備忘録として

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シュリーマン旅行記 清国・日本 ”清国の巻”

2009-09-12 23:38:06 | 
あのトロイを発掘したシュリーマンが幕末の日本へ来ていたということは、彼の「古代への情熱」に書いてあった。ロシアとの貿易で大金持ちになっていた彼は、トロイ発掘を始める前に世界を見ておこうと、1864年4月にチュニジアのカルタゴ見物を皮切りに、エジプト、インド、セイロン、マドラス、デリー、ヒマラヤ、シンガポール、ジャワ、サイゴンを廻り、中国に2か月滞在し、香港、上海、北京、万里の長城などを訪問した。それから、横浜と江戸へ行き、その後、太平洋を越えてサンフランシスコへ行った。太平洋渡航の50日間に、シュリーマン最初の著書「シナと日本」(フランス語)を書いたという。その訳本を本屋で見つけた。

今日は”清国の巻”として、彼がシナで見聞したことをまとめる。
1.北京の巨大な壁を前に、”マルコポーロが、ガンバリの豪華さや大ハーンの都のついて熱を込めて語った”ことに思いを馳せた。”ガンバリ”は北京のこと思われ、訳者がフランス語読みをしたものと思われる。マルコポーロや西欧諸国は北京を”カンバルクCambaluc”と呼んだそうで、私の読んだ東方見聞録ではモンゴル語の”ハンバリク”と訳していた。シュリーマンは東方見聞録を読んでいた。
2.ヨーロッパからアフリカ、インド、東南アジアを経てきたシュリーマンが、”私はこれまで世界のあちこちで不潔な町を見てきたが、とりわけ清国の町は汚れている。しかも天津は確実にその筆頭”と描写している。シュリーマンは、この後訪れた日本に対しては、”日本人が世界でいちばん清潔な国民であることに異論の余地がない。日に一度は公衆浴場に通っている。”と記す。私の不潔ナンバーワンは、インドネシアのパレンバンのムシ川河畔の町で、大勢の人が川に食住を依存しているため、食事の準備、後片付け、排泄、水浴びなど生活のすべてが水際で隣合わせで行われていた。仕事でその町の波止場をひと月ほど毎日使ったがゴミによる異臭がひどかった。
3.纏足を詳しく描写し、貧富の差を述べ、貧者のみじめな暮らしに同情し、シナの寺院建築やヨーロッパ最高の建築家も一目おくほどであるが、今は、無秩序と頽廃と汚れしかない。皇帝の宮殿である紫禁城でさえ荒廃していると書いている。
4.燕の巣のスープを、味がなく魚のネバネバしたものに似ているとするが、以前眼にした砂糖煮にして食べたほうが美味しいだろうと感想する。シンガポールでスープも砂糖煮のデザートも食べたことがあるが、燕の巣そのものには味がなく寒天の筋のようなものである。でも料理の仕方によって美味に仕上がっていた。燕の巣はフカヒレ同様に極めて高価なので、接待でしか食べたことがない。
5.シナ人は偏執的なまでに賭け事が好きと述べる。シンガポールの同僚が、”インド人は3人集まれば議論し、中国人は3人集まれば賭け事をする。”という格言があると言っていたことを思い出した。
6.万里の頂上に案内人が疲れて同行しなくなってからも一人で五時間を上り続け目的地にたどりついているシュリーマンの好奇心と執念はすごい。長城はかつて人間の手が築き上げたもっとも偉大な創造物であるが、今や過去の栄華の墓石だと嘆じる。頂上近くの山岳民族には、アヘンも纏足もなく健康で清潔で親切であると好意を寄せる。
7.アヘンはシナの南方ほど蔓延し、北のほうが少ないという。上海大劇場の公設の場所にもアヘン吸引席があるほどだ。1840年のアヘン戦争は、シュリーマン訪問のわずか15年前のことであり、彼はアヘンを、シナ人を堕落させた原因(私注)として”麻薬の災禍”と表現する。
8.芝居の質が高く、特に滑稽劇は”日本人を除けば、シナ人は滑稽劇を演ずる技術にもっとも長けた民族である。”と、日本人と比較して記している。
9.ビブー(リンゴに似た小さい黄色い果物)とかバジー(南京豆の一種で皮が黒く実は雪のように白い)という食べ物が出てくる。訳者は、ビブーをビワ、バジーはライチと思ったが南京豆の一種というので違うようだと述べている。蒸したピーナッツは中華料理で普通にテーブルに並び、皮が黒で中の実はまっ白なので、バジーはピーナッツだと思うけど、中国語で何と言うのかわからない。ビブーはビンロウかもしれないが、中華料理でテーブルには並ばない。

シュリーマンはシナ見物の後、蒸気船で上海を離れ、1865年6月初めに横浜に上陸する。シュリーマンの描く日本は、”日本の巻”で紹介することにする。

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