ウィトラのつぶやき

コンサルタントのウィトラが日頃感じたことを書いていきます

「ファクトフルネス」を読んだ

2019-07-16 06:25:18 | 生活

Fact Fulnessという本を読んだ。この本はスウェーデンの医師で公衆衛生に長期間かかわってきたハンス・ロスリングが書いたものである。本人は本書が発行される直前の2017年に他界し、娘とその婿が完成させているのだが、ハンス・ロスリングの言葉として語られている。

最初に13個の世界の現状に関する質問があり(まじめな質問である)、3択で答えるようになっている。ネタばらしになるのでその内容は書かないが私は13問中3個しか正解できなかった。ランダムに選ぶより低い正解率である。私だけでなく、世界中で正解率は低いそうである。この質問と正解を示し、人々は世界の状況をどれほど誤解しているかを示して、原因を解き明かしている。そして誤解を防ぐにはどうするべきかについて本人の経験とともに語っている。

この本を買おうという気になったのはテレビ東京の朝の経済番組「モーニングサテライト」でビジネス書の売り上げでかなり長期間上位に入っていたからである。普通は、ノウハウ本が売り上げ上位に来ることが多く、私はあまり気に留めていないのだが、「この本はどうも違いそうだ」と思ってアマゾンで注文した。

読んでよかったと思っている。私自身が日ごろ問題だと感じていて共感する点も多く、納得できる部分が多かった。なにょり公衆衛生を中心として活動してきた医師がこれほど広い視野を持てた点に感心している。ベストセラーなのですでに読まれた方も多いと思うがお勧めの一冊である。

7月17日、「モーニングサテライト」でこの本の著者に対するインタビューが放映された。本当の著者は他界しているのだが、作成を手伝った娘が「著者」としてインタビューを受けていた。しかし、どこまで正しくこの本の内容を理解しているか分からないような受け答えだった。あのインタビューを見て「読みたい」と思う人は少ないだろう。本の中身はインタビューよりもかなり濃いものであることをここに添えておきたい。


90歳代の人の人生

2019-06-08 14:35:41 | 生活

私事であるが6月5日に母が他界した。91歳だった。昨日近親者のみでの葬儀を終えたところである。
母の人生を振り返ってみると激動の時代を生きてきたという感じを改めて持つ。江戸末期以降に生まれた人はだいたいそうなのかもしれないが・・。

母は昭和2年に北海道に生まれている。終戦の時は17-8歳なので今なら女子校生、当時は女学生だった。北海道は戦場にはならなかったが、戦争末期には勤労奉仕で軍需工場で働いていたそうである。当時は本当にアメリカを負かすつもりでいたそうである。終戦になって、学校の先生などが「鬼畜米英」と言っていたのが急に「アメリカ万歳」と言い出したのを聞いて、「大人の言うことは信用ならない。自分で見たものを信じて行こう」と思ったそうである。もちろん私はまだ生まれていないので聞いた話であるが、この時の経験が母の人格形成に大きく影響を与えたと思う。

その後結婚し、私が生まれたのは昭和26年、復興が本格化しようという頃だったが、まだまだ日本は貧しかったそうである。私は小さい頃は体が弱く、無事に育つかとずいぶん心配したそうである。その後、日本は次第に豊かになり、私が小学校1年の頃にはじめて我が家に白黒テレビが来た。

その後、私が11歳の時に、父が転職して我が家は大阪に引っ越した。父は元々四国で生まれ育ったのだが、母はずっと北海道である。住み慣れた北海道を離れ大阪に引っ越すことには大きな不安があったのだろう。青函連絡船の中で見た母の涙を私はよく覚えている。私自身は期待も不安もなく、ただ「違うところに行く」という思いしかなかったので母の涙は特に印象的だった。

大阪に引っ越したあたりから日本は高度成長期に入り、どんどん新しい家電などができてきた。私には弟がいるが、70年代中に私も弟も東京に就職して夫婦二人暮らしになった。その後バブルがはじけ、低成長時代に入った。低成長時代は物価は上がらず、年金生活者にとっては都合がよかったと思う。

母はその後でも好奇心は強く、2000年頃、70歳くらいからパソコンを使い始めている。ここ数年は体調が悪化してきたのでスマホを覚える元気はなかったが、元気だったらスマホを使いこなせるようにもなっていらだろうと思う。

最近時々、テレビなどで戦争中の思い出として母と同じようなことを言う人がいることを耳にする。終戦時に思春期だった人たちだろう。ところが「鬼畜米英」から「アメリカ万歳」言を翻したほうの人の話は聞いたことが無い。その人たちが本心ではどのように考えていたのかが今後の戦争リスクを抑えるためには重要だと思うのだが、そういう分析は行われないままに語れる人は鬼籍に入ってしまった気がする。その意味では日本は戦争の始末をきちんとつけてないままに過ごしてしまった気がする。

私が90歳まではあと20年強、その間にどんな激動が待っているのか、あまり激動は無く日本はデフレで景気が少しずつ後退していく、高齢者には好ましい状況が続くのか、楽しみなような気もする。


気持ちが良いのは血行が良くなる時

2019-05-19 15:18:43 | 生活

今日で私は68歳になった。健康に問題は無いが、ゆっくりではあるが体力は下がってきていると感じている。それで自分の体の体調に気を付けるようになってきた。

テレビでは良く健康に関する番組がある。栄養価などに関しては信用しているが体調管理などは信用していない。テレビに出てくる医者は機能向上あるいは安全に関してしか言わないと思っている。例えばこれからの時期では熱中症に対する注意で、直射日光の下で激しい運動をするなとか、こまめに水分補給をせよとかいう。しかしそれは体力の衰えた高齢者や子供が事故を起こさないようにするための注意事項で健康な一般人は違うだろうと思っている。自分の体を厳しい状況に置けばそこからの回復で体は強くなる、それが摂理だと思っているので、ある程度のストレスを与えるのはむしろ健康に良いと信じている。根拠は不明だが。

今日の本論の血行に関しても私が信じているだけで医学的に調査したわけではないことを最初にお断りしておく。私は体が「気持ちよい」と感じるのは血行が良くなって、体にたまっていた老廃物が流れ出した時だと思っている。我々が気持ちが良いと感じる一番端的な場面はマッサージを受けた時である。この時に血行が改善しているのは間違いないだろう。次に気持ちよく感じるのは風呂に入った時である。この時も血行が良くなって気持ちよさを感じているのは間違いないだろう。時々熱い風呂が好きな人が居るが、私の経験では熱い風呂に入ると風呂から上がってしばらくの時間は心臓がどきどきした状態が続く。これが治まるまでの時間に気持ちよさを感じているのだろうと思っている。

ストレッチをすると筋肉に痛みを感じるが同時に気持ちよさを感じる。これも引き延ばした筋肉に蓄積されていた老廃物が動き出す効果だろうと思っている。更にスポーツをした時の気持ちよさも同類ではないかと思っている。全力で走っている最中には気持ちよさなどを感じる余裕は無いが、立ち止まって休憩している間に次第に呼吸が整い、脈拍も下がってくる。この時間に気持ちよさを感じる。脈拍が治まるまでには10分くらいかかるがこの時間に気持ちよさを感じる。登山などで頂上に着いたときも、脈拍が落ち着くまでの時間が最も気持ちが良いように感じている。

機内などで運動ができないようなときにも、体の中で老廃物がたまりやすい場所をマッサージなどをすると気持ちよく感じ、それは体にとっても良いはずだと思っている。


アリババのIT化スーパーマーケット

2019-05-15 11:11:32 | 生活

ここ数日、中国に出張してきた。

その間にアリババの運営するスーパーマーケット「盒馬鮮生」の北京のある店舗に行ってみて、印象的だったので紹介したい。

盒馬鮮生の品ぞろえは日本の食品スーパーマーケットとあまり変わらない。規模も食品スーパーとしてはやや大きい程度であるが日本のスーパーと大きく異なる点が二つある。一つは日本の店舗にあるレジが無いことである。正確に言うとレジはあるのだが無人のレジで、消費者が自分で決済端末にバーコードを読ませ、スマホのQRコードで決済する仕組みになっている。完全なキャッシュレス決済である。入り口にも出口にもゲートは無く、自由に出入りできる。決済端末は店の奥のほうにあるので何も買わず見るだけでも全くストレスは感じない。

万引きをどうやって防止しているかというと、店内にカメラが置いてありそれで監視しているそうである。私のような外国人が万引きしてもトレースできるのかどうか疑問に思うが、国民は全員顔写真が登録されているし、外国人も入国するときに顔写真を取られているので、警察に紹介すれば顔認識で判定できるのかもしれない。

Amazonの無人店舗7、Amazon Goでは入店するときにQRコードを読ませて入店者と人物の紐づけを行い、店内ではどの品物を取ったかをカメラで判定し、出口のケートを通った時点で買物完了と判定してクレジットカードから引き落とすようになっている。Amazon Goの場合にはどの商品を棚から取ったかまでカメラで判定しているのに対してアリババではいくつ取ったかを判定しているだけなので決済端末でバーコードを読ませるだけなのだろう。アリババのほうは店舗に対する導入コストを下げている点で中国らしいと感じたが、万引きを完全に防止することは無理だろうと思う。警察に知らせるということで抑止力は働いているだろう。品物の価格と品質に関しては、品質は良く、価格はやや高めだという。

もう一つの大きな特徴はイートインコーナーである。よく広州のレストランなどで大きな水槽が多数用意されており、その魚を見ながらあれこれと注文しておくと、新鮮な魚を調理した料理が出てくるレストランがあるが、アリババのスーパーにも水槽が多数あり、生きた魚を買うことができる。スーパーなので野菜や肉なども当然ある。それを買って調理コーナーに行くと、「30分後に料理ができる」というようなレシートをもらう。それで店の中を見るなどして時間をつぶして受け取りに行くと新鮮な素材を使った料理を食べることができる。

イートインコーナーはレストランのような上品な場所というよりはフードコートのような庶民的な座席の設計になっているが、新鮮な素材の料理が食べられて良さそうに思う。私が行ったときは午後3時近い時間帯だったが結構混雑していた。

更に、アリババの店舗なのでネットで注文できる。半径3㎞以内なら注文してから30分以内に届けるというサービスを打ち出しており、各売り場からの搬送用レールが走っており注文を受けると店員が袋に入れてレール経由で配送所に送るようになっている。おそらくバイク便で運ぶのだろう。

中国の進歩は早い。日本はどんどん置いて行かれるのではないかと心配になった。


不合理な保護は業界を弱くするだけ。改善するには公的会議の見直しが必要

2019-04-08 10:08:06 | 生活

日経XTECHに「遠のくライドシェア解禁、「圧力」に屈したIT業界」という記事が出ている。これはUBERのようなライドシェアサービスの日本での解禁には多くの条件が付きそうだということを言っている。私はこの動き自体には詳しくないのだが、全体として日本政府のこのような業界を保護する動きは結局その業界を弱くするだけだと感じている。

日本では例えば東京のタクシーが客を乗せて横浜まで来た時に、その客を降ろした後、東京に戻るまではタクシー営業を行なってはいけないことになっている。トラックなどが帰りを空トラックで帰らずに何かを積んで帰るように工夫している効率を上げようとしているのと真逆の動きである。効率を考えれば明らかにタクシー業界は効率を落としており、結果として日本のタクシーは料金が高いにもかかわらず、タクシー運転手の収入は少ないという状況になっている。政府が効率が悪くなるように規制をかけて「皆が等しく貧しくなるように」という政策を取っているのだから当然と言えるだろう。

京都のMKタクシーが規制と戦ったという話は有名だが、なぜ規制緩和が進まないかというと、誰かが新機軸を打ち出してシェアを拡大しようとすると、業界の他のメンバーが陳情してそれをやらせないようにして、結局政府は既存の業界の意見を尊重するからだと私は思っている。つまり政府に悪気はなく「業界のため」を思った政策を取っているのだが、結果として業界を不活性化しているということだと私は認識している。ある程度以上に規制が入った業界(厚生労働省関連はこの種が多い)ではこういうことが起こりやすい。農業もこの種の業界の典型だったが最近やっと改善されてきた。

このような空気をどうやったら変えることができるだろうか? MKタクシーの例を見てもわかるように業界の中からこの種の提案が出てくることはあり得るが、他の大多数が反対することは容易に想像され、この姿勢を変えることは期待薄だろう。やはり政府の規制改革を審議するような場で、「合理性のある案が通りやすい」という空気を醸成していくしかないだろう。こういった方針をガイドするのは官僚で、官僚は業界単位で組織が分かれているので、官僚が業界側に付くのもある程度仕方がないと思う。官僚の中には色々な人が居るのだが私は官僚が業界べったりとは思っていないが全体の空気を換えるのは容易でないと思う。しかし、業界そのものを変えるよりは官僚のマインドを変えるほうが現実味が高く、そこが政治の役割だと思っている。

私は現在の政府の各種会議の進め方に問題があると思っている。政府が規制改革等を議論するときほとんどの場合業界関係者、学識経験者から構成される審議会を開催する。議長は殆どの場合大学教授で、第3者の意見を取り入れるような構造になっている。ところが実態としてはこの審議会で激しい議論が取り交わされることはなく、最初の何回かは世界の動向などの情報収集と各団体からの意見陳述を行い、事務局が「皆の意見をまとめるとこうなる」といってまとめのたたき台を用意する。各委員は数分間でこのたたき台に対してコメントを述べるだけで基本的には事務局案が通る、というのが殆どの基本の審議会の進め方である。

この方法がうまく働くときもある。進むべき方向性が明らかで重要なのは関係者間の利害調整、というような場合にはこの方法は非常にうまく働く。私の専門である無線通信の関係で言えば、電波割り当てを決めて複数の申請者が出てきたときに、とこの会社にどれだけ割り当てるか、というようなことを決める会議では当事者は全員自分のところに電波を割り当ててほしい訳で、議論して公平な落としどころを見出すのは極めて難しいからである。

その一方で「どうすればよいか」が分からないような場合にはこの方法ではうまくいかない。具体的には事務局である官僚にうまい解決策を見つけることができないような場合であるが、このような場合には、多くの識者から様々な意見を出してたたき合う、例えば泊まり込みで議論をするようなやり方が有力である。しかし日本の公的な会議ではこのような手法が採用されることは無い。

基本姿勢として「合理性のある方向に舵を切る」という姿勢を持ち、官僚主導の取りまとめと、徹底的に議論するまとめ方の会議を使い分けることが改善の方策だと思っている。


進歩しない分野と進歩の速すぎる分野

2019-04-01 18:25:08 | 生活

新元号は「令和」に決まった。私は万歳を叫びたいほど気に入っている。先日、このブログに書いた「日本の社会哲学として『和』はどうか」というのにぴったりの言葉だからである。令は令嬢の令で美しいというような意味と命令の令で~をさせるというような意味があり、「和」が大切という気持ちが表れている。安倍総理がテレビ朝日で「お互いに相手との違いを認めながらも尊重する」と「和して同ぜず」の心を語っており、私の期待する方向にもっていこうという気持ちがうかがえる。

今日の本題は音楽の話である。私は毎日ラジオを聴きながら2時間ほど朝のうちに散歩をするのだが、ラジオでは70年代、80年代の曲が良くかかる。私自身このくらいの時代のものが好きなのだがふと「40年前のことを話して仕事になるのは良い商売だな」と思った。

私が大学を卒業して会社に入ったのは1974年だが、その時にはパソコンも携帯電話もインターネットもなかった。当然そのころの知識は現在は全く役に立たない。情報通信の分野ではおそらく2000年頃の知識もほとんど役に立たないだろう。それに比べると音楽紹介などでは40年前の知識がまだ役に立っている。一度その分野でポジションを確立すると長期間の安定が認められる。逆に言えば最新の音楽よりも以前の音楽のほうが良いと感じる人が多いことを意味している。これは音楽が進歩していないことを意味していないだろうか?

私はジャズが好きである程度聴いたつもりだが、私の感覚ではジャズのピークは1950年代で、1960年代はミュージシャンが内面を深く見つめすぎて抽象的になり、一般人にはついていけなくなったと思っている。ジャズ人気が下がってしまったので70年代後半辺りから聴きやすい娯楽性の高い音楽に戻して人気はそこそこ復活しているが、1950年代のような突き詰める感覚はなくなっていると感じる。

他の芸術の分野、クラシック音楽や絵画、文学なども同様に抽象化が行き過ぎた結果人気がなくなり娯楽性を高めて生き残っていると感じている。娯楽やファッションは常に変化するがそれは進歩ではなく流行だと思っている。要するに人の感性はそれほど変わらない、ということだろう。

その一方で情報通信の進化はむしろ早すぎる。次々と新技術が出てきて10年くらいで前の技術は使い物にならなくなるので、常に最先端を走れる人は稀である。50年間は生産人口であろうとすると、非常に苦しい状況になる。勤労者の入れ替わりの遅い日本はこれについていけずに苦境に陥っている。以前書いたように競争が社会の根幹なので付いていくしかないのだが、もう少し進歩を緩めればよいのに、と思うのは正直なところである。


北方謙三の「岳飛伝」を読了

2019-02-17 17:21:57 | 生活

北方謙三の歴史小説「岳飛伝」全17巻を読み終えた。このシリーズは「水滸伝」全19巻、「楊令伝」全15巻に続く第3部で、以前の「楊令伝」を読み終えてから5年近くが経過している。北方氏は月刊誌に連載し、ある程度まとまった時点で単行本にして発行する。それから2年ほどすると文庫本が出てくる。私は文庫本が出るまで買わないことにしていたので、楊令伝を読み終えてからしばらくは岳飛伝のことは忘れていた。ところが昨年、本屋で「岳飛伝」の文庫本が出ているのを見つけた。ブックオフにも売っていたのでまとめて買った。

私は夜寝る前に寝床で小説を読むのを習慣にしている。10ページほど読んで気が付くと眠っていたこともあるし、なかなか眠れなくて1時間以上読むときもある。それで、17巻を読み終えるのに4か月以上かかった。

北方謙三氏のこの一連の作品は「大水滸伝」全51巻と言われている。最初の水滸伝は中国の有名な小説で宋の時代に様々なキャラクタを持つ人々が「梁山泊」に集まってクーデターを計画する話である。結局クーデターは鎮圧される。北方謙三の「水滸伝」は吉川英治の「三国志」などとはかなり趣が異なっており、原典の「水滸伝」の登場人物は利用するがストーリーは大きく書き換えて北方謙三氏の世界を作っている。しかし、大きな意味で梁山泊が最後に鎮圧されて終わる点は同じである。

「楊令伝」は梁山泊が鎮圧された時には少年だった楊令が成人して梁山泊の生き残りを集めて再起するストーリーで、中国北方で勢力を強めた女真族の「金」国と連携して宋を倒してしまう。これ以降、中国は北側は「金」、南は「南宋」という二つの国に分かれる。しかし、最後は楊令は暗殺されてしまう。楊令伝は全て北方謙三の創作で、楊令も架空の人物である。

「岳飛伝」の「岳飛」は楊令伝の中では梁山泊の敵として出てくる登場人物で、楊令伝の中では子供だったのだが、岳飛伝では梁山泊と連携して「南宋」、「金」を倒して中国統一を目指す。楊令伝の段階から梁山泊は「国家」というものを軍事力で国民を統治するのではなく貿易立国を目指し、日本、東南アジアからいわゆる西域までの早大の流通経路(シルクロードの原点9の構築を目指す。岳飛は実在の人物であるが、ストーリーは北方謙三氏の創作で、あまり史実に基づいては居ない。

「岳飛伝」は壮大な貿易立国を目指す動きと、南宋や金国との軍事的対立が絡み合った面白い作品で、読み飽きないのだが、「水滸伝」「楊令伝」と比べると若干の物足りなさを感じた。個々の人物が行動を起こすときの動機が今一つピンとこなかったのである。北方謙三氏も高齢になってきているので、年齢による衰えでなければよいが、と思っている。「岳飛伝」の最後には楊令の息子がモンゴルに逃げていく話が出てきており、これが次のジンギスカンの話につながっていくことを予感させる。実際のところ、北方謙三氏によるジンギスカン伝が出ることを連想させる。実際のところ単行本の「チンギス紀」は既に3冊発行されている。

ジンギスカンは私が興味を持っている人物で、わずかなモンゴル人でどうしてあれほどの大国を統治できたのかを知りたいとかねがね思っていた。できれば完全な創作ではなく、かなり史実に基づいて伝記風に書かれている山岡荘八の「徳川家康」のようなスタイルを期待しているのだが、北方謙三氏ならば創作性がかなり強くなることだろう。「チンギス紀」は図書館で借りて1冊くらい読んでから買うかどうかを決めようと思っている。


堺屋太一氏の訃報

2019-02-12 18:41:09 | 生活

小説家で経済評論家だった堺屋太一氏の訃報が流れている。私にとっては数少ないきちんとした長期展望を語る経済評論家であり、非常に残念に思っている。まだまだいろいろなことを語ってくれる、影響力のある人物だと思っていた。

堺屋太一氏を紹介するときに「団塊の世代」という言葉を生み出した人、という紹介が多いが、私にとっては「知価革命」が印象的である。実は堺屋氏の小説は読んだことはないのだが、この本は読んだ。私が読んだのは1990年頃だが、調べてみると初版は1985年であり、この時期に「工業社会が終わる、知価社会が始まる」と言ったのは慧眼であると思う。実際に知価社会が勢いを増してきたのは21世紀に入ってからだと思うが、平成の日本が経済でもたついているのはまさにこの知価社会への対応に失敗している(今でも失敗を続けている)からだと思う。一部の人は対応できているのだが社会全体の仕組みが依然として工業社会重視の体制なので日本の経済は元気がないのだと私は考えている。

堺屋太一氏の文章でもう一つ私の記憶に残っているのは数年前に元日の新聞の特集号にあった未来小説である。それは「今は中国から日本に出稼ぎに来ているが、50年後には日本から中国に出稼ぎに行くことになる」という趣旨の内容だった。あれから数年間経過したが私には世の中は着実に堺屋氏の予想の方向に動いているように感じている。

堺屋太一氏は「「多くの人は近場の予想はできるが、10年後、20年後の予想はできない」というがそれは逆だ。遠い将来はトレンドを見ていれば予測できるが、近場は個々の判断で影響を受けるので予測は難しい」と言っている。私も同じような感覚を持っている。しかし、このような観点でものを語る人は極めて少なく、その中できちんとした視点から長期的展望を語ってくれた堺屋太一氏を失ったのは日本にとって大きな損失であると感じている。

合掌


千葉県の児童虐待とChildren Abuse

2019-02-07 12:26:59 | 生活

千葉県野田市で小学4年生の児童が虐待され、死に至ったというニュースが連日報じられており、今日は国会でも「政府が対応を検討する」という話が出ていた。本件に限らず、親が「躾」という名目で子供に暴力をふるう話は最近よく耳にするようになってきたと感じている。極めて痛ましい事件だが、本稿の目的は教育委員会などを非難することではなく、私の体験から過去のアメリカとの比較をすることである。こういったニュースを耳にするたびに私は30年以上前にニューヨークで聞いた話を思い出す。

私は1982年から1年間、会社のサポートでニューヨークにあるコロンビア大学に留学していた。それまでの私の英会話経験と言えば、国際学会でプレゼンして、他の国の研究者と会話した程度だったので、英語力を高めるために夏休み中の8月にコロンビア大学が実施している英会話教室に参加していた。このクラスは日本人、中国人、韓国人、イタリア人、フランス人、スイス人などが混じった10人強のコースで若い女性も多く、私にとってはいまだに強い印象に残っている楽しい体験である。

このコースの授業の中で先生が「Children Abuseは今この国では大きな問題になっている」と言っていたことを思い出す。「児童虐待を防ぐために様々な法案が作られている」というような話だった。その時は「日本ではそんな話はほとんど聞かないな」というのが私の印象だった。そして30年経過した2012年あたりから日本でも児童虐待がニュースとして話題になってきたように思う。やはり、日本は家庭の面でもアメリカに追従しているのかと感じる。

しかし、私には「本当に日本がアメリカに似てきたのだろうか?」という疑問を感じている。私が思うのは、「35年前の日本に児童虐待が無かったわけではなく、昔からあったのだが表に出なかっただけではないか?」という疑問である。「昔はこのようなことがあっても、表ざたにならずに処理されていたのではないか」という感じがどうもぬぐえない。今は、子供に暴力をふるうことが「悪いことだ」とされているだけに、かえって陰湿で激しいことになったのではないか、という感じはあるものの、親の子供期待する暴力が昔よりも増えたとは考えにくい感じがしているからである。夫の妻に対するDVなども同様ではないかと感じている。

もしそうだとすると、「問題が表面に出てきて社会が対応を考えるようになる」というのは社会が進化していく一つの過程で、児童の扱いに関して今の日本は必要なプロセスを経ているのではないか、と思う。最も重要なことは問題を隠蔽しないで表に出すことだと感じている。


街で増えたと感じるもの

2019-02-03 19:58:11 | 生活

私は毎日2万歩近くを歩いている。これをここ数年続けているのだが、ゆっくりだが街並みが変化していることを感じる。ここ数年で増えたと感じるものを書いてみよう。

・処方箋薬局

ここ数年で増えたと感じるのは処方箋型の薬局である。最近2年くらいは増えるペースが下がってきたと思うが、5年前くらいから急に増えてきた印象である。大きな薬局ではなく、昔の八百屋程度の小さな店構えの処方箋薬局が急に増えたと感じている。厚生労働省の医薬分業で病院に併設した薬局を減らそうとする方針からきているのだろう。しかし、私の印象では増えすぎで、こんなに増えるといずれ淘汰されるのではないかと感じている。

・トランクルーム

トランクルームはここ2-3年特に急激に増えていると感じる。場所は様々で道路に面した店舗があってもおかしくないような場所にもあるし、畑のような場所もある。値段は良くわからないのだがネットで調べてみると、私の住んでいるあたりで1畳あたり5000円程度のようである。20畳(40平方メートル)程度で10万円になるのでアパートと同程度のような気がする。トランクルームは建設費はアパートよりもかなり安いだろうし、面積も狭いところでも建てられるのでアパートよりは効率の良い経営ができるので、空き地にトランクルームを建てる人が増えているのだろう。

アパートやマンションはなかなか広くならず、狭いところが多いので、基本的に住宅地である田園都市線沿線ではトランクルームの需要は高いのだろう。しかし、増えすぎると価格低下を起こすだろうと思う。

・ドラッグストア

ドラッグストアは結構大きな敷地面積をとるのでそんなに急激には増えないが、私の感触ではコンビニよりも速いペースで増えていると思う。私自身もドラッグストアによく買い物に行く。私の場合、薬や健康食品を買うことはほとんどなく、卵や牛乳といった食料品を買う。その理由は安いからである。ドラッグストアはコンビニよりも大きなスペースを必要とするので場所探しが大変だろうと思うがそれでもコンビニよりも早いペースで増えている感じがする。コンビニの全盛期は終わって、これからはドラッグストアの時代になるのではないだろうか?

最近増えていると感じるのは以上であるが、逆に減っていると感じるのは書店である。書店の数自体も減っていて小さな書店はほとんど閉鎖してしまったが、大きな書店でも中で書籍コーナーが減ってビデオや文房具が増えている気がする。特に文房具が意外としっかりしている感じがする。考えてみれば私自身、書店で本を買うことはめっきり減って大部分はアマゾンで買う。小説などはブックオフで買うので、書店が減っても仕方ないかと思う。

ゆっくりなようでも20年もたつと街の景観も随分変わるのだろうと思う。