備忘録として

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玉虫厨子

2008-03-06 23:31:29 | 古代
数日前、法隆寺の玉虫厨子(たまむしのずし)が復元されたというニュースが流れていた。玉虫厨子といえば側面に描かれた「捨身飼虎」(しゃしんしこ)図であり、「捨身飼虎」図といえば上原和である。上原和は、釈迦前世の薩埵太子(さっとうばたいし)が飢えた虎に我が身を投げ与えるという究極の犠牲に、聖徳太子を見たのである。この「捨身飼虎」図も色鮮やかに蘇っていた。


左:本物 右:復元(いずれも朝日新聞より転載)

名前の由来となった玉虫の羽も東南アジアから集められ1枚1枚貼り付けられたということだ。
厨子の屋根の軒下には、雲形斗栱(くもがたときょう)という法隆寺特有の構造がみられるのだが、上原和は、法隆寺金堂の雲形斗栱は玉虫厨子の雲形斗栱を模したものだという説を提唱している。普通は実物大の建物を模して厨子(小型模型)が作られたと考えるのだが、上原和は玉虫厨子を模して金堂が作られたというのだ。上原和著「聖徳太子 再建法隆寺の謎」
(「斗栱」は「斗(ます)」と「肘木」との組み合わせたもので軒の荷重を支える。)

聖徳太子の死後わずか22年で山背大兄王一族の非業の死によって太子一族は断絶し、「一屋も残すことなく焼失す」”日本書紀・天智9年(670)の条”にあるように法隆寺が罹災し、日本軍が唐・新羅連合軍に白村江で大敗北するなど人々の不安は極限にまで高まり、太子一族鎮魂のために急遽法隆寺再建が進められ太子由縁の品々が集められた。玉虫厨子は聖徳太子由縁の遺品以上のもの、玉虫厨子の間には太子の信仰と思想が込められているからこそ玉虫厨子を模して法隆寺が再建されたというのだ。

蘇我入鹿に追われた山背大兄王は、
「われ、兵を起こして入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん」
と言って、一族ことごとく自害した。これは「捨身」の思想であり、太子の遺訓、信仰と思想を実践したものである。

今、梅原猛の”聖徳太子”の二巻目が終わろうとしている。十七条の憲法と冠位十二階は相互に関連し太子の思想を具現しているという。上原和によると、十七条の憲法、太子が書いたとされる三経義疏、捨身飼虎、さらには太子が隋に送った国書「日出づる処の天子ーーーーー」のいずれにおいても太子の思想は一貫しているそうだ。聖徳太子虚構説は二人には無縁である。

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