備忘録として

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幕末の外交

2016-05-15 22:41:01 | 近代史

昨日のNHKブラタモリは横浜だった。ハリスが神奈川の開港を要求したとき、幕府は東海道から離れた寒村の横浜を神奈川の一部だと強弁したという話だった。上は広重の神奈川宿と北斎の神奈川沖浪裏(いずれもwikiより)で番組の中で使われていた。

幕府役人の外交のしたたかさは、ちょうど読んでいる井上勝生『幕末・維新』シリーズ日本近現代史①にたっぷりと書かれている。従来の幕府外交は弱腰だったという通説を否定し、それを当時の幕府の交渉記録(『対話書』、『大日本古文書 幕末外国関係文書之一』、『オランダ別段風説書』)や外国側の記録(『ペリー提督日本遠征記』、ハリス日記『日本滞在記』、ゴンチャローフ著『日本渡航記』)を参照しながら検証したものである。

左上絵は『幕末・維新』に掲載された『大日本古文書 幕末外国関係文書之一』挿絵『米国使節久里浜上陸之絵図』 この場所は幕府のゲベール銃部隊の訓練場だったところで幔幕の陰に幕府のゲーベル銃部隊が並び、そこに米国使節を周到に誘い込んでいる。この図とペリーの記述は正確に照応している。右上図は同じく『ペリー提督日本遠征記』挿絵にある函館湾のペリー艦隊。

1853年ペリー来航

ペリー来航の目的は通商と貯炭所開設要求であった。ペリーは、1837年にモリソン号が日本の漂流民を返還し通商をしようと日本側に迫ったが砲撃を受け退去させられたことを累年の人道問題であるとし、人道的待遇も得られない場合は戦争も辞さないと恫喝した。それに対し、モリソン号事件以降、幕府は漂流民を長崎のオランダを経由して返還していると実例を挙げて反論し、人命保護不履行の名目で非人道的な戦争をするというのは無理だということを巧みに指摘した。また、交易は利益のことであり人道支援とは別の話で、強いて交渉する必要はないとした。ペリーは人道問題を取り上げ通商交渉を有利にしようとしたが、幕府側はそれを逆手に取ったのである。不平等条約を結んだことで、幕府側の軟弱、卑屈な外交という思い込みがあるが、武力を背景にしたペリーの方が柔軟性に欠け、幕府役人側は、軍事的に非力な状況のなか、率直で巧みな外交を行った。

幕府はオランダ政府が毎年世界の情勢を知らせて寄越す『別段風説書』によってアメリカ艦船の規模やペリーが来航することを前年には知っていたように、十分な情報量に裏付けられた外交を繰り広げたのである。

1854年日米和親条約

日米和親条約は、漂流民の保護、薪水の補給、下田・函館2港の開港、領事駐在、片務的最恵国待遇からなる。そのうち片務的最恵国待遇がアメリカだけに有利で不平等だった。当時の列強は双務的最恵国待遇を結ぶのが通例だったからだ。一方、領事駐在では、函館でのペリーの約束違反を指摘するなどしてしたたかに交渉し外交員の外出範囲の制限に成功した。ペリーの約束違反とは、直前の函館行は視察だけのはずがペリー一行が上陸し松前藩を恫喝し個別交渉をしていたことである。ペリーはその話が幕府に伝わるには50日はかかると思い、函館から江戸に戻ると松前藩とのことを隠して幕府との交渉に臨んだ。ところが、幕府には松前藩とのことはすでに伝わっていたのである。違反を指摘され、うろたえたペリーが中国人通訳の所為にしようとした様子が『対話書』や通訳ウィリアムズの『ペリー日本遠征随行記』に記されている。(最恵国待遇=他国に与える待遇と同等の待遇をその国に与えることを約束する。片務的は一方的、双務的は双方向)

1856年には幕府も薩摩藩の島津斉彬らも貿易が富国強兵の基本だとして積極的・消極的という程度の差はあれ開国論に変わっていた。朝廷(天皇)は攘夷にこだわった。

1857年日米修好通商条約

1856年に来日したハリスは神奈川に領事館を置き強硬な外交を展開した。ハリスは、アメリカは日本の友人であり、戦争で領土を奪うことはなくアヘン貿易はしない。イギリスはアロー戦争が終われば、すぐに日本にやって来るので、すぐにアメリカと通商条約を結ぶべきであると説いた。これに対し『別段風説書』の報告により、アメリカが戦争に勝ったメキシコからカルフォルニアを奪い、中国にはアヘンを売っていることを知っていた勘定奉行の川路らは、ハリスの言の偽りを含んでおいて交渉に臨めばいいと上申する。合意された条約は、自由貿易、神奈川など5港の開港、江戸・大阪の開市、アメリカ人遊歩範囲の限定、協定関税、アヘン輸入禁止などだった。日本側に裁判権と関税自主権のない不平等条約だったが、日本にとっては外国商人による居留地以外での商行為禁止の方が重要だった。中国の天津条約が外国人の自由通商権を認めていたことや低率関税であったのと比べ、日本の条約内容は各段に有利な条件であった。高い関税は日本の在来産業の保護をある程度果たした。

ブラタモリでも東海道沿いの神奈川宿付近ではなく、寒村の横浜を開港場としてアメリカに認めさせ、その後貿易が発展し始めると、横浜の開発を急速に進めたことが紹介されていた。極めて柔軟な実利政策を展開したことがわかる。

 『幕末・維新』の筆者によると、かつて、江戸時代後期は欧米の文明に対し半未開と位置付けられていたが、その見方は変わってきているという。江戸の民衆活動は抑圧的だと考えられていたが、民衆が訴訟を願い出る活動ははるかに活発で、百姓一揆への一般百姓の参加は事実上公認され、藩や幕府は訴えを受容していた。欧米列強の到来に際し、このような成熟した伝統社会を背景にその力量を発揮し、開国を受容し、開国はゆっくりと定着し日本の自立が守られた。伝統社会の力は、幕府の外交力だけに限らず、商人たち自らが欧米列強の到来を利用し、貿易を内から定着させたというのである。

北斎や広重らが活躍した江戸後期の高度な文化、民衆の教養レベル、社会の成熟度を考えたとき、産業面や軍事力で欧米に劣る部分があったとしても、欧米から突然もたらされた変化に日本社会が柔軟に対応できるものであったろうと容易に想像できるのである。幕府が外国に対し弱腰で時代遅れだったとか、百姓が直訴し一揆を画策していたことがばれると打ち首になるという時代劇や時代小説で刷り込まれたイメージを払しょくしなければならない。


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