備忘録として

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遠い崖『旅立ち』

2017-10-29 13:51:56 | 近代史

 アーネスト・サトウ(Earnest Satow)の日記をもとに幕末から明治維新の出来事を描いた荻原延壽の『遠い崖』は文庫本で14巻もあり、本屋で立ち読みはしても購入をずっとためらっていた。神保町の古本屋で1巻と2巻が安価で売られているのを見つけ衝動買いした。ちょうど読んでいた『日本奥地紀行』を読みかけのまま放り出し、1,2巻を読み切ってしまった。イザベラ・バードがアーネスト・サトウに何度も言及していたことも『遠い崖』に手を出した理由だ。

 『日本奥地紀行』に加え、梅原猛の『親鸞4つの謎』に寄り道したりしたので、今、やっと4巻目に入ったところである。薩英戦争から2度目の長州征伐まで、イギリスとフランスの微妙な駆け引き、薩摩、長州、幕府の間の思惑が、アーネスト・サトウの日記だけでなくイギリスとフランスの外交文書や、日本側の様々な資料を参照して語られ興味が尽きない。外交文書には公式文書と送り主が私見を述べる半公信が含まれる。また、初期の巻では、サトウと同時期に医官として日本に駐在しサトウと深い親交のあったジョージ・ウィリスが家族に宛てた手紙が頻繁に引用され、サトウの日記の穴を埋めている。また、同時期、シーボルトの長男アレクサンダー(ドイツ国籍)がサトウとともに通訳としてイギリスに雇われている。ドイツで生まれた彼が来日したのは、3年前の父シーボルトの再来日に付き添ったもので、父が帰国したあとも日本に滞在していた。特別通訳生として雇われた生麦事件のとき、サトウより3歳若い15歳だった。2年後の薩英戦争にサトウとシーボルトはともに通訳として参加する。

 サトウの祖父は、ドイツのバルト海に面するヴィスマールという町でドイツとイギリス間の貿易商を営んでいた。町にはSatowという地名もあり、当地では一般的な姓であった。1825年、サトウの父デーヴィッドはイギリスに移住し、ロンドンで金融業を始める。三男としてアーネストが生まれたのは、1843年のことで日本赴任は1861年18歳のときである。

『旅立ち』

船は東シナ海を横切り、上海をはなれてから三日後には硫黄島の沖を通過した。「午前11時ごろ、九州南方の火山島である硫黄島がみえてくる。山のいただきに雲がかかっているので、活動をつづけているのかどうかよくわからないが、火口のひとつから噴煙がたちのぼっている。」(1862年9月2日の項) 9月8日、サトウを乗せたランスフィールド号は横浜港に到着した。

 サトウは、中国で数か月を過ごしたのち、ジャーディン・マゼソン商会所有のランスフィールド号で上海から横浜に渡航する。4年後の1865年に上海から横浜への途上、シュリーマンが見たはずの硫黄島沖を通過している。

『生麦事件』

 生麦事件が起きたのは、サトウ着任6日後の9月14日のことだった。休暇で上海から日本に来たイギリス人商人リチャードソンが夫人らと馬で遠乗りをしていたところ、通りかかった薩摩藩の行列を横切ろうとして惨殺された事件である。横浜外国人居留地の住民たち大半とヴァイス領事らは、薩摩藩に報復的な行動をとることを主張し、代理公使ニールには伝えずに準備を進める。ニールはフランス、アメリカ、オランダなどの公使と相談の上、日本と戦争になることを避けるため報復行動を起こさない決断をする。このことでニールは、居留地のイギリス人から臆病者とされが、本国のラッセル外相は、ニールの判断を支持し、居留民を扇動したヴァイス領事は後日函館領事に左遷される。

 イギリスは公式に幕府と薩摩に対し賠償請求を行った。幕府に対しては、事件を起こしたことに対する公式な謝罪と犯罪に対する罰として10万ポンドを要求し、薩摩に対しては、リチャードソンを殺害し他の者に危害を加えたものを裁判に付し処刑することと、2万5千ポンドの損害賠償を要求した。生麦事件の前に発生した東禅寺でのイギリス兵殺害事件の賠償も同時に追及された。幕府が要求を拒む場合は軍事行動を起こすこと、薩摩が拒否する場合は鹿児島を砲撃することが考慮された。

 このころ諸外国の日本への対応は微妙に異なり、日本との外交交渉の主役は、ペルー来航からパリスによる通商条約で日本との交渉を主導してきたアメリカからイギリスに移っている。これは、1863年当時、横浜での貿易額の81%をイギリスが占め、日本に展開する軍艦の数もイギリスが圧倒的に多かったことが理由である。

次回は『薩英戦争』。


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