「めしべ」⑨

2013-03-06 04:54:52 | 赤裸の心



       「めしべ」⑨


 しかし、われわれの理性にとって「未知」を捉えられないまま生

きることは割れたコップと同じで無意味である。理性はこう言うの

だ、「生きることには意味がある」と。そこで、理性は「未知」の

世界を仮想によって措定して認識しようとする。こうして、神が作

られ科学が生まれた。つまり、われわれは我々の認識から生まれた

措定の世界を生きているだけではないか。ビッグバーン理論によっ

て宇宙の成り立ちを説明されても、目の前のコップのように何の関

心ももたらさない。認識は決してわれわれに存在の意味を教えては

くれない。ピカソはわれわれの認識を信じなかった。理性は生きる

ための手段であっても生命を生むことはできない。絵画を始め芸術

とは萌え出る生命に対する驚喜が生む生命へのオマージュである。

つまり、理性は芸術など生まない。ピカソは人物をひたすらオブジ

ェとして描いた。彼の関心は人間にあったが、それは不可解な存在

としての人間だった。そして、その不可解さこそが生命の根源であ

ると信じていた。ピカソの怪しい人物画は、われわれの認識を嘲笑

っているかのようで捉えどころがない。彼の絵を観る者は認識を逆

行して生命の根源へ戻された感覚に自失してしまう。ところが、し

ばらく眺めていると、絵の中の人物が存在感を増しそれとは反対に

わたしの存在の方が怪しく思えてくる。そして、はからずもわたし

に「めしべ」と読まれた絵の中の人物はわたしにこう告げた、

「わたしはあなただ」

と。

                もう何も出て来ないので(おわり)かも、


「めしべ」⑧

2013-03-05 13:40:25 | 赤裸の心



               「めしべ」⑧


 たとえば、わたしの目の前にあるものを「コップ」と認識した時、

つまり、わたしが「コップ」という言葉からイメージするものと目

の前のものが一致した時、日常生活の中でわたしは途端にコップへ

の関心を失ってしまう。わたしはコップの用途も知っているし何故

ここに在るのかも解っている。だから、ことさら目の前のコップに

関心が沸かない。コップはすでにわたしによって意味付けされてい

るからだ。多分、コップはわたしの目を盗んでビンに変わったりは

しないだろう。コップはわたしの認識に捉えられて逃げ出すことは

できない。われわれが「何であるか?」と意味を問うのは「未知」

なものに対する本能的な恐怖から逃れるために理性による認識によ

って「既知」に捉え直すためである。ところが、わたしの認識がコ

ップを捉えたようには捉えることができないもの、たとえば「なぜ

世界は存在するのか」とか「なぜ世界は斯くあるのか」とか、それ

どころか「なぜ私は生まれてきたのか」とか、それなのに「なぜ死

ぬのか」とか、依然としてわれわれの認識によってしても「既知」

へと変換し得ずに止揚できないさまざまな「未知」のことがらにつ

いて、われわれはコップを認識したようには捉えることができない。

謂わば、それらは依然として「既知」外である。


                               (つづく)



「めしべ」⑦

2013-03-03 05:08:37 | 赤裸の心



        「めしべ」⑦


 もはや人物とは言えない程デフォルメされた物体の絵は、それで

もただ乱暴に描写されただけではなく、その絵には観る者の認識を

誘う不思議な生命感を漂わせ単なる物体とは思えない緊張があった。

しばらくその絵を眺めていると、やがてわたしの理性の方が怪しく

なって来て、ものを見てそれを認識するということが極めて表象だ

けに頼った理解でしかないことを改めて知った。われわれは奇跡的

な世界に在っても百科事典に書かれた説明を読んで世界を知ったつ

もりでいる。しかし、目の前にあるコップがどれほど驚くべき過程

を経て地球上に、否、宇宙に存在しているのかなどと言うのは見過

ごしてしまう。たとえば誰も、一個のコップが宇宙空間に存在する

ことの不思議について考えたことなどないだろう。すでにわれわれ

は宇宙もコップも自分の認識の中で繋がっていると思っている。し

かし、ピカソの絵を観ていると、われわれのその認識こそが怪しく

なってくる。

                      酔ってしまったので(つづく)