたりし、
私は出向先で定年退職を迎えたのである。

そして、私は出向身分であったので、何とか烈風から免れたのも事実であり、
定年前の退社された同僚、後輩に少し後ろめたく、退職後の年金生活に入った理由のひとつとなった。

このように私は中小業のサラリーマンの身として、年収1千万円台で何とか卒業できたが、
大企業で栄進された方、或いは官公庁の上層部のように高額所得地位にも成れず、
程ほどの年収、退職金であり、金融資産も程ほどとなり、
何かと多くの方の半生史は自慢史が多い中、つたない私はもとより対象外となっている。
          

私の定年退職は10月20日であったが、10月初旬に家内の父は病死し、葬儀を終えてまもなく、
退職後の書類、退職金などで銀行廻りをしたり、慌ただしい日々を過ごしたりした。

        
こうした中、定年退職後の失業保険に関して、当初は申請して、5ヶ月分の失業手当を頂こうとした。
しかし、私は長年に及び管理畑の身であったので、これといって特別な技術もなく、
たまたま家内の父が死去し、退職直前は業務の引継ぎに加わり多忙となったりした。

そして、この数年前の頃は大企業もリストラ烈風で失業された人達も多く、
私は勤める意志なく、求職される方たちの真摯な様子をホームページ、新聞、テレビのニュースなどで知ったので、
失礼と思い、失業保険の申請書を破棄したりした。

そして家内の父の死去に伴い、定年退職記念旅行と失業保険の断念は予定外であったが、
人生は予定通り進まないことも多くあるので、私なりに後悔はしなかった。


私は東京郊外の世田谷区と狛江市に隣接した調布市の片隅に結婚前後の5年を除き、長らく住んでいる。
そして生家も近く、住宅街の外れに住み、雑木の多い小庭に古ぼけた一軒屋に住み、
付近の住宅の敷地より、少し広いかしらと思ったりしている。

こうした中で私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
長き結婚生活の中に於いて、最大の誤算となっている。

世の中の多くの人生の3大支出は、「教育資金」、「住宅資金」、「老後資金」と言われたりしているが、
たまたま我が家は子供の「教育資金」は不要となったので、
定年した直後から年金生活を開始できたことも事実である。
          

私たち夫婦の年金生活の資金基本は、お互いの厚生年金、わずかな企業年金を頂き、
通常の生活費するのが原則としている。
しかし共通の趣味のひとつである国内旅行、或いは冠婚葬祭、そして思いがけない出費などに関し、
程々の貯金を取り崩して生活している。

この間、定年退職の60歳からの厚生年金は、
『報酬比例部分』だけの支給開始となり、『定額部分』の支給開始時期は満62歳からの満額となるまで、
この間の2年間は、まるで飛行機の片翼だけで水平飛行する年金生活となり、
予測した以上に赤字となり、小心者は何かと気弱になったりした。

やがて満62歳から満額の厚生年金となり、予定通り年金生活は安定飛行となり、
私たち夫婦は、毎年年始が過ぎた頃に、新たな年度の月別の概算表を作る際、
家内の要望などを織り込んで作成し、予算としているが、
今年も赤字が120万円前後かしら、とお互いに確認し合って、互いに微苦笑したりしている。

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まもなく古希を迎える私、60代に何かと愛惜を重ねることが多く・・。

2014-08-27 08:51:57 | ☆夢幻のような安楽な60代☆
昨夜は10時半過ぎに寝付いた為か、今朝は5時に目覚めて起床して、
玄関の軒下に下り立つと、しとしと小雨が降っていた・・。

過ぎし24日までは真夏日が続き、陽射しが燦々と照らす中、買物、散策で汗を流したりしてきたが、
一昨日の25日から一転して、小雨が降ったり、どんよりとした曇り空が多く、
一雨(ひとあめ)ごとに初秋に向っているのかしら、と感じたりしてきた。

この後、居間に戻り、ぼんやりとカレンダーを見つめると、27日と明記され、
あと一か月で60代とお別れかょ、と心の中で呟(つぶや)いたりした。

私は東京郊外の調布市の片隅に住む年金生活の69歳の身であるが、
私たち夫婦は子供に恵まれなかったので、我が家は家内とたった2人だけの家庭であり、
雑木の多い小庭に築後36年を迎える古ぼけた一軒屋に住み、
お互いの趣味を互いに尊重して、日常を過ごしている。

そして私より5歳若い家内も、お互いに厚生年金、そしてわずかながらの企業年金を頂だいた上、
程ほどの貯金を取り崩して、ささやかな年金生活を過ごしている。

          
こうした中で、私は今年の9月下旬の誕生日を迎えると古希と称される70歳となり、
家内も12月下旬の誕生日を迎えると65歳となり、介護保険証を受ける身となっている。


過ぎし8月の初めの頃、いつものように自宅の近くに流れている野川の両岸にある遊歩道を散策していると、
道端で咲く花に見惚(みと)れたりして、足を止めたりした・・。
そして野に咲く花が私には相応(ふさわ)しいかしら、と微苦笑しながら、安堵(あんど)したりした。
                    
               
私は民間会社の中小業に35年近く勤め、2004年〈平成16年〉の秋に定年退職後、
その直後から多々の理由で年金生活をしている。

この中のひとつとして私の半生は、何かと卑屈と劣等感にさいなまれながら、つたない言動も多く、
ときおり敗残者のように感じることも多く、悪戦苦闘の多かった歩みだったので、
せめて残された人生は、多少なりとも自在に過ごしたと思ったりした。
               
そして年金生活を始める時、秘かに私は残された人生の日々に、
『清く貧しく美しく』と信条を掲げた。

この発想の根源は、定年後の年金生活を始めた当初、ご近所の奥様と立ち話などをした時、
60歳のお若いのに、悠々自適な生活で羨(うらや)ましいわ、と言われたりしたが、
もとより私は一流大学を卒業した後、官公庁、大企業などで邁進(まいしん)され栄達したエリートのお方たちと違い、
高収入、高額な退職金には無縁で、程遠い生活実態であった。

その上、私は屈折した日々の多い半生を歩み、何とか定年を迎えることができたので、
半生記は何かと自慢史が多いと伝えられている中、私は限りなく遠い存在である。

そして私は確固たる実力もないくせに、根拠のない自信があり、
感覚と感性は人一倍あると思いながら、独創性に優れていると勝手に思い込み、
ときには独断と偏見の多い言動もしたりしてきた。

或いは、その分野で専門知識があり優れた人の前では、謙虚となりながらも卑屈になったりした・・。
このように可愛げのない男のひとりである。
                    

私は定年退職後に年金生活を始めたが、
1944年〈昭和19年)9月生まれであるので、満62歳にならないと年金は満額を頂けないので、
この間の2年間は満額の6割弱の片翼飛行のような、年金生活を過ごすことになった。

程々の貯金を崩しながら、つつましく退職後の生活を過ごす予定で、
私は秘かに退職時に、未知の年金生活に向い、自身を励ます意味合いも含めて人生信条を掲げた。

そして年金生活は何かと身過ぎ世過ぎの日々の生活実態と思われ、
『清く貧しく美しく』とした。

この根源は、敬愛している松山善三(まつやま・ぜんぞう)氏の脚本・監督された『名もなく貧しく美しく』(1961年=昭和36年)、
そして宝塚歌劇団の『清く正しく美しく』から、言葉を重ね合わせ、
何かしら慎(つつ)ましい年金生活に相応しいと確信した。

こうした『清く貧しく美しく』の人生信条を掲げた中で、
日常生活を過ごす目標として、『野に咲く花のように』とした。
          
『野に咲く花のように』の発想の語源は、
古人の利休が、花は野にあるように、という銘言は私なりに知っていたが、
私は40歳の初めに、夏季休暇で家内と共に旅先で、実感させられ、まもなく私なりに命名した。

海辺のリゾートホテルに滞在していた私たち夫婦は、
昼下りのひととき、庭園にある茶室で茶事があるので、支配人から家内が誘われ、
私も末席としてお供した。

家内は茶事を中学生の頃から習っていたので、
私は結婚してから色々と和事に関しては、家内から影響を受けたりしていた。
茶花、花入、茶碗、掛け軸などを知り、四季の移ろいも改めて知りはじめた・・。

結婚して、3年後に家を建てた時、多額な借入となったが、私は何かと単細胞の性格で、
何かに夢中になると、あなたしか視(み)えないような熱中となることが多く、
その上に若さの勢いとして、家屋の中で茶室まで設けた。

私は茶事に関しては無知であったが、
家内が免許状の昇進と共に、礼金も重なったりし、こうしたことは暗黙のような約束事を知った時は、
不思議な世界と思ったりしていた。
         
そして無知な私でも、リゾートホテルの庭園にある茶室は、
掛け軸、花入、茶花も簡素で、素朴な茶碗で抹茶を頂いたりしたが、感銘を受けたりした。

やがて茶室から庭園に出た私たち夫婦は、その後に私は家内と散策した時、
『野に咲く花のような茶事であったね・・』
と私は家内に言ったりしたので、家内は微笑んでいた・・。

私はこの1985年〈昭和60年〉の夏の時節以来、
人生のささえる確かな言葉として『野に咲く花のように』と掲げて、
年賀状などで明記し、たびたび公言したりしてきた。
                   

こうして私は年金生活を始めて1年を過ぎた頃、
たまたま作家・城山三郎の著作の『無所属の時間に生きる』を読んでいた時、
『この日、この空、この私』の一節を瞬時に圧倒的に魅了され、この時から教訓としている。

《・・人生の持ち時間に大差はない。問題はいかに深く生きるか、である。
深く生きた記憶をどれほど持ったかで、その人の人生は豊かなものにも、貧しいものになるし、
深く生きるためには、ただ受け身なだけでなく、あえて挑むとか、打って出ることも、肝要となろう。・・》
そして私は亡き城山三郎氏の遺(のこ)された言葉を秘かに指針として、日々過ごしている。

          
そして恐れ多くも日本の歴代天皇が継承してきた三種の神器と称せられる鏡・剣・玉があるが、
平民で無力な私は、『清く貧しく美しく』、『野に咲く花のように』、そして『人生を深く生きる』言葉を
私の年金生活の三種の神器かしら、と思いながら過ごしてきている。

このようなことを根底に私は過ごしてきているので、
野に咲く花は、素朴で気負いもなく、何かとやすらぎを覚えたりしてきた。

このように私は三つの言葉をささえに、年金生活を過ごし、10年生となっている。
                    

数多く60代の諸兄諸姉は、人生の苦楽を重ねた後、
何かと安堵しながら、身も心も溌剌と過ごせる人生の黄金時代と称せられるゴールデン・イヤーズ、
と知人、友人からの便りを受けたりしてきた・・。

私も長き人生に於いては、60代の期間が何より安楽な時代、と思い重ねたりして享受してきた・・。

そして70代となれば、体力の衰えを実感して、75歳まではこれまでどおりの自立した生活ができるが、
80歳が見えてくる頃には介護を必要とするようになり、
やがて80代後半では何らかの介護付き施設に入居する可能性が高くなる、と専門家の人から数多く発言されている。

このように学んできた私は、過ぎしこの10年の60代の年金生活は、安楽な過ごせてきた時代の為か、
何かと愛惜を重ねたりしている。

そして60代の年金生活を10年過ごしてきた心の軌跡を発露し、さまざまに思いを総集編として、
心の証(あかし)を残したく、ブログのカテゴリー『夢幻のような安楽な60代』と命題し特設し、
今回は第一回として、今後も幾たびも投稿する決意である。

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