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ウィトラのつぶやき

コンサルタントのウィトラが日頃感じたことを書いていきます

1998年末、3GPP設立

2011-03-11 07:56:06 | 昔話

1998年末に、ヨーロッパ、日本、アメリカ、韓国が集まって第3世代移動通信の標準化を行う組織3GPPが設立された。参加資格はそれぞれの地域標準化団体にメンバー登録している企業である。それぞれETSI(欧州)、ARIB(日本)TTC(日本)、ATIS(US)、TTA(韓国)となっている。これらの5団体が集まって議論をするが具体的な技術論は個別企業間で行う。当初から私は日本だけ2団体になっていることに違和感を持っていたが、この状態は今でも続いている。1年後に中国のCCSAが加入して現在は6団体での運営になっている。

3GPPは現在では世界の移動体通信の標準を牛耳る大変重要な団体であるが、この団体は任意団体で法律的には存在しない事になっている。つまり会費を集めたりすることはできない団体である。会費集めや事務局職員の派遣、ホームページの作成や、仕様書のメンテナンス、広報活動などは最大の参加母体であるETSIが扱っており、他のメンバーに図って意思決定をしている。ルールも大部分がETSIで使っていたルールが採用された。

こうして、WCDMAの標準化を行う3GPPが結成され1999年に入って実際の活動が始まった。この頃から私に無線グループの初代議長をやらないか、という話が下りてきた。3GPPの組織は無線ネットワーク、コアネットワーク、サービス、端末をそれぞれ審議する4グループが構成され、それぞれのグループの下にいくつかのワーキンググループが構成されて、技術仕様書を作成する。しかし、承認はすべて親会議で行う、という構造になっている。無線グループの扱う範囲はそれまで日本で私が議長をしていたグループよりもはるかに広く、無線伝送方式だけでなく、プロトコル、基地局間の連携などを含むものだった。

私自身は無線伝送方式の方に興味があったのでワーキンググループの方をやりたいと思っていたが、日本勢として親会議の議長を取る事も政府へのアピールなどで重要ということで、無線伝送方式のワーキンググループの仮議長を少しやってから親会議の議長に立候補することにした。3GPPでは2回会議に出席しないと投票権ができないというルールにしており、第1回目は議長選挙をすることができない。第2回目の親会議は1999年3月と決まっていたので、それまでの間、無線伝送方式のワーキンググループの仮議長をすることにしたのである。

第1回目の仮議長のワーキンググループは私にとって悲惨なものだったが、お陰で多くの事を学び、本議長に対する準備をすることができた。


社会人第3の師 Karl Heinz Rosenbrock

2011-02-11 08:55:24 | 昔話

今回は私が社会人第3の師と考えるRosenbrock氏についてである。この人は今は引退しているが健康には問題なく活動している人である。しかし、外国人であり、私のブログが彼の生活に影響を与えることは無いだろうと思うので紹介することにする。

Rosenbrock氏を私が知ったのは彼がヨーロッパの標準化組織ETSIのトップだった時である。私は彼の行動から学ぶところが多かったので師と思っているのだが、向こうは殆ど私を意識はしていなかったと思う。言われれば「そんな人もいたな」という程度だろう。第2の師、佐々木さんは明確に私を意識して育てようと思っていた感じがするのとは大分違う。

ETSIという組織はイギリス、ドイツ、フランスなどの集まったヨーロッパ全体の通信にかかわる標準化を有線・無線を含めてすべて扱っている組織である。これに対する日本の組織はどうなっているかというと、無線はARIB、有線はTTCという2組織に分かれており、私の付き合いの深かったARIBのほうで言えば現在のトップはソニーの中鉢氏である。ARIBのトップはソニー、パナソニック、富士通、NEC、三菱などの社長が持ち回りで務める。

ARIBのトップは実質的には名誉職で、1年に数回、新年会や総会などで挨拶をする程度である。その下に専務理事という人が居て、その人が実質を取り仕切っている。当時は専務理事の下に無線通信グループと放送グループがあり、無線通信グループの中に移動通信グループがあったと記憶している。佐々木さんはこの移動通信グループを率いていた。従って、Rosenbrock氏と私は、大会社の社長と課長くらいのレベル差があり、向こうが記憶していなくてもおかしくないくらいの人物である。

私が初めてRosenbrock氏を知ったのは、1998年、3GPP設立の議論が煮詰まってきて、具体的に内部組織を決めたり、投票権を決めたり、ルールを決めたりする段階の会議でだった。その時の会議のARIB代表は佐々木さんであり、ETSI代表がRosenbrock氏だった。ETSIのトップ自らがこのような会議に出席していること自体が私にとっては驚きであり新鮮だった。

その会議では、ヨーロッパと日本に加えてアメリカと韓国が3GPPに参加することが決まっており、アジア・アメリカ・ヨーロッパで権限を3等分しよう、という議論がなされていた。この提案に最も強く反発したのはETSIのヨーロッパ勢である。既にGSMは世界全域で導入されており、実質的な世界標準でありGSMのシステムを改変するのはETSIの内部組織であるSMGで行われている。3GPPの事務局などもETSIから出すことになっていたので、ETSIの会議にアメリカや日本から参加してもらえば良いではないか、という意見である。

これに対してRosenbrock氏が「地域エゴを出すと話はまとまらない。新しい組織は皆が積極的に参加しようという気持ちになるのが何より大事。まずやってみようではないか」といってヨーロッパ勢を説得した。結局その説得がうまくいったわけだが、良くうるさいヨーロッパ勢がその説得で納得したものだと思う。Rosenbrock氏に対する信頼が大きな要因になっていたと思う。

その後、私は3GPPの無線グループの議長になり、グループの書記(Secretary)を雇うときの採用面接などにも同席させてもらった。Rosenbrock氏はフランス在住のドイツ人なので英語、ドイツ語、フランス語が堪能である。候補者がフランス語ができると言えばフランス語で質問したりして試していた。質問内容も様々な角度からの質問が含まれており、参考になった。外部団体から3GPPにレターなどが来て、丁寧な断りをするときの言い回しなども見事なものだった。

3GPP設立当時に、密接な関係を持つETSIの活動としてGSMの標準化を行うSMGと、SIMカードの標準化を行うSCPがあった。3GPPが設立して1年後にはRosenbrock氏はSMGを解体してGSMの標準化を3GPPに組み込むことを提案してきた。GSMはヨーロッパ発の実質的世界標準である。この時もさぞヨーロッパ内で反対意見があっただろうと思うが、結局GSMは3GPPで議論することになった。

その一方でSIMカードのSCPはETSI内部に留めている。当時のSIMカードは部品の一つで携帯電話に比べればはるかに小さなビジネスだったが、SIMカードは携帯電話に留まらず更に大きな枠組みの核となると判断していたのではないかと思う。10年後の今になって、タブレット端末が出てきてその構想が眼に見えてきていると思う。Rosenbrock氏は業界全体を俯瞰する大きな視野を持った人だと思っている。

なお、このブログを以前から読んでいる読者は「何人まで師が出てくるのか?」と疑問を持つかもしれない。私が師と思う人の登場はこれが最後である。


第3世代移動通信の標準化(8) 統一された標準化の場、3GPP設立へ向けて

2011-02-01 11:52:10 | 昔話

ヨーロッパの大激論が決着し、私は日本のARIBにおけるIMT2000の日本案作成の細かい詰めの作業を継続していた。次第に議論が細かくなってくるにつれて、日本とヨーロッパで並行して標準化作業を継続し、調整会議ですり合わせを行うのでは手戻りが多くて回らなくなる、全員が一堂に会して議論するような場を作るべきだ、という話になってきた。

これが3GPP( 3rd Generation Partnership Program)という組織になる。この話をまとめるのにも相当に大きなエネルギーが必要だったと思うが、組織作りの話は佐々木秋穂さん(故人)が中心になって動いていて、私に設立準備会合に出席するように話が来た時には大体の大枠が決まってからだった。つまり、ヨーロッパ、日本にアメリカと韓国の標準化団体が加わった形で設立する。会議は英語で行う。参加の単位は企業とする、というような基本方針が決まっていた。

この参加を企業単位とする、というのが重要な点で、それまで世界標準を作るにはITUという組織があったのだが、この組織は国連の下部組織で国単位で参加しており、意見も国単位で表明する。しかし、国の中には様々な意見があり、それを国内で調整してから持ってくる。それが皆が集まったときに意見が割れたりして調整が必要になった場合、国としての調整を判断する権限を持った人は普通はいないので持ち帰りになってしまう。これが物事を決定するときに、時間がかかり迅速な決定の障害になる。従って、決定責任者を置くことのできる単位として企業単位が良い、ということになっていた。

私が参加したときには具体的な進め方や、組織のルール、議長の選出と言ったあたりが話題になっていた段階だった。この3GPP設立準備会合に出席して私は自分にとって第3の師と思っているKarl Heinz Rosenbrockと出会うことになった。


第3世代移動通信の標準化(7) ヨーロッパでの対立と合意

2011-01-24 10:00:04 | 昔話

しばらく間が空いてしまったが、3G移動体通信の標準化の流れの続きを書こう。

アメリカとのすり合わせはある程度は進んだものの、「合わせよう」という合意に達するところまでは行かなかった。並行して韓国とも議論を進めていたが、韓国側はそれほど特定の技術にこだわりを見せていなかったので大きな問題にはならなかった。問題はうまくいっていると思っていたヨーロッパとの整合で起こった。

当時、ヨーロッパではFramesというR&D検討会の中でIMT2000の検討が進められていたが、その中には日本の検討会のように複数の方式が提案されており、その中で最有力と見られていたのがアルファコンセプトと呼ばれるWCDMA方式だった。これをサポートしていたのはエリクソン、ノキアといった北欧の会社だった。

それがある時期から、デルタコンセプトと呼ばれる方式がヨーロッパ内で急浮上してきてヨーロッパ域内で大議論になった。デルタコンセプトというのはヨーロッパで開発されたGSM方式をできるだけ継承しながら広帯域するような方式だった。詰めは不十分だったがGSMの延長線上というコンセプトが受けが良くて、シーメンス、アルカテルといったフランス・ドイツ勢がサポートしていた。

我々日本勢は青くなった。もしヨーロッパがデルタコンセプトのほうに流れてしまうと、また日本は孤立してしまう。ヨーロッパにアルファコンセプトを採用してもらうためにWCDMAの良さをヨーロッパのオペレータに分かってもらおうと様々な活動をした。97年の秋頃には私も何度もヨーロッパに行ってオペレータにWCDMAの良さを説明した。

ヨーロッパでは投票にかけられたがアルファが60%、デルタが40%で決着しなかった。ヨーロッパではどちらかが70%取らないと結論としないというルールになっていた。ドコモの社長がWCDMAに合わせてくれるならコアネットワークはGSMに合わせる、というような発言もして、97年末にFDD方式(上り下りは別周波数)はアルファ、TDD方式(上り下り同一周波数)はデルタ方式ということで妥協が取れ、決着した。それまで携帯電話の殆どはFDDであったので我々としては一安心だった。

この議論の過程で、ヨーロッパの議論の厳しさを私は体感した。このデルタコンセプトからできたTDD方式は、日本ではIPモバイルという会社に周波数が割り当てられたが、商用に至らないうちに会社は倒産し、周波数は政府に返却されている。


スウェーデンへの興味

2011-01-12 13:21:05 | 昔話

1980年代から1990年代にかけて私はスウェーデンという国に興味を持った。そのきっかけは学会や標準化活動を通してスウェーデンを代表する通信機器メーカ、エリクソンの技術者の何人かと知り合ったからである。

エリクソンの技術者は一見柔和な感じだが芯が強く、戦うときは徹底的に戦う感じの人が多い。また仕事も非常に熱心で良く働く。日本人は良く働くと言われるが、エリクソンの社員には負けるのではないかと思うくらいである。

良く知られているようにスウェーデンは社会主義的で税金が高く、福祉もしっかりしている。従ってある程度以上になれば収入はそれほど伸びないし、給料自体もアメリカの会社などと比べれば安いのではないかと思う。そのような会社でどうして皆そんなに良く働くのか、これが私の疑問だった。スウェーデンに関する本を何冊か読んだが、なかなか分かる感じがしなかった。

スウェーデンに関する本で私にとって最も印象的だったのは子供向けの絵本だった。スウェーデン語で書いてあるので文字は読めないのだが、スウェーデンの四季の風景と人々の暮らし、それにお祭りなどのイベントが絵で描かれている。日本でも地方の風習などは消えつつあるがその消えつつある田舎の暮らしを絵にしたような本である。その本を見て私が感じたのはマンガのムーミンを連想させるものだということである。ムーミンはフィンランドの話だが、気質的につながっているところが多いのだろう。

自然を大切にして、恐れると同時に必要な時には敢然と戦う。個性を大切にしてできるだけ受け入れる中で生活につながる重要な部分での社会性は求めていく、という感じである。私は北海道生まれなのだが北海道の人にもある程度共通した部分があるように思う。寒い地方の特徴だろうか。

会社の運営に関しても何人かに話を聞いてみたのだが、一番「なるほど」と感じたのは以下のような話だった。

「うちの会社の特徴というとキャリア面接に非常に時間をかけることだろう。自分は何をしたいのか、人生観から会社での処遇までいろいろ話し合う。そしてその人の成長に役立つと思われる仕事にできるだけつけるように配慮する。その結果、各人がその仕事に対してコミットする気分になる。これは会社のためだけでなく、自分のためにもなるんだ、という強い気持ちが仕事の動力源になっている気がする。」これが答えだった。

同じようなことは日本の会社でもやっている。しかし、おそらく徹底の仕方が違うのだろうな、と感じたものである。


第3世代移動通信の標準化(6) 海外との調整

2010-12-08 08:11:58 | 昔話

ARIBにおける第3世代移動通信の標準化と並行して諸外国との調整作業が行われた。これは第2世代のPDC方式の時に日本国内では非常に短期間に市場が立ち上がる優れた方式であったにもかかわらず、海外では採用されず、日本だけの方式になってしまったからである。このようなことを繰り返すまいと、提案の段階でかなりの国と歩調を合わせられることを目的として、調整の打ち合わせが行われた。

1997年時点では日本の検討が進んでおり、かなり形が出来上がっていたが、その様子を知った海外勢はそれぞれ検討を加速してきた。このようなすり合わせの調整は、佐々木さんが音頭を取っていたのだが、技術論も当然ながら色々と行われ、技術論をぶつけ合うような会議には私が指名されて議長を務めた。

ヨーロッパ勢、特に北欧勢とは比較的早期に方式を合わせる合意ができたのだが、アメリカ勢とはCDMA方式という点では共通していたが具体的な実現方法ではかなり大きな違いがありどちらの技術が良いか比較検討会議を何度か行った。この会議も私が議長に指名されたのだが、国内の建設的な会議とは雰囲気が違ってどちらが良いかという意見をぶつけ合う会議だったので、それはそれで私にとっては良い経験になった。並行して韓国とも技術検討会議を行いこれも私が議長に指名された。

アメリカとの会議では、日本の考え方の良さが認められたものの、彼らは心から納得しておらず、後では彼らは別の標準化団体を立ち上げることになった。

私が参加していたのは技術論を戦わせる会議だったのだが、これと並行して体制論の議論も進んでいた。こちらは佐々木さんが様々な団体と交渉していた。97年の後半に入って、うまくいっていると思っていたヨーロッパで意見が2分されてきた。日本に近いWCDMAを推すグループと、GSMの構造を踏襲するTD-CDMA方式を推すグループに分かれて大議論になり、ヨーロッパがTD-CDMAになると日本が孤立してしまうと、大いに気を揉んだ。



第3世代移動通信の標準化(5) (故)佐々木秋穂さんのこと

2010-12-01 08:51:02 | 昔話

私はこのブログにはマスコミに名前の出る著名人以外の個人名は極力出さないようにしている。それは良い意味であれ悪い意味であれ、本人の知らないところで書かれたものが本人の生活に影響するのは良くないと思うからである。佐々木さんに関しては故人になっているので、ここで感謝の念を述べることは差し支えないだろうと思う。

佐々木秋穂さんはドコモの研究所の部長からARIBに異動されて、日本の移動通信の標準化を引っ張ってこられた方である。私自身、ドコモ時代の佐々木さんに面識はあったが本格的にお付き合いを始めたのは標準化にかかわり始めてからである。

私は自分の中で佐々木さんを自分の社会人人生で第2の師、と位置付けている。社会人人生で第1の師は入社当時の通信研究部の先輩たちである。個人的に「どの人が」というよりも様々な個性を持った先輩たちがいろいろな色に輝いていて、その中で揉まれたことで自分を研究者として立ち上げることができた。

佐々木さんに関しては自分が標準化の分野で知られるようになったことに関する先生である。具体的に標準化の手法を教わったとか、佐々木さんのやり方を踏襲したとかいうことではない。既に書いたように私を標準化の世界に誘ってくれて、会社の上司と話をつけ、その後も様々な役割を与えてくれた。

1997年から2000年くらいまでの期間は、それまで国内で行われていた移動通信の標準化を世界に向かって開く時期であり、佐々木さんはその仕組み作りに奔走しておられた。最初から方向性が見えていたわけではなく、様々な国との個別交渉を行いながら、どこと一緒に話を進められるか、どこまで一本化できるかを探り、3GPP設立への道をつけていった。その過程の中で技術議論が入る場合には次々と私を議長に指名してきて、当時は仕事が増え過ぎだと思ったものだが、最終的には3GPPにつながり私は3GPPのRAN議長ということになった。自分としても一連の過程で大きく視野が広がり成長できたと思っている。

現在、3GPPは移動体通信の標準化では世界中ほとんどを抑えるような組織になっているが、この3GPPという組織は佐々木さんが居なかったらできなかっただろうというのが関係者皆が認めるところである。佐々木さんは3GPP2の会議中に倒れられ、しばらくして無くなった。私が佐々木さんが倒れたのを知ったのは、別の国での3GPPの会議中だった。ほぼ体制は出来上がった後だったが、それでも佐々木さんが倒れていなければ、日本の標準化の体制はまた少し違ったものになっていたかもしれないと思う。

私は佐々木さんを師と言っておきながら、いつ倒れたかもきちんと記憶していない。情けないものである。ネットで検索すればWikipedia位に出てくるかと思ったが出てこない。佐々木秋穂という人物を人々の記憶に残すために、Wikipediaに「佐々木秋穂」の項を作る動きをしてみようかと思っている。


第3世代移動通信の標準化(5) -鬼怒川合宿‐

2010-11-23 06:04:05 | 昔話

私が議長をしていたグループは通常は都内にあるARIBの会議室で2-3時間の会議を行っていたがある程度話が進んでくると全体を整理するための合宿会議を行った。1泊2日で金曜日の午後から土曜日の午前中に行っていたような気がする。

鬼怒川になったのは事務局をやっていたARIBの人が浅草近辺に住んでいたからだった。普通の日本旅館で、昼間は研修用の会議室で会議を行い、夕方に会議が終わってひと風呂浴びてから大広間で夕食、それからどこかの部屋を、懇談用の部屋として夜中まで飲みながら話す、といった典型的な日本式の合宿である。

この合宿にヨーロッパや、アメリカの会社の人たちも通訳付きで参加してきた。彼らとすれば一回の会議でかなり話が進むのでチャンスと言えるタイミングである。しかし、欧米のホテルは普通は個室なのに対して、和室では一部屋に3-4人入るのが普通である。北欧から来た人たちはあまり気にせずに泊って、むしろ温泉を楽しんでいた感じだったが、アメリカの人たちには抵抗感があったようである。

彼らは夜の懇親会にも参加してきた。畳の部屋で浴衣を着ての参加である。話は雑談であるが真面目な話も出る。彼らにとっては大切な機会なのだった。大変なのは通訳の人である。畳の部屋での飲み会に夜遅くまでつき合わなくてはならない。勿論彼女らにとっては仕事なのでアルコールも飲まない。「私達、こんなに働いたの始めてよね」などと言っていた。

ヨーロッパから来た人は「日本の会議はいいね。皆が建設的に意見を言ってくる。ヨーロッパではいつも戦いの連続だ」と言っていたのを覚えている。それまでの日本の会議は提案者のNTT系の人の発言が中心で、他の会社の人はあまり発言しないパタンだったのだが、私の会議では色々な会社の人が発言していた。これは、この会議が始まる前の無線方式検討会の流れが作ったものだと思っていた。

こんなことをやりながら次第に日本の第3世代移動通信の標準化案は固まっていったのだが、並行して重要な作業が進んでいた。それは日本が孤立しないようにするための諸外国の標準化案との調整である。


第3世代移動通信の標準化(4) 通訳の女性たち

2010-11-15 12:06:32 | 昔話

前回の記事で述べたように、ARIBで私が議長をしていたグループには複数の海外の会社から通訳付きで本国の技術者が参加してきていた。それで私自身も複数の通訳の人たちと知り合いになった。英語と日本語の逐次通訳だが、殆どが若い女性だった。

参加する技術者は北欧の人で英語は母国語でない人たちなので表現自体は難しいものではないが技術内容が普通の教科書には書いていないような最先端の技術であるため通訳の人達が概念をつかむことができずに苦労している場合が少なからずあった。そのような場合には私が助けてあげていた。しかし、彼女たちは技術内容の寄書を一所懸命勉強して理解しようとしていた。技術者でも理解するのは大変な内容に取り組む姿勢は印象的だった。

あるとき、日本のオペレータの人と私と海外の会社の人が会食する機会があり、その会社はいつもの通訳の人を連れてきた。食事をしながらの会話なので技術の細かい話にはならずに、普通の世間話とか、技術の話をするにしても大きな話をするだけだった。通訳の人もいつもより楽にこなしている感じがしたので「今日は調子がいいね」と声をかけた。

しばらくして、別の通訳の人から「古谷さん、あの人に「今日は調子がいいね」、と言ったでしょう。彼女は普段はダメなのかと落ち込んでいましたよ」と言われた。私はそんなつもりはなかったのだが、言い方が良くなかったのだろう。本人は特に調子が良いとは思っていなかったのかもしれない。こういうときの言いまわしは私は今でも苦手である。

いずれにせよ、通訳の女性たちのプロ意識はたいしたもので、仕事をしながら、どんどん成長していくだろうな、と思ったものである。


第3世代移動通信の標準化(3) ARIBでの活動はじまる

2010-11-02 11:01:55 | 昔話
上の図は1997年にARIBで具体的にIMT2000の標準化活動を始めた時の組織図である。日本国内で政府、ARIB、TTCという団体が関わる中でARIB内に作られたIMT2000研究委員会の下のAir-Interfaceワーキンググループのさらに下のサブワーキンググループ2というグループを私が取りまとめることになった。組織的にはずいぶん下のほうの組織だが、ここで次世代移動通信の無線伝送方式を決めるとあって未経験の私としては非常に重要な役割を与えられたという思いがあった。

業界の注目度も高く、外資系の日本エリクソン、ノキア・ジャパン、モトローラ・ジャパンなども参加してきていた。日本の会議なので日本語で行うがある程度まとまった決定を行うような場合には、それぞれ本国から第1級の技術者が通訳付きで参加するようになった。日本の会議は虎ノ門のARIBの会議室で2時間、長くても半日程度の会議を行うのが普通である。その時はあまり気にしていなかったが、考えてみるとその会議のために日本まで出張してくると言うのは大変なことである。当時のARIBのこの活動に対する関心の高さが伺える。

会議を進めるのにあたって私がまず意識したのは、形を整える、ということだった。具体的には提出する資料の形式、用語の定義を示す用語集の作成などである。これらは第1回の会合で各社に宿題として分担してやってもらうことにした。後に3GPPの会議をやるようになって日本との違いを感じる点がこういう仕事を誰にやってもらうかである。日本の場合には「誰かやってくれませんか?」と言っても名乗り出る人はまずいない。こちらから「指名してA社さんお願いします」というと断られることもまず無い。重い仕事の時には前もって内諾を受けておく必要がある。しかし3GPPではたいてい誰かが名乗り出る。こういう点は取り組み姿勢の違いが出ていると思う。