孔子のつぎは、孟子か荀子か墨子、そうでなければ老子か荘子にいくところを、湯島聖堂に行ったついでに立ち寄った神田の古本屋でなぜか「列子」(岩波書店・小林勝人訳注)を買ってしまった。列子は、周の列禦寇(れつぎょこう)の撰だと言われているが、司馬遷の「史記」に記載がなく実在さえ疑われている。
今八百長騒動で大変な大相撲の白鵬が63連勝で敗れたとき、双葉山の言った”我、いまだ木鶏にあらず”ということばが新聞などで引用されていた。この”木鶏”は列子からの引用なのである。列子は、第1から第8までの八編に分けられた短い説話集で、”木鶏”に加え、”杞憂”、”愚公山を移す”、”朝三暮四”、”不射の射”などの話が有名である。
杞憂:杞の国に天が落ちてくるのを心配して夜も寝られない男がいた。そんな心配はないと諭す男もいた。列禦寇先生は、天地が崩壊するかしないか人間にはわからない。生きている者には死んだ者のことはわからない。未来の人間には過去のことはわからないし、過去の人間には未来のことはわからない。だから、天地が崩壊するとかしないとかに心を悩ますことは無駄なことだ。といった。天端第1-14
不射の射:列禦寇は弓の名手だが、師匠の伯昏瞀人(はっこんぼうじん)に言わせると、それは射の射であり、不射の射ではないという。列禦寇は断崖絶壁の上ではぶるぶる震えて矢を射ることができなかった。師匠は、道を体得した者は心も顔色も動じないものだ。と言う。黄帝第2-5 中島敦の名人伝に不射の射が書かれている。
常勝の道:強は自分より弱いものには勝つが、自分より強いものには必ず勝つとは決まっていない。しかし、柔によれば必ず勝つ。黄帝第2-18
朝三暮四:宋の猿飼いが貧乏になって猿の食い扶持を減らそうと、”どんぐりを朝に3つ、暮れに4つにしようと思うがどうだ”と猿に尋ねたところ、猿は皆怒り始めた。そこで、”では朝に4つ、暮れに3つにする。”と言ったら、猿は大変喜んだ。本質は変えずに、愚かな相手をいいくるめることができるのだ。黄帝第2-19
木鶏:王のために闘鶏の鶏を飼っている男がいて、王が自分の鶏はもう戦うことができるかと問うたとき、”いやまだです。鶏は空威張りできおい立っているだけです。”と答えた。次に王が訪ねた時も、相手を見るときおい立つのでまだまだだと答えた。その次の時は、まだ相手を睨みつけて気合をいれると言った。次に王が尋ねたときは、”もう申し分ありません。いくら他の鶏が鳴きたてても自分は一向に動じません。遠くからみるとまるで木造りの鶏のようです。すっかり無為自然の徳を身につけました。他の鶏は皆逃げ出すでしょう。”と答えた。黄帝第2-20
白馬非馬:公孫竜は、白い馬は馬ではないという詭弁を使った。彼は、馬という実体と白いという馬の属性の二つの概念は別物であるから両方がくっついた白馬は別物であると言った。彼の詭弁は他に、親なし子牛にはもとより母牛はいない。なぜなら母牛がいれば親なし子牛とは言わない。物体は動いても影は動かない。前の影と物体が動いたあとの影は影の移動ではなく次々と入れ替わった別物だから。仲尼第4-13
愚公山を移す:愚公という90歳の老人は家の前の山が邪魔だったので子供たちと山を崩して道を開こうとした。近所の老人がそれを笑ったが、愚公は、”自分が死んでも子供があとを継ぎ、その子が死んだら孫が継ぐ。子孫は絶えることがないが、山は高くなることはないのでいつか山を平らにすることができる。”と答えた。これを聞いた天帝は愚公のまごころに感心し山を移してやった。湯問第5-2
孔子不能決也:日の出の太陽が昼間の太陽より遠いか近いかで二人の子供が言い争いをしていた。子供の一人が、朝の太陽は昼間より大きく見えるので近くのものが大きく見えるわけだから朝の太陽が大きいというのに対し、もう一人の子供は、昼間の太陽が近いから熱いと反論した。二人の子供がどちらが正しいか孔子に聞いたところ、孔子はどちらが正しいか決めかねてしまった。子ども二人は、笑って孔子を冷やかして、”お前さんをたいへんな物知りと言ったのはどこのどいつだね。”湯問第5-7
偃師の人形:偃師が作った人形は人間そっくりで、周の穆王(ぼくおう)に献上したところ王の愛妾に秋波(いろめ)を送ったので王はたいそう怒ったが、偃師は人形をばらばらにして見せた。墨子の集団はそのころ城を落とす雲梯や空を飛ぶ木で作った鳶を誇っていたが、この人形を見てからは自慢しなくなった。湯問第5-13
列子は、老荘思想と同じ道家思想の流れを汲んでいる。列子の”道(生ぜざるもの)は、宇宙の本体で虚無であり、一切の万物はこの道から生まれる。道は不生不変、無限無窮のものである。”、といことで、宇宙に絶対の根源がある、いる?のである。でもこれは宗教の神のような意志は持たない。孔子あるいは儒家は、”怪力乱神を語らず”や”未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん”と孔子が言ったように、現実にないものやわからないもの、神や死を語らない。それに比べると列子には、”死と生は行ったり来たりするもの”(転生輪廻のような思想)、”人間にも獣心あり、禽獣にも人心あり”(山川草木悉皆成仏のような思想)があり、頻繁に出てくる孔子は、聖人としては扱われず、どちらかと言えば凡庸にさえ描かれているのである。例えば、楊朱第7-12で、孔子は、”宋の国では追い立てられ、衛の国では排斥され、商や周の地では窮迫し、陳や蔡では兵に包囲され、魯の国では屈辱を受け、匡の地では辱められ、一生苦しみながら死んでいった。これは、”天の生みたもうた人間のなかで、誰よりも一番落ちつきのないあわただしい男である。”、第7-18で、世間(当然、孔子や儒家)では忠ということを美徳のように言うが、忠などというものは君主を安泰にさせることができないばかりか、自分の一身を危うくするのが落ちである。また、世間では義を善行のように言うが、義などは人民の利益にならないばかりか、自分の命をそこなうのが落ちである。忠とか義などの道徳などに振り回されずに皆が安泰に暮らし、他人も自分も利益を受けることが理想である。と、孔子の教えを否定する。説符第8-8では、チャンスに臨機応変に対応することが大切で、孔子のように広い学問を身につけてもこれができなければ意味がない。という。
案の定、津田左右吉は列子架空説を提唱している。しかし、「列子」の訳者である小林勝人は津田左右吉の架空説の根拠は薄弱で、列子の名は、「戦国策」や「呂氏春秋」という確固たる文献に現れており実在だとしている。すでに何度も触れたと思うが、津田左右吉の史観は矛盾する記述や超人的な記述があればすべて史実ではないという極端なものであることは有名で古事記や日本書紀の大半は史実ではないとする。梅原猛などは津田の史観は凡人史観だとボロクソに批判している。聖徳太子を否定する津田の論拠は、古事記や日本書紀に見える聖徳太子が凡人では考えられない事跡で埋められているという理由しかないのである。矛盾があれば偽作として分析や研究を放棄するより、誤りの中に真実を探すほうが余程科学的だと梅原はいう。津田の流れをくむのが「聖徳太子の誕生」の大山誠一らである。大体、大山誠一の論拠そのものも相当無理があり、特に、八世紀前半に遣唐使から帰国した道慈(どうじ)が日本書紀の仏教関係個所を記述し、十七条の憲法を作ったというお話には科学的な根拠がほとんど示されない。この辺の大山による道慈の話は、彼が真実が少ないという日本書紀の太子記事に勝るとも劣らないレベルなのである。聖徳太子の虚構を論証する個所はそれでも逐一論拠を示しているが、それに比べ道慈の役割を述べる個所の根拠のない決めつけに唖然とする。梅原や上原や他の歴史学者による仮説の論拠の精密さと比べての感想であり、私が聖徳太子ファンだからという主観的批判によるものでないことは強調しておきたい。