備忘録として

タイトルのまま

土佐どまり

2005-12-28 19:49:18 | 徳島
鳴門の岡崎海岸にあった水族館は小学校の遠足で行った。その辺りは土佐泊まりといって、紀貫之が任地の土佐から都に帰るときに立ち寄ったと”土佐日記”に書かれているといったことを教えられたのだが、それがこの遠足の時では小学生には話が難しすぎるので、後年、中学や高校の時だったかもしれない。司馬遼太郎は”街道をゆく”で土佐どまりに立ち寄り紀貫之に思いをはせているので、これを読んだときの記憶が子供の時の遠足の記憶に刷り込まれてしまったのかもしれない。はっきりしていることは、誰かに教えられた話を自分で検証せず、ずっと信じてきたために、あいまいな記憶としてしか残らなかったということだ。
今、土佐日記を紐解くと、(1月)廿九日、”ーーーーおもしろき所に船を寄せ「こゝやいづこ」と問ひければ、「土佐のとまり」とぞいひける。”と、土佐どまりは確かにある。翌日の日記では、阿波のみと(水門?)を渡って和泉の国に到着しているので確かに鳴門のあたりだったのだろう。地図を広げてみると土佐泊の地名は岡崎海岸対岸の大毛島に残る。
阿波にあるのに”土佐どまり”とはどういうことだろう。難波から土佐への定期便でもあって、いつも彼の地に停泊することからその名がついたのだろうか。土佐日記では、室戸岬の近くの土佐の室津を1月21日に出て、1月29日に土佐どまりにつくまで阿波国内のどこか2箇所で停泊しているのだが地名が記されていない。土佐の国府を出て室津までと、土佐どまりから和泉を経て京までは、1泊を除きすべて地名が記されているのと比べ極めて対照的だ。阿波国なのに土佐どまりというのに加え、阿波国は不当に無視されているように感じるのだが。その頃の阿波は未開の非文明地だったのだろうか。
土佐どまりには、坂本龍馬が最初の剣術修行で江戸に出るときに立ち寄ったということを何かで読んだ気がするのだが、これは今確かめる術を持たない。また、秀吉軍が長曽我部の四国征伐に最初に上陸したのも土佐どまりということで、いわば土佐どまりは四国の玄関口だったということだ。
岡崎の水族館の記憶は淡いのだが、リュックを背負って水筒を肩から吊るした自分が友達と園内を歩く姿が残像のように瞼に浮かぶ。

最新の画像もっと見る