備忘録として

タイトルのまま

チムール

2016-08-06 21:47:31 | 

  

アミール・チムールは14世紀サマルカンドを中心に大帝国を築いたウズベキスタンの英雄で、首都タシケントの中心に大きな銅像(上の写真)があり、お札(100スム=約3円)にも像や博物館が描かれている。チムールについては、長澤和俊『シルクロード』や植村清二『アジアの帝王たち』であらましを読んでいた。50年前に中央アジアを旅した井上靖も『遺跡の旅・シルクロード』でサマルカンドを訪れチムールの生涯を描いている。以下それらを参考にチムールの生涯と業績をまとめた。

チムールは1336年にサマルカンドの南の街ケシュで生まれた。チムールの墓石にはチンギス・カンの曾祖父の兄を祖とすると記されているが、一般にはトルコ系の一支族出身と考えられている。14世紀のアジアはチンギス・ハンの末裔たちによって分割統治された汗国が衰亡分裂し、サマルカンド周辺は西チャガタイ汗国として隣の東チャガタイ汗国から絶えず圧迫を受けていた。チムールは東チャガタイ汗国との戦闘で頭角を現し、1360年頃故郷の太守になり、1369年には西チャガタイ汗国を手中に収める。そのころ激しい戦闘で右腕と右脚を負傷し生涯、跛行することになる。黒田官兵衛と同じだ。1380年に東西チャガタイ汗国を統合し中央アジアの覇者となる。その後も戦いに明け暮れ、西はトルコの小アジアに攻め入りオスマン・トルコと戦いサルタンのバヤーズィード1世を捕虜にする。そのとき十字軍以来スミルナ(イズミット)にいたロードス島騎士団を駆逐している。南はインドのデリーを征服しトゥグルク朝を滅ぼし、北は南ロシアに攻め入る。チムールはイタリアのジェノア共和国、フランス、イギリス、カスチリア(後のイスパニア)に使節を送り、返礼の使節がサマルカンドを訪れている。1404年には中国の明朝征服の旅に上ったが、その途上病を得1405年死去する。明の鄭和の第1回航海は1405年なので、もしチムールが死なずに明と戦争を始め大戦争になっていれば鄭和の航海はなかったかもしれない。

チムールは、イスラム教を信奉しサマルカンドにモスク、王宮、学校、廟を建設し、各地から集めた工匠たちは、絨毯、刺繍、金銀細工、絵画、製紙、ガラス器、陶器、武具などの工芸を発展させた。チムールは都市、道路、バザール、隊商宿を整備し、学者や芸術家を集め、サマルカンドはシルクロードの一大中心地となった。また、トルコ語による文学も発展した。

チムールの死後、チムール帝国は100年あまり存続し、16世紀初頭に滅亡する。

上のチムール遠征概略図は長澤和俊『シルクロード』P373より

チムールはサマルカンドなどの都市の建設者であったと同時に、征服した都市で大虐殺を行っているので、「チムールは大征服者であるとともに、大殺戮者でもあった」(植村清二)や「チムールは中央アジアの遊牧文化とオアシス文化を融合させた」(間野英二)という評価である。

「チムールの姿を描いた肖像画は幾つかあるが、チムール朝時代の古いミニアチュールに描かれた肖像が、彼の壮年期の風貌を伝えるものとされている。日本の武士の甲冑に似た武具に身を固め、まる顔の両頬は黒い髯で覆われており、眼は小さく鋭い。」(井上靖) この井上靖が描写する壮年期のチムールとはおそらく左下の写真(Wiki)のことだろう。モンゴル系の顔をしている。晩年のチムールと対面したアラブシャーは、「背が高く肩幅が広い。大きな頭と濃い眉、あごひげを生やしていた。長い手足を持っていたが、右脚は不自由だった。目は蝋燭のようではあるが、光は無かった」と描写した。カスティリアからの使節クラビフォは晩年のチムールに謁見し、老いたチムールは視力が衰え上瞼が垂れ下がっていたという記録を残している。中下写真はタシケントのチムール像の顔部分で、髭が両頬を覆っているのは同じだが、よりコーカソイド系の風貌をしている。1941年ソ連の調査隊がチムール廟でチムールの遺体を調べ、モンゴロイドをベースにコーカソイドの特徴がいくらか加わった容姿(右下写真Wiki)と分析した。死後500年以上経つのに、特徴がつかめるほどの状態でよく遺体が残っていたものだ。

 

タシケントのチムール像近くのアミール・チムール博物館の外国人入場料は5000スムだった。ホテルで換金できず所持金は2000スムしかなかったので、ローカルの入場料が2000スムという料金表を指さし”これでだめでしょうか”と切符売り場の女性に頼み込んだが、やっぱりだめだった。心残りだが仕方がない。


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