備忘録として

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モラエスその3

2005-12-08 19:37:45 | 徳島
モラエスでネット検索すると、例の私の落書きしたモラエス像に関する記事が2点見つかった。ひとつは、佃實夫著”わがモラエス伝”序章にあり、”昭和29年にはこの出版(”日本精神”花野富蔵訳のこと:筆者注)のほかに、徳島市眉山山麓にモラエス翁顕彰碑が建てられた。徳島市長の建立である。”と記述されている。もう一つは、”ishinofumiの日記”というブログの2005年5月30日付日記で、本人が徳島で”モラエスの散歩道”という催しに参加したとき、講師の福原建生氏(モラエス会実務責任者)の話として紹介されたものである。いわく”観光市長とあだ名された長尾新九郎徳島市長が、モラエス生誕100年祭を記念して高岡という日展の彫刻家に作ってもらったもの。最初は潮音寺にあったが都合4回移転してきて今はここにある。”
昨日掲載した写真を見るとわかるが、確かに”昭和29年7月1日 徳島市長 長尾新九郎”と銘記されている。私がいたずらしたのは2回目に移転した場所だったと思う。なぜなら、私が今の4回目の場所で発見するまで2回目の場所に碑はなかったからだ。
ただ二人の記述で少し気になることがあるのだが、福原氏はモラエスの墓のある潮音寺に最初建立されたと述べているのに対し、佃は眉山山麓と述べ所在を明らかにしていない。なぜこれが腑に落ちないかというと、佃は”わがモラエス伝”の中で戦後まもなくモラエス墓所の潮音寺に寄宿し、さらに顕彰碑建立の1年前の昭和28年にはモラエス翁顕彰会の一係員としてモラエス25回忌の準備に奔走するなどモラエスに深く関わっていたのに翌年の100年生誕祭での顕彰碑の建立場所も知らなかったということになるからだ。モラエスの墓所に顕彰碑が建てられたことを隠す必要はないはずだから、やはり知らなかったということだろう。福原氏が言うように佃の”わがモラエス伝”はフィクションとして読むほうが正しいのかもしれない。
今日の写真は、昨日述べた眉山山頂の新しい犬をつれた2004年10月建立のモラエス像である。モラエスが猫を飼っていたということは何かで読んだが犬を飼っていたとは知らなかった。

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