備忘録として

タイトルのまま

カニシカ王

2015-09-06 00:08:22 | 仏教

8月中旬にタイのバンコクで発生した爆破事件は、中国から逃れてきたウィグル人が関係しているのではないかと言われている。下はWikiのウィグル人居住地域で、中国の新疆地区、ウズベキスタン、カザフスタン、アフガニスタン北部などの中央アジアを中心に、トルコやイランにも居住している。昔のホータンやガンダーラ地方はウィグル居住地内に位置する。ウィグルはトルコ系遊牧民で、中国では昔、突厥や鉄勒などと呼ばれていた。言語はテュルク語(突厥語)で、現在のウィグル語、トルコ語や中央アジアのウズベク語、タタール語などを含む。語順が主語+目的語+述語で日本語も同系統に分類される。映画『ナイトミュージアム』に出てきたアッティラはアジア系の顔をしていたが、彼の種族であるフン族はテュルク語・モンゴル系と言われる。アッティラは5世紀に騎馬でヨーロッパを蹂躙し大帝国を樹立し、後のチンギス・ハンと並べて語られる。

ホータン出身でガンダーラ(ペシャワール)を居城としインド西北部を支配した2世紀のカニシカ王は、仏教を保護しアショカ王と並び称される。カニシカ王はホータン出身だと言われるがウィグル人の祖先だというわけではない。カニシカ王の時代、ガンダーラ美術が花開き多くの仏像が造られた。カニシカ王の時代になるまで仏像は成立せず、ブッダは、法輪、菩提樹、仏足石などで表現され信仰の中心は仏塔だったということは以前ガンダーラの巻などで書いた。長澤和俊『シルクロード』に記載された高田修『仏像の起源』によると、ガンダーラに仏像が出現したのはクシャーン(あるいはクシャーナ)朝前期の紀元1世紀末頃で、マトゥーラではやや遅れて紀元2世紀初頭に出現し、両者はそれぞれ別個に成立したという。ガンダーラの仏像が、アレキサンダー大王以来のギリシャ文化の影響を受け、ギリシャ人の風貌を持っていることはすでに見てきた。

以下は、カニシカ王の時代までの古代インドの主要な出来事をまとめたものである。

  • 紀元前3000年頃 インダス文明
  • 紀元前1300年頃 アーリア人の侵入
  • 紀元前1200年~800年 『リグ・ヴェーダ』の成立とバラモン教
  • 紀元前550年 マガダ国成立
  • 紀元前5世紀 ブッダと仏教誕生
  • 紀元前327年 アレキサンダー大王の西北インド征服
  • 紀元前317年~紀元前180年頃 チャンドラ・グプタによるインド統一とマウリア王朝。3代目アショカ王
  • 紀元1世紀 クシャーナ王朝によるインド統一と3代目カニシカ王 

カニシカ王の略歴と事績を中村元『古代インド』より拾った。

クシャーナ王朝

北西からインドに侵入し紀元1世紀にクシャーナ朝を樹立したクシャーナ族は二系統からなり、最初はカドフィーセス1世と2世で、次はその後のカニシカ王から始まる系統であるというのが定説だった。しかし、最近発見された碑文に、カニシカ王自身のことばでカドフィーセス1世と2世が祖先だと書かれていたという。クシャーナ族は、トルコ系あるいはイラン系と言われていたが、最近の学会はイラン系遊牧民であるサカ族かトカラ族としている。

クシャーナ朝は2世紀のカニシカ王の時に、中央アジアからガンジス川流域までを支配する帝国となり、3世紀ごろに滅んだ。中国では月氏または大夏と呼ばれた国で、史記によると、もともと西域にいたが匈奴に圧迫され西に移動したという。漢の武帝がこの月氏と結び匈奴を挟撃するため、張騫を使者として送ったのは紀元前2世紀のことである。後漢書によると、大月氏が大夏(バクトリア)に移住し5つの部族にわかれて統治したのち、そのうちの1族であるクシャーナ族が他族を攻め滅ぼしインドにまで攻め入った。クシャーナ朝は、西はローマ、東は中国と交渉があり、国際色が豊かで種々の宗教を認めていた。クシャーナ朝の生活様式は中央アジア的すなわち遊牧民的で、ヘレニズム的な要素をあわせもち、その後、インドに土着するにつれて、インド的な習慣や風俗に変化していった。

Wiki英語版より

経済的には、ローマに絹、香料、宝石、染料などを売って、ローマの黄金を獲得した。ローマの金貨がそのまま用いられるとともに、芸術面では、ガンダーラ地方にギリシャ彫刻の影響を受けた仏教芸術が隆盛し、宗教上では大乗仏教が出現し、大乗仏教最初の経典である般若経が南方インドでつくられた。大乗仏教は西北インドに伝わりクシャーナ朝によって広められた。法華経が成立したのは、カニシカ王から3代あと3世紀中葉のヴァースデーヴァ王のときだと推定されている。バーミアンの小さい方38mの大仏はこの時代に造られたとされる。4世紀に入ると、クシャーナ朝は西からササン朝ペルシャ、南東インドからグプタ王朝の圧迫を受け衰える。

カニシカ王

カニシカ王(在位132~152、在位144~173など諸説あり)は西域のホータン出身とも言われる。ホータン(闐)出身だとすると大月氏ではなく小月氏に属していたと考えなければならない。紀元前3世紀より前にタリム盆地から黄河上流にいた月氏のうち西に移動し大夏を建てたのが大夏氏で、そのまま残留したのが小月氏と呼ばれるからだ。

下のコインの写真Wikiは、表面がカニシカ王で裏面がブッダ像の金貨である。ブッダ象のわきには、”BoDDo”と刻印されている。日本や中国の仏教徒はカニシカ王が大乗仏教を支持していたとするが、カニシカ王が信奉した仏教は、伝統的な説一切有部(すべての法は実在したとする学派)であり、2世紀にインドで龍樹が始めた大乗仏教(すべては空の一切空)ではなかったという説が有力らしい。カニシカ王時代の金貨は、他にギリシャの神々、ゾロアスター教の神、ヒンズー教の神々が刻印され、カニシカ王が仏教以外の宗教にも寛容だったことがわかる。

 

 中村元の『古代インド』は古代インドの歴史を紹介したもので、全11章から成るが、ブッダ誕生と大乗仏教にそれぞれ1章を割いて詳しく説明しているところが中村元の著した歴史書らしくて面白い。 


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