「われわれが『うそ』を望んでいる」
もう、求める光明を小説(うそ)だけにして、時事評論や所謂エッ
セイの類は載せるまいと決意したのですが、一瞬で過ぎ去る流星を
捉えるには焦点が合わせられずにストレスが昂じて耐えられなくな
ってオメオメと口を挟む次第ですが、昨今の「うそ」にまつわる幾
つかの出来事は、もちろん当事者にその大きな責任があるのでしょ
うが、さらに安易に受け売りするマスコミ」を通じて、情報そのものと
はかけ離れた「情」報ばかりが取り上げられ、ところが疑念が持ち上
がると忽ち掌を返して当事者を誹謗する社会の在り方に果たしてま
ったく問題はないのだろうか?科学的発見であればまず実証されな
ければならないのは当り前のことだし、音楽的的価値は作品以外に
求めるべきでないのは自明のことである。仮にベートーベンは耳が聞
こえなかったというのが「うそ」だったとしても、彼の独創性は何ら汚さ
れるものではない。一連の騒ぎからわれわれの願望が垣間見えるの
でないだろうか。誰もが共有できるドラマを求めているのだ。つまり、
われわれ自身が「うそ」を望んでいるのではないだろうか。閉塞した社
会の中で氾濫する情報に惑わされて遂にはリテラシーが働かなくなり
、現実から遁れようと流星の光明に夢を託そうとしている。変わらない
社会に苛立ち変わりたい自分が空回りする。そして「うそ」だとわかると
一転してみんなで袋叩きする。いずれも集団心理に従っているだけだ。
しかし、かつてわれわれは集団幻想を追い求め現実を見誤って存亡の
危機に追い込まれたことを忘れてはならない。近々ではオウム事件や
原発の安全神話、そして放射線の風評被害、さらに戦後レジームの見
直しなど。ただ、「うそ」を見破る冷静な目を失った社会は、従って「ほん
と」を疑わずに熱狂する社会ほど恐ろしいものはない。
(おわり)