以下文はウィキペディア、Ethnologue(エスノローグ)等々参考にしていますが可笑しな解釈等々が多々あると思いますので、雑文日記とします。
世界の言語の百科事典ともいえるEthnologue(エスノローグ)によると、現在、世界には6900位の言語があるそうですが、日本語ほど文化、精神等に密接した言葉は世界にはないようです。日本語のルーツは何処にあるだろうか、興味は尽きません。
神道では、どんな言葉にも魂(命)が宿ると考えられ、それを言葉の霊と呼ばれています。その言葉の源は、自身の魂とも言われ、魂は神が与えてくれたものという表現がいいかも知れません。
魂は神魂(かむたま、かもす)と、神道では神様の命をそう呼ばれるそうです。
「かもす」とは神霊の鎮まり座す所、神の御座所のことで、神座所(かみますどころ)、神(かむ)、かもすになったようです。
一説では、源は古代へブライ語で「かむ」は、カム、クム・kum、(神が)立ち上がる、現れる・・・
タブーの一つに、日本語は2000年以上前に中東等から日本へ渡来した古代ヘブライ人、この古代ヘブライ人が使っていた古代ヘブライ語が日本語の源であるとも言われています。日本語と古代ヘブライ語は数千の日本語に類似性があるとも言われ。江戸時代、本居宣長はこの古代ヘブライ語と日本語の関わり、日本人の心等について、深く探求したようです。
神道では人間には原罪(一般的には、アダムとイヴから受け継がれた罪)が無いと言われ、日本人にはこの神魂が宿っており、悪事をすると、神魂が汚れてしまうので神の力を借りて穢れを取り払わないといけないと言う考えかたです。この神道の多くの言葉には、魂が宿ると考えは聖書が原点であると思います。
聖書・ヨハネによる福音書1章
初めに言(ことば)があった。
言は神とともにあった。
言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。
古来から日本語には言霊(ことだま)、霊力があり、言霊は言葉に宿ると信じられた霊的な力で霊妙な働きをなすものとさています。声に発した言葉が現実の事象に対して何らかの影響を与える力のことだとされ、言霊は言魂とも表現されています。プラスな言葉を発するとプラスに作用し、ネガティブ(マイナス)な言葉を発するとマイナスな面が現れるとも言われています。
結婚式等、祝いの席で祝詞を奏上する時は、プラスの言葉を発し、誤読がないように記したものを読まれるようで、日本人の精神は言霊よって、福をもたらすと言う考えがあるようです。
言霊によって栄え、言霊によって助けられ、言霊によって反映されていく・・・
古来、日本は言霊で幸せがもたらされる国・言霊の幸ふ国と言われております。自分の意志をはっきりと声に出して言うことを「言挙げ(ことあげ)」と言い、それが自分の慢心等の場合には悪い結果がもたらされると信じられています。
言霊は霊的な力とも言われ、各人の考え、言葉によって上書きし書き換えらえた結果、あたかも言葉が事柄に影響を及ぼすこととも言われています。古代の「やまとことば」では「言(こと)」と「事(こと)」が同一の概念だったのも同じ思想に由来するようです。これらは他国の言葉と日本語は決定的に違うようです。
日本は、言霊の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」とされ、万葉集にも「志貴嶋 倭國者 事霊之所佐國叙 真福在与具」と記されています。「志貴島の日本(やまと)の国は事靈の佑(さき)はふ國ぞ福(さき)くありとぞ」、柿本人麻呂…そらみつ大和の國は 皇神(すめかみ)の嚴くしき國言靈の幸ふ國と 語り繼ぎ言ひ繼がひけり・・・古事記には言霊が神格化された「一言主大神」の記述も存在します。
万葉時代に言霊信仰が生まれたのは、中国の漢字に触れるようになり、大和言葉を自覚し、精神的基盤が求められ江戸時代の国学によって、再び取り上げられるようになった際も、漢意(からごころ)の否定や攘夷思想とも関連してくるとされ、自国文化を再認識する過程で論じられてきたようです。
私達はネガティブ(マイナス)思考に成り易い傾向があり、悪い言葉、悪いイメージが、実際の未来であると連想しがちです。結果、それが叶ってしまうようです。
私達は、自分なりの考え等を持って生きていますが、声として発せられた言葉を何度も聞くことにより、自己の意識下の認識や概念が知らず知らずのうちに自然と置き換えられていきます。
発せられた言葉は、無意識のうちに心理的な影響を与えていくので、それが当初の自分の認識とは異なった結果をもたらした時、人はこれを想定外のことと感じたり、霊的な力、論理的には証明できない力として、畏怖の気持ちを抱くようです。
物事の事柄は言葉の外には無く、言葉の限界は事柄の極みの限界だと言われています。声に発した言葉ということは、その届く範囲において人の深層心理に深く影響を与える効果があると言えそうで、これらは太古の昔から利用されてきた手法のようで言霊(事霊、言魂)という力・・・日々、言葉を改めて大切にしていきたいものです。
日本語というかけがえの無い大切な言葉、良い言葉、プラスの言葉、善なる言葉、美しい言葉、日々使うようにしていきたいものです。
「刀の傷は治り易いが、言葉の傷は治りにくい」
日本の美しい言葉を、今一度生きる上で再認識したいものです。