備忘録として

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比叡山延暦寺

2011-10-03 00:57:26 | 古代

 最澄、円仁、源信、法然、親鸞、道元、日蓮らが関わった延暦寺は今回の旅から外せなかった。最澄、天台宗、比叡山延暦寺と空海、真言宗、高野山金剛峰寺は歴史の試験勉強の中でセットで覚えたが、もちろん天台宗や真言宗がどんな仏教で、最澄と空海のことも何も知らなかったし、知らないことに何の疑問も持たなかった。試験でいい点数を取るにはそんなことは蛇足で、ひたすら試験に出る事柄を頭に詰め込むのみだった。これが詰め込み教育の弊害だとは思うが、機械的に覚えたからこそ、今になって比叡山に行ってみようとか、空海の密教仏教展に行ってみようとか思えるのかもしれない。

延暦寺根本中堂

 比叡山へは京都駅からJRで上の地図の中央下の町・坂本へ行き、JR坂本駅からケーブル坂本駅までバスで行ってケーブルカーに乗って根本中堂のある東塔近くの延暦寺駅に着いた。根本中堂内は薄暗く厳かな空気で満たされていた。参拝できる場所を外陣というらしいが、本尊の薬師如来を安置する内陣は、外陣より3mも深くなっていて3つの厨子が置かれている。その中央の厨子の前でお坊さんが薄暗い灯火の下で何やら写経をしていた。この灯火は最澄の時代から続く”不滅の法灯”だというが、宮島にも空海の”消えず火”がある。信長の焼き討ちにも耐え抜いた灯ということになる。現在の根本中堂は信長の比叡山焼き討ちのために焼失したあと家光が再建したものということである。

 東塔からバスで円仁ゆかりの横川(よかわ)へ行った。

 円仁は入唐前、最澄後の天台座主の座を争うような世俗のことを嫌い、横川にこもったらしい。下左の写真は赤山宮である。円仁が唐に留学したときに山東省の赤山の新羅人らに大いに助けられたことや遣唐僧としての義務を果たし無事に帰国できたのは赤山の神のおかげだとして赤山の神を祀ったものである。比叡山の西麓には赤山明神を祀る寺(?)があるという。司馬遼太郎の”街道をゆく・叡山の諸道”に明神なら神社であるべきだが明治の神仏分離をごまかすために”赤山禅院”という寺にしたと推論している。祭神は道教の神である泰山府君であるという。右は円仁が法華経を納めた如法塔である。

 横川から西塔にまわる。

 西塔の見どころは最澄廟の浄土院である(下の写真)。延暦寺の中ではもっとも美しく整備されていた。浄土院へ行く参道を丁寧に掃き清めている若い僧と挨拶を交わしたが、奈良や京都の有名寺の掃除を清掃業者が行っていたのとは対照的で、また下の法華堂にも修行中のためお静かにという看板が出ていて、修行の道場でもある比叡山の本質に触れることができたようでうれしかった。最澄後1200年の間には、後白河上皇や信長の時代に山が堕落したこともあったが、最澄の”我が志を述べよ”という言葉が脈々と受け継がれているように感じられた。

 


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