備忘録として

タイトルのまま

山月記

2009-11-14 17:34:12 | 中国
 島内景二著”中島敦「山月記伝説」の真実”が東京の本屋に平積みされていたので手にとって表紙をめくると、”敦(あつし)を親しい友人たちは”トン”と呼んだ。”という書き出しに、”おっ!”という感じで衝動買いした。上原和の長男の名が、敦煌の敦(トン)ちゃんであることを思い出したからだ。広島までの新幹線の中で一気呵成に読んだ。

 「山月記」のことは以前、”李陵”の回に書いたが、”自分の才能を頼み、それが受け入れられないのは世間が悪いとし、遂には世間から隔絶してしまう男の話であるが、思い通りにならないことや不遇であることを、いつも他者の所為にする”という感想は、虎になった李徴の境遇だけを見て思ったことだった。島内景二によると山月記には、中島敦の遺書とでもいうべき思いが込められているのだという。
 中島敦は夭折した天才作家という思い込みをしていたが、生まれてすぐに両親が離婚したため生母を知らず二人の継母に育てられ、屈折した少年時代を過ごし、学生時代に女性遍歴が始ったように、正気と狂気、秀才と虎が繰り返しあらわれていたらしい。李徴の人間性を「性、狷介、自ら恃むところすこぶる厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった」と書いているように、中島敦も自身そうであると自認していた。

 虎になった李徴は、かつての親友で高級官僚になっていた袁傪に、
「自分は元来詩人として名を成すつもりでいた。しかも、業未だ成らざるに、この運命に立ち至った。かつて作るところの詩が数十ある。これを我為に伝録していただきたいのだ。一部なりとも後代に伝えないでは死んでも死にきれない。」
続けて、
「妻子が道塗に飢凍する(飢えて凍える)ことのないように計らっていただきたい。」
と後事を託す。

 中島敦は30歳を過ぎ病を得たのちも文壇に出ることもできず焦っていた。山月記は死の前年に書かれ、親友への遺書ともいえるのである。釘本久春は一高と東京帝国大学国文学科で中島敦とともに学んだ親友であり、東大卒業後、文部官僚となった。氷上英廣も同じく一高、東京帝国大学文学部でともに学び、その後、甲南大学や東京大学の教授を歴任する。二人は、山月記を読み、親友を虎にしてしまったことに驚き、彼の遺志を汲み、中島敦の死後、中島敦全集を創刊することに奔走する。さらに、釘本は文部官僚として山月記を国語や漢文の教科書に採用することに尽力したとみられる。
 このように、この本は中島敦の人間や人生、交友関係を明らかにし、山月記の意味を分析したものである。

  「人生は何事をも為さぬにはあまりに長いが、何事かを為すにはあまりに短い」(山月記)

33歳で夭折した中島敦の人生は短いようだが、少なくとも珠玉の小説を遺した。
自分の人生を振り返ると空しくなるので、焦らず前を向いていくしかないと思うのである。

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