極東アジアの真実 Truth in Far East Asia

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日韓の架け橋となった、皇室 李・方子妃

2015-04-05 14:16:26 | 日韓
 昨今、日韓問題等は問題山積ですが、考えてみたら・・・
 特に過去の日韓併合は緒論ありますが、日本の皇族を併合した朝鮮王朝に嫁がせる、勿論政治的な意図はあったでしょうが、日韓併合は日本の併合の考え方が表れていると思います。白人国の植民地政策等と同策では無いことは間違いないでしょう。
 
 日韓併合が、白人国等の植民地支配と同じ考えだったら皇族から朝鮮へ嫁がせるなど有り得ないでしょう。例えば英王室から東南アジアの植民地に嫁がせる・・・有り得ないと思うのが自然だと思います。

 当時の日本は満州国の皇帝溥儀殿下の弟、溥傑殿下には嵯峨侯爵の、浩様が嫁がれています。
やはり根底には、歴代天皇が読まれた歌には八紘一宇(8つの方位、天地を結ぶ8本の綱を意味、これが転じて世界を意味する語として解釈されています。一宇は、一つの家の屋根を意味しています。)が良く出てきます、アジアの国々を同胞と見なしていたでしょう。

 元、李・方子妃(り まさこ、朝鮮語イ・バンジャ)とは・・・
 日本の元皇族。梨本宮家に生まれ、旧大韓帝国の元皇太子で日本の王公族となった李垠の妃です。

 明治34年11月4日、皇族、梨本守正王(なしもと・もりまさ=仏陸軍大学校卒後、第1旅団長、第16師団長・・・昭和7年元帥、戦後、皇族中唯一の戦犯として逮捕されますが釈放)と佐賀藩第11代当主鍋島直大(なべしまなおひろ)の次女伊都子(いつこ)の第一王女(昭和天皇の妃、香淳皇后のいとこ)として誕生、先の皇太子裕仁親王(昭和天皇)の有力お妃候補として名前があがっていたと言われています。

 学習院女子中等科在学中に李王家世子である李垠さんと婚約、女子学習院高等科卒業後の大正9年4月、李垠さんと結婚、一部には結婚は日韓併合後のいわゆる「内鮮一体」を目的とする政略結婚であると言われ、婚儀の際にも韓国の愛国者による暗殺未遂事件もあったと言われています。二人の仲は、本当に睦まじかったと言われています。。

 元方子妃は、自分に課せられた日本と朝鮮の架け橋としての責務を強く自覚し、祖国を離れて日本で暮らす夫君を支えていたと言われています。

 大正10年、第一王子晋が誕生する。大正11年4月、夫妻は、晋を連れて朝鮮を訪問しますが、帰国直前に長男の晋さんが急逝・・・晋の死因は急性消化不良と診断されますが、毒殺説が流布していたようです。昭和6年、第二王子玖さんが誕生しますが2005年死去されます。

 昭和20年8月15日終戦で李垠・方子夫妻は王公族の身分と日本国籍を喪失して一在日韓国人とななり、邸宅・資産を売却しながら細々と生活をされていたと言われています。以後韓国の反日等初代大統領李承晩により帰国を妨げられます。(帰国によって王政復古がなされ自分の地位が脅かされると考えたと言われています。)

 昭和35年、李垠、脳梗塞に倒れられます。
 李承晩退陣後の昭和38年(1963年)、親日の日本陸軍士官学校卒の朴正熙大統領(現女性大統領、朴 槿惠・パク・クネさんの父親)の計らいで李垠・方子夫妻はようやく日本帰国を果たします。父親の朴大統領は、日本の韓国併合を評価してた方です。

 昭和45年李垠氏が逝去されます。韓国に帰化した元方子妃は、知的障害児、肢体不自由児の援護活動に取り組み、趣味でもあった七宝焼の特技を生かしソウル七宝研究所設立、自作の七宝焼で資金を集める傍ら、知的障害児施設の「明暉園」と知的障害養護学校である「慈恵学校」を設立されます。

 元方子妃は、夫李垠の遺志を引き継ぎ、当時の韓国ではまだ進んでいなかった障害児教育、主に知的障害児・肢体不自由児教育に取り組まれました。自身の趣味でもあった七宝焼の特技を生かしソウル七宝研究所を設立、資金を得るため自作の七宝焼の他にも、書や絵画を販売したり、李氏朝鮮の宮中衣装を持って世界中を飛び回り王朝衣装ショーを開催する等して資金を集められ、知的障害児施設の「明暉園」と知的障害養護学校である「慈恵学校」を設立されています。「明暉」は李垠の、「慈恵」は方子自身のそれぞれの雅号だそうです。
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  雅号(がごう)とは・・・
 文人・画家・書家などが、本名以外につける風雅な名のこと。
 雅号の風習は中国から伝来特に、俳人であれば俳号、吟詠家であれば吟号などとも言われます。ここで本名とは明治維新以前に公的に用いられた「本姓・氏(ウヂ)」+「諱」(朝廷との関係における公式名)、「家名・名字」+「通称」(封建的主従関係における公式名)、及びこれらの構成要素あるいは明治維新以降の公的人名である戸籍名を指すと言われています。
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 終戦後の混乱期に韓国に残留したり、急遽韓国に渡った、さまざまの事情を抱えた日本人妻たちの集まりの在韓日本人婦人会、芙蓉会の初代名誉会長を勤めておられます。

 平成元年(1989年)4月30日逝去、享年87才、葬儀は旧令に従い、韓国皇太子妃の準国葬として執り行われました、日本からは三笠宮崇仁親王・同妃百合子が参列したと言われております。後年、韓国政府より、韓国国民勲章槿賞(勲一等)を追贈されています。

戦後、初めて李・方子妃の激動の生涯を伝えたドラマが放映されました。 2006年11月、フジテレビ系列で「土曜プレミアム-奇跡の夫婦愛物語」(奇跡の夫婦愛スペシャル(きせきのふうふあいスペシャル)は、フジテレビ系列で2006年11月24日・11月25日の21:00 - 23:12に放送されたスペシャルドラマシリーズ、現在はU-TUBEで見ることが出来ます。

 実在する夫婦の愛を描く、事実を基にしたフィクションドラマを二夜連続で放送、第一夜は菅野美穂・岡田准一主演による『虹を架ける王妃 〜朝鮮王朝最後の皇太子と方子妃の物語〜』、第二夜は阿部寛・黒木瞳主演による『遙かなる約束(アベシャーニェ) 〜50年の時を超えた運命の愛〜』を放送されました。)として放映され、初めて知った事実、多くの日本人に感動を与え、改めて日韓の歴史が再認識されたと言われています。

 日韓にも多くの素晴らしい事実が多く見受けられます、残念ながらこれらの事実は韓国内で報道等されることは無いようです。事実を知っていても公に出来ない理不尽な韓国国内事情、日本ばかりを批判する人々は、極一部の人ではないかと思える時があります。現朴大統領も理不尽さは理解してるでしょうし、心の中の歴史認識は日本人と同じ・・・

 ウィキペデア等々を参考にしていますが、意味不明文等があるかも知れません、プログと言うことですみません・・・
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