「刑務所の中で」

2010-04-06 15:31:19 | 赤裸の心
           「刑務所の中で」


 私はパソコンの横に数冊のニーチェの文庫本を置いて、パソコン

に飽いた時、当てずっぽうに開いて彼の言葉を読んでいる。座席の

左側に置いているので「座右の銘」ならぬ、「座左の書」である。ただ、

何を言っているのか理解出来ないことの方が殆んどで、偶に共感を

得た時の歓びは計り知れない。

 以下は、彼の「曙光」一一七からの文章である。

「刑務所の中で。――私の眼はどれほど強かろうと弱かろうと、ほ

んのわずかしか遠くを見ない。しかもこのわずかなところで私は活

動する。この地平線は私の身近な大きな宿命や小さな宿命であり、

私はそこから脱走することができない。どんな存在のまわりにも、

中心点をもち、しかも存在に固有であるような、ひとつの同心円が

ある。同様に、耳がわれわれをひとつのちいさな空間の中に閉じこ

める。触覚も同じことである。刑務所の壁のように、われわれの感

覚がわれわれの一人一人を閉じこめるこの地平線に従って、われわ

れは今や世界を測定する。われわれは、これは近くあれは遠い、こ

れは大きくあれは小さい、これは硬くあれは柔らかい、と呼ぶ。こ

の測定をわれわれは感覚と呼ぶ。――何もかも誤謬それ自体である

!われわれにとって平均してある時点に可能である多くの体験や刺

激に従って、われわれは自分の生を、短いとか長いとか、貧しいと

か富んだとか、充実しているとか空虚であるとか、測定する。そし

て平均的な人間の生に従って、われわれはすべての他の生物の生を

測定する。――何もかも誤謬それ自体である!われわれが近い所に

対して百倍も鋭い眼をもつとすれば、人間は途方もなく高く見える

ことであろう。そればかりか、それによると人間が測定されないと

感じられるような器官を考えることができる。他方、太陽系全体が

狭まり、締めつけられて、たったひとつの細胞のように感じられる

ような性質を、器官がもつこともありうるであろう。そしてそれと

反対の組織をもった存在にとっては、人間の身体のひとつの細胞は、

運動や、構造や、調和の点で、一個の太陽系であることを示しうる

であろう。われわれの感覚器官の習慣は、われわれを感覚の欺瞞に

紡ぎこんだ。これらの感覚器官は、再びわれわれのすべての判断と

「認識」の基礎である。――現実の世界への逃走も、すりぬける道

も、抜け道も、全くない!われわれは自らの網の中にいるのだ、わ

れわれ蜘蛛は。そしてわれわれがそこで何をつかまえようとも、ま

さしくわれわれの網でつかまえられるもの以外には、何もつかまえ

ることができないのだ。」

ニーチェ全集⑦ちくま学芸文庫「曙光」一一七「刑務所の中で。」
茅野良男(訳)

 われわれ蜘蛛は、能力を超えた認識など持ち得ない。従って我々

が世界を知り得ないのは、我々がその能力を持ち合わせていないか

らだ。つまり、「実存は本質に先行する」限り、本質は実存の部分

を語れても全体は語れない。何故なら、

「一、未知の事物の認識と確実性に到達するには、認識と確実性に

おいてその未知の事物に先立つほかの事物の認識と確実性によるほ

かない。」からである。
       
スピノザ(著)「デカルトの哲学原理」畠中尚志(訳)から
岩波文庫(青615-⑧)
「幾何学的方法で証明された哲学原理」第一部(公理)より

                                   (おわり)

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