1963年、第36代アメリカ大統領、ジョン・F・ケネディー
就任後、日本人の記者団と会見が始まりました、その時記者の一人が日本人で最も尊敬する日本人は誰ですか?と質問したそうです。
すかさずケネディーは、上杉 鷹山(うえすぎ・ようざん)、徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)、東郷平八郎と答えました、戦後生まれの日本人記者はこれらの人物に、ピンとこなかったと言われています。
戦中、前の人だったら極普通に出てくるの名前です。
いかに世界のリーダーに、徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)の大義(人間が行うべき大切な道義)に生きる生き様が評価されていたかを物語ると思います。
以下の文は、徳川慶喜―最後の将軍(講談社 火の鳥伝記文庫)、 ネット等々の資料を多用し、徳川慶喜について自分なりに記します。
徳川慶喜、幕末の激動期の日本にいたから今日の日本があると言っても過言ではないと思います。
徳川 慶喜は水戸藩主、徳川斉昭の七男として誕生、以後、一橋家に養子に出され、江戸幕府第15代征夷大将軍に任じられています。江戸幕府最後の将軍となります。水戸徳川家にとっても最初にして最後の将軍です。
父・斉昭より天皇を崇拝することを家訓として授けられた慶喜は、偽の勅を操り、天皇を担ぎあげ倒幕をせまる官軍と全面対決することなく大政奉還を実施、270年の江戸幕府は幕を閉じました。もし全面対決していたら日本は弱体化し、欧米の策に騙され、極めて大きな国益を失っていたでしょう。
当時の世界情勢は、白人による植民地政策の最盛期で、世界の国々の独立が奪われ、アジアで独立を保ったのは、タイ(微妙な独立)と日本だけという状況でした。
白人による植民地政策は、最初宣教師を送りキリスト教を布教、しかし豊臣秀吉、徳川家康は見抜き、布教禁止にしたため先兵が送りこまれる危機を脱していました。
次の戦術は内戦です!
国内の勢力同士を戦わせ弱体化させるのです!(これらの策には以後、坂本龍馬等々も最後には見抜いていたように思えます、そのために殺害されたか?)
植民地化の際、目立った戦もないまま、なし崩し的に併合されていったのは、この内戦による疲労を待っていたと言われています。
イギリス、フランス、ロシア、アメリカ・・・各国が入り乱れ各勢力に分かれ内戦になるのを待っていたようです。
徳川慶喜の戦を避けるための退却、徹底した新政府側への恭順の姿勢、新政府側、徳川側とも力を消耗することなく政権が引き渡されました。日本は戦いによる国力低下を免れ、次の時代に引き継がれました!
徳川慶喜は戦わなかった!
徳川慶喜は日本の歴史のなかで、負けて勝利した名君と言えると思います。
内戦に突入しなかったことで、間違いなく西欧列強からの干渉を抑えたと言えると思います。
戦っていたら日本は疲弊し、西欧列強の介入を許し、日本は違った歴史を歩んでいたと思います。この付近の評価が欧米のリーダーに尊敬される所以かも知れないですね。
徳川慶喜を育てたものが、水戸徳川家の家訓(もし徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ)と藩校・弘道館(藩士が、武芸一般、医学・ 薬学・天文学・蘭学など幅広い学問を学ぶ場所)・・・何よりも偽勅をあやつる新政府軍より、皇室への尊崇の念が大きかったようです。
徳川慶喜は、結果的に偉大な敗者となりましたが、最後は勝ったと言うべきです。
明治天皇と徳川慶喜は、明治末期に会食の機会がもたれ、かつての居城、皇居にて面会された記録があるそうです。
貴族として最も、位の高い公爵を授けていることから、明治天皇より特別な計らいがあったと言われています。
徳川慶喜の息子(徳川 達孝)は、大正天皇を支える侍従長に就任、最も天皇に近い側近として、天皇家を支えていったと言われています。
徳川慶喜は義に生きた人と言えると思います。
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