「『身捨つるほどの祖国は』いらない!」

2013-05-05 02:25:00 | 従って、本来の「ブログ」



         「『身捨つるほどの祖国は』いらない!」


 昨今の、日本を取り巻く近隣諸国との間で交わされる排他的な言

動は、それぞれの国民が愛国心を背景に目的化した国家主義に拘泥

するあまり、そもそも人間同士であることを見失った偏狭な国家思

想に留まっているから派生するのではないだろうか。私は、日本国

民である前に人間である。私が日本国民である限り私は日本国と共

存することを受け入れるが、しかし、私は人間であることを否定す

る如何なる主義も受け入れることはできない。国民にとって国家は

目的かもしれないが、人間にとって国家は生きるための手段である。

人間は国家に先行するのだ。もしも、国家が国民に「健康で文化的

な生活を」約束する代償に人間としての矜持までも犠牲にしろとい

うなら、私はよろこんで国家を捨てて人間に留まる。私が国民であ

るのは人間であるからだ。では、人間として国家間の争いをどう解

決することが出来るだろうか?国家の壁を無くすことだ、否、むし

ろ国家の壁を越えることだ。決してふざけて言っているのではない。

実際、EUでは度重なる国家間の紛争に懲りて国境の壁をなくそう

と取り組んでいるし、すでに世界経済はグローバル化によって国境

なき世界が拡がっている。更に、情報はインターネットによって瞬

時に世界と繋がることが出来る。にもかかわらず、われわれはそれ

を貶し合うために使って友好のために生かせないでいる。アジアの

片隅で罵り合いを演じている間に世界は確実に一つになって新しい

世界を目指そうとしている。つまり、国家そのものがもはや意味を

失いかけているのだ。国家とは人間が創った謂わば機関でしかない

のだ。多分、日本の伝統文化を守る重要な観点が見落とされてると

反論されるだろうが、何もこの国の文化を蔑ろにするつもりなどな

く、それどころか年を重ねるごとに懐古的になって近代文明からの

逃避ばかり考えている。だからと言って博物館に収められて忘れ去

られた遺物から精神だけを持ち出して時代錯誤の先祖返りをしよう

などとは思わない。それらは社会の中から生まれ出るものであって、

権力者によって突然イワシの頭を崇めと言われてもわれわれはすで

にサルではないのだから付き合えない。かくも世界が緊密になって、

それこそが近代文明によるのだが、その恩恵に浴す先進国である我

が国が、その一方で世界が白ける排他的な国家主義へ復古すること

は決して許されない。すでにわれわれの食文化でさえもアメリカ産の

大豆を使用した納豆や豆腐を口にし、ブラジル産の焼鳥や中国産の

筑前煮を知らず知らずのうちに食べている。「TPP」への参加は更に

拍車を掛けることだろう。堰を切った水は水平を求めて押し寄せて来

る。国技の相撲でさえ「外国技」になってしまったし、それどころか文化

を担う国語さえもいずれ英語になってしまうかもしれない。と言うのも、

小学校から英語を身に付けた子供たちは敬語に悩まされる日本語を

将来捨てることには多分悩まないだろう。そしていずれは更に混血が

進んで「日本人」とは民族を表す分類ではなく、ただ国籍を表すだけ

の言葉に過ぎなくなる日がやってくる。つまり、ナニ人であるとかまった

く意味がなくなるのだ。時代の流れはすでに国境を越えている。そん

な時代にわれわれはアジアの片隅で過去にばかりこだわって、僅かば

かりの「縄張り」を巡って小競り合っているのだ。「縄張り」だ「ヒエラルキ

ー」だというのはサルの世界ではないか。馬鹿げているとは思わないか?

国土を拡げることが国民の幸福に繋がらないことを、かつてわれわれは

「痛いほど」知ったはずではなかったか。

 もはや、「身捨つるほどの祖国」などというのはサルのセンチメントである。



                                 (おわり)


「英霊たちによる侵略」

2013-05-02 05:03:20 | 「パラダイムシフト」



            「英霊たちによる侵略」


 連休中は穏やかに過ごしたいと思って政治や経済について記すの

は控えようと思っていましたが、また日常に戻るとすぐ忘れてしまうに

違いないので私自身の記憶のために以下を残します。

「安倍晋三首相は23日の参院予算委員会で、日本の植民地支配へ

の反省とおわびを表明した『村山談話』に関連し、『侵略という定

義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国の関係でどちら

から見るかで違う』と述べた。」[朝日新聞デジタル]とある。村山

談話にある「植民地支配と侵略によって、アジア諸国の人々に多大

の損害と苦痛を与えた」を踏まえての発言で、「遠くない過去の一時

期」に行った日本の行為を侵略とは言えない、と言うのだ。ここで「

侵略」の定義を検めるつもりはないが、つまり、領土領海が定まって

いないと言うなら分るが、「国家」が定義できるなら「侵略」の定義が

定まらないはずがないのだが、ただ、私が問題だと思うのは、そん

なことを言ってしまえば、ソ連による北方領土への侵攻も、韓国によ

る竹島支配も、はたまた中国による尖閣諸島への侵犯さえも、それ

ぞれの国から見れば侵略ではないと主張できる言質を与えることに

なるではないか。さらに、我々がそれらの国に対して「侵略」だと批

難することさえ怪しくなる。我々の行為は侵略とは言えないが、彼ら

の行為は侵略である、では安倍総理のおっしゃる通り確かに「侵略」

の定義は定まっていない。

 以下は、こんな時勢にもかかわらず提灯行列に付和雷同せずに自

らの意見を堂々と述べておられる経済学者の高橋乗宣氏が日刊ゲ

ンダイに寄せた記事の転載です。


           *    *    *


     「権力の犠牲者」を「英霊」と美化する目くらまし
         
          [高橋乗宣の日本経済一歩先の真相] 
                 (日刊ゲンダイ2013/4/26)


危うい教育の中立性

安倍内閣の閣僚や国会議員の靖国参拝が、また、中韓両国に日本批判

の材料を与えている。

安倍首相は「どんな脅かしにも屈しない」と強気だが、わざわざ両国と

の対立を激化させる必要はないだろう。毎年、同じ問題で関係を冷え

させるのは知恵がない。そろそろ問題の解決に向けて動くべきだ。

これを恒例行事にするのは、愚かなことである。

安倍首相の言い分も理解できない。

24日の参院予算委で、「英霊に冥福を祈ることを批判されても痛痒を

感じず、おかしいと思わないのがおかしい」と強調したが、靖国神社に

祀られているのは権力の犠牲者にほかならない。強権力によって戦争

に動員され、命を落とした人たちである。それを英霊と呼び、英雄視す

るのは、権力の暴走を美化する目くらましだ。日本の近代史を塗り替

える発言である。

 日清戦争、日露戦争、太平洋戦争は、いずれも他国の侵略に対抗する

ための防衛戦争ではない。日本が海外に打って出た戦争だ。それを主

導した連中によって亡くなった犠牲者を英霊とあがめるのは、国を危

うくした政治指導者の間違った行為を正当化するものである。到底受

け入れられないし、靖国神社には、過ちを犯した指導者も一緒に祀ら

れているのだからなおさらだ。教育再生実行会議は先日、首長に教育

長の任命(罷免)の権限を与え、教育行政の責任者を合議制の教育委員

会から教育長に移す改革案をまとめた。軍部が介入した戦前の反省か

ら、政治からの独立性や中立性を重んじてきた教育制度が、根底から

覆ろうとしている。道徳の教科化も検討されているし、教科書検定の

あり方にもメスが入る公算は大きい。

 こうした教育改革が、近代の日本の戦争を反省せず、当時の政治指

導者も否定しない首相の下で進められようとしている。果たして、そ

の行き着く先はどうなるのか。歴史を塗り替えて過去を正当化するた

めに、戦争まで再チャレンジなんてことになりかねない。

 昨年の衆院選で自民党は、「日本を取り戻す」と訴えた。これが意味

するところは何だったのか。戦前回帰だったとしたら恐ろしい。




「無題」 (十一)

2013-05-01 15:13:12 | 小説「無題」 (十一) ― (十五)



          「無題」


          (十一)


 猛暑だった夏は、掛けられたタオルケットさえも暑苦しさから目

が覚めたものだが、今では、夜寒によって目が覚めて、開け放して

いたガラス窓を閉め、クローゼットから掛け布団を取り出して、虫

の音に誘われて再び幻夢の世界へと舞い戻っていく。寝る間も惜し

んで働いていた頃には、眠ることがこんなにも健やかさを回復する

ものとは思ってもいなかった。秋眠もまた暁を覚えず、である。

 娘の己然が通う学校では「早寝早起き朝ごはん」を推進していて、

私はそれにはまったく首肯したので、まずは夜の消灯時間を9時に

決めた。そもそも子どもが夜更けまで起きていて発育が損なわれな

いわけがない。己然もそれはあっさり受け入れたが、ただ、ゲーム

を止めることだけは抗ったので、一日1時間までということを受け

入れさせた。やがて、以前の様に私が朝食を用意してから起しに行

かなくても起き出して、三人揃ってテーブルに着いた。学校での給

食はご飯だったりパンだったりするので、献立表を見ながら朝食は

それとは重ならないように毎日変えた。子どもが深夜になっても起

きているのは、何のことはない親の堕落した生活が彼らを引きずり

込んでいるからに過ぎなかった。己然と妻を送り出してから片付け

を済まして掃除機をかけて、それから散歩に出るのが私の日課にな

っている。

 かつては、地域の生活必需を一手に賄い、夕時には人集りで思い

通りに歩けないほどの活況だった駅前のアーケード街を、今では朝

晩の通勤人がただ通り抜ける時間帯以外は、他人の会話がやまびこ

のようにこだますほどに森閑としているシャッター通りを、私は、

時間を気にしながら駅へと急ぐ通勤人の流れに逆らって、ついこの

前までは私も彼らと同じように睡眠不足を補うために首尾よく電車

の座席に身を預けることだけを願いながら夢遊病者のように歩いて

いたことを、万感の想いと多少の優越感を感じながら閑歩した。す

ると、どうしたわけか想い出のファイルに閉じ込めていたある記憶

がするりと抜け出して頭に浮かんできた。

「働いて、働いて、働いて、それで死んでいくんだ。はっはっはぁ

ー」

それは、公共浴場で出会ったおじいさんのことばだった。私は、そ

れまでの優越感が急に冷めて、それどころか焦りさえ感じ始めた。

「こんなことをしていていいのか?」

 もはや、頭は視線が拾う世間の映像を記憶せずにもっぱら行く末

の不安観に没頭してしまい、だからといって何か術が見つかるわけ

でもなく、それにも飽きてしまいアーケードの中程まで差し掛かっ

た時、「『無料!』店舗貸します」と、大きく書かれた貼紙が目に

入った。そこは商店街の事務所でまだ閉まっていたがその窓一面に

貼られていた。私は、思うところがあってしばらくその前に立ち止ま

ってそれを記憶に留めた。


                                  (つづく)


「無題」 (十一)―②

2013-05-01 15:12:18 | 小説「無題」 (十一) ― (十五)
   


         「無題」


          (十一)―②


 長く通勤電車の雑踏の中で本を読む習慣が身についてしまい、い

ざ、家の静けさの中でひとりページを開くと生活から離れることが

できずに「思想」に集中することができなかった。そうなんだ、私

は「思想」以外のものを読む気がしないのだ。学生の頃に、友人か

ら進められて推理小説も読んではみたが、まったく興味が沸かなく

て苦しみながら読んだ記憶がある。それ以来、見栄と嫉妬ばかりの

浮世話や現実から逃れてファンタジーの世界へ誘うお伽話や、「一

杯のかけそば」のような胡散臭い人情話に耐え得るほどにはまだ人

生を諦めてはいないつもりだ。私は、一冊の本、また一行の言葉で

さえも人の生き方を変えさせたり、または社会を転換させたりする

力を秘めていると信じているし、世界は変えることができると思っ

ている。石が転げ落ちて行くだけの物語よりも、意志が重力に逆ら

って昇っていく物語が読みたい。しかし、最近の読み物からは、自

己が拠って立つ大地を揺り動かされるほどの危なさを感じた覚えが

ない。躰を壊して入院した病院のデイルームの書棚に村上春樹の「

ノルウェイの森」が置いてあって、退屈凌ぎに読んでみたが、凌ぐ

ことはできなかった。これが人気のある小説なのかとがっかりした。

かつて富島健夫という作家が居たが、週刊誌に連載されていた彼の

官能小説とよく似ていると思った。登場する女はみんな主人公とセ

ックスするためだけに現れて、そもそも何を言いたいのか、また、

どんなドラマがあったかさえも今となってはまったく覚えていない

が、(そんなのあったっけ?) ただ、幕なしにセックスばかりしてい

る主人公と、作中で、看護婦の靴音が「カッカッ」と描写されてい

て、しかし、入院している私には、彼女らはラバーソールの看護靴

を履いているので靴音は決して「カッカッ」とは聴こえてこないは

ずだと看護婦の馬脚を見てしまい、「嘘っぱちだ」と分ってからは

そのことばかりが気になって、白けてしまった。確かに、ビートル

ズの曲から着想を得ただけに音楽的とも言えなくもないが、ただ、

ビートルズの名曲「ノルウェイの森」は「ラバーソウル(Rubber So-

ul)」のLPの中に入っていたが、村上春樹の小説「ノルウェイの森」

に登場する看護婦はラバーソール( Rubber Sole) を履いていなか

った。

                                 (つづく)