「個人と国家」
そもそも儒教道徳とは封建社会の主従関係から生まれた身分道
徳で、戒め(いましめ)を強いられるのは専(もっぱ)ら従者の
方である。礼儀とは身分の低い者に謙(へりくだ)ることを求める
規範なのだ。媚(こ)び諂(へつら)う従者は主人『絶対』の力
の前に自らを虚しくする。北朝鮮の国民が権力者の横暴に虐げら
れても抗(あらが)わずに耐えるのは、久しく身に沁(し)みつ
いた儒教道徳に縛られているからではないだろうか。国民は「身
分を弁(わきま)えて」、権力者の横暴を糺(ただ)すことに怯
(ひる)み、叛(そむ)くことを謹(つつし)み、裸の将軍様を
「万歳!」と讃えるしかないのだ。それは何も北朝鮮だけのこと
では無く、中国は言わずもがな、ついこの前の日本でも「万歳!」
と叫んで権力者に追従したではないか。私が言いたいのは、この
国もあの国とそんなに違っていないというのだ。異を唱えれば排
除される。いずれ権力者が道徳を説く時は警戒しなければならな
い。国民から奪った自由は権力の下に集められて、権力者の自由
に為るのだから。
一方、キリスト教道徳は世俗を離れた神との契りである。中世
には斡旋教会が神の名を騙(かた)って縦(ほしいまま)にした
経緯もあったが、信者が行いを律するのは世俗を支配する権力者
に阿(おもね)ってでは無い。神〈絶対〉との契りなのだ。真理
や正義、或いは秩序は権力者の下に在るのでは無い、神の下に在
るのだ。この〈絶対〉を望む視線の違いこそが、西洋とアジアに
於ける、個人と国家の関係の違いではないだろうか。国家や権力
者が次々と衰亡を繰り返す世界で、個人にとって国家とは単なる
手段に過ぎないのだ。かつて東京裁判に於いて、キリスト教連合
国が裁いたのは、我々の足元しか見ようとしない視線の短い道徳
である。
神への信仰は世俗を離れて個人主義を生み、絶対を見つめる
視線が懐疑主義を育み、近代科学を発展させた。中でもユダヤ人
科学者の貢献が無ければ今日の西欧諸国の発展は成し遂げられな
かった。否、それは科学だけに止まらず、経済はもちろん芸術や
文学、哲学に至るまでも彼等の偉業はキラ星の如く輝いている。
私はクリスチャンでも何でもないが、中東問題を語る時に、有史
以前の証文を持ち出して「此処は俺達の土地だ」と言ってパレス
チナ人を追い出し、武力を持って支配するイスラエルの横暴は非
難されるべきだが、しかし彼等の人類社会への貢献を無視して、
支援する欧米諸国を批判しても問題が解決されるとは思えない。
つまり、気持ちの何処かでイスラエルを支持する西側諸国の想い
が解るのだ。はっきり言って、ユダヤ人が居なければ近代文明の
繁栄は無かった。話しは逸れてしまったが、優れた創造力は絶対
と向き合う個人の懐疑から生まれるのだ。
反して、アジアの卑近な身分道徳の視線からは懐疑主義など生
まれない。主君への懐疑とは道徳に背くことになる。真理は主君
を越えて存在しない。そして内に向けられた視線は閉鎖的な閥社
会を生み、閥社会はヒエラルキー(階層組織)を築き、個人主義
者は排され余所者扱いされる。道徳を説く者が貧困に喘ぐホーム
レスを見ても『惻隠の情』を催さないのはホームレスが余所者で
あるからだ。
夏目漱石と云う小説家は押し寄せる西洋文明の中で、個人と国
家について悩んだ人である。欧米の進出を恐れた政府は個人を犠
牲にしても国家の近代化を急がねばなら無かった。しかし、文学
に於ける近代化とは個人主義思想に他ならなかった。彼はイギリ
ス留学を伝えられている様な懊悩のうちに終えた訳ではない。イ
ギリスで彼は自ら拠って立つ「自己本位」の考えを得て、『私は
軽快な心をもって陰欝(いんうつ)な倫敦を眺めたのです。』
(夏目漱石「私の個人主義」)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/772_33100.html
帰国後、文壇で活躍するが、彼の「自己本位」は個人主義全盛の
イギリスで得たものだ。『自己が主で、他は賓(ひん)であると
いう信念』を貫いた。その頃、日本を始めアジアは欧米列強の覇
権に脅かされて抗戦意識が高まり、日露戦争へと向かっていった
。そして彼の「自己本位」も、恐らくは体調のことがあったのだ
ろうが、軍国主義の流れの中で「則天去私」と変わっってしまっ
た。私は彼の「則天去私」の中に深い諦観を感じる。
欧米に於いても実存主義以来、神を見捨てた人々がペシミズム
に苦しみ、様々な模索の中から再びコミュニティーに回帰しよう
としている。しかし、それは教会では無くEU(欧州連合)とい
う新しい社会の試みである。ところが、アジアはと言えば、それ
ぞれが内向きの国家ヒエラルキーに固執して隣国との過去の確執
に執拗に執着して執り成す術すらない。もしも、アジアがAU(
アジア連合)でまとめておトクに繋がるならば、それぞれの個人
が過去の国家という枠を越えた新しい道徳を共有しなければなら
ない。我々は、百年前に夏目漱石が『鶴嘴(つるはし)をがちり
と鉱脈に掘り当てた』、彼の「自己本位」をもう一度考えてみる
べきではないだろうか。それぞれが「自己が主」に戻って国家を
見直すべきではないだろうか。人間を定義するのに国家は要らな
いが、国家を定義するのに人間が居なければ語れない。我々は国
家という幻想に共有の手段以上の想いを寄せてはいないだろうか
。
神から約束された地にもかかわらず、イスラエルは度重なる侵
略や占領に晒されてユダヤ人は世界を彷徨った。しかし、彼らは
国を失っても信仰によって民族のアイデンティティーを保った。
ユダヤ人の定義とはユダヤ教徒であることで足りるのだ。
もしも、我が国が動乱を繰り返す帝国に縦(ほしいまま)にさ
れ、この国を追われ異境の地で何世代も種を交えることになれば
、我々はそう長くない間にその土地に染まり、大和民族のアイデ
ンティティーなど消滅する事は想像に難く無い。我々は万世一系
の天皇の下、この豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)の地
で、辛うじて民族のアイデンティティーを保っているのだ。いや、
侵略による占領に因らずとも、少子化の果てに失われた労働力を
賄う為に、隣国の幾億の失業者が安い賃金も厭わずに押し寄せて
来て、国民の凡そを占めるようにでもなれば、いずれこの国の定
めを改めて、かつて我々が追い遣ったアイヌ民族のように今度は
我々が辺境に追い遣られ、大和民族という言葉を懐かしむ日が来
るのかもしれない。 隣国の成長の源泉は一に人の数の多さだ。
しかし、それは同時に最も厄介な障害でもある。かつて日本が2
0年かけて成し遂げた近代化を、数を頼りに5年足らずで成し遂
げるだろう。ただ、問題はその後から始まる。つまり、情報を閉
ざしたまま、世界が高い品質を求める中で、何時までも古い時代
認識で安価なバッタ物を作っていては凌げないことを我々がよー
く知っている。技術革新は自由な発想がなければ産まれないのだ
。その時、彼の国は、かつての旧ソ連のように人権と体制の相克
が露出して、お得意の権力闘争が起こるに違いない。そして彼ら
は旧ソ連体制が通った道を辿るに違いない。
EU(ヨーロッパ連合)の通貨統一の試みは、国家という壁を
低くして、国家への帰属意識を薄れさせ、自己のアイデンティテ
ィーを『自己本位』に求める。国家とは個人が共有する手段に過
ぎないのだ。いずれ、フランス人だとかドイツ人だとかは意味を
無くし、彼らが『ヨーロッパ人』と語る時に、我々は果たして『
日本人』と自信を持って応えているのだろうか。それとも、すで
に国を追われて、猶、何世紀にも亘って日本人のアイデンティテ
ィーを失わずに、日本列島の片隅で世界を唸らせる技術力で国家
の再建を果たすことを夢見ているのだろうか。
ただ、我々は『日本人』を定義する何ものも無いのだ。
(おわり)
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そもそも儒教道徳とは封建社会の主従関係から生まれた身分道
徳で、戒め(いましめ)を強いられるのは専(もっぱ)ら従者の
方である。礼儀とは身分の低い者に謙(へりくだ)ることを求める
規範なのだ。媚(こ)び諂(へつら)う従者は主人『絶対』の力
の前に自らを虚しくする。北朝鮮の国民が権力者の横暴に虐げら
れても抗(あらが)わずに耐えるのは、久しく身に沁(し)みつ
いた儒教道徳に縛られているからではないだろうか。国民は「身
分を弁(わきま)えて」、権力者の横暴を糺(ただ)すことに怯
(ひる)み、叛(そむ)くことを謹(つつし)み、裸の将軍様を
「万歳!」と讃えるしかないのだ。それは何も北朝鮮だけのこと
では無く、中国は言わずもがな、ついこの前の日本でも「万歳!」
と叫んで権力者に追従したではないか。私が言いたいのは、この
国もあの国とそんなに違っていないというのだ。異を唱えれば排
除される。いずれ権力者が道徳を説く時は警戒しなければならな
い。国民から奪った自由は権力の下に集められて、権力者の自由
に為るのだから。
一方、キリスト教道徳は世俗を離れた神との契りである。中世
には斡旋教会が神の名を騙(かた)って縦(ほしいまま)にした
経緯もあったが、信者が行いを律するのは世俗を支配する権力者
に阿(おもね)ってでは無い。神〈絶対〉との契りなのだ。真理
や正義、或いは秩序は権力者の下に在るのでは無い、神の下に在
るのだ。この〈絶対〉を望む視線の違いこそが、西洋とアジアに
於ける、個人と国家の関係の違いではないだろうか。国家や権力
者が次々と衰亡を繰り返す世界で、個人にとって国家とは単なる
手段に過ぎないのだ。かつて東京裁判に於いて、キリスト教連合
国が裁いたのは、我々の足元しか見ようとしない視線の短い道徳
である。
神への信仰は世俗を離れて個人主義を生み、絶対を見つめる
視線が懐疑主義を育み、近代科学を発展させた。中でもユダヤ人
科学者の貢献が無ければ今日の西欧諸国の発展は成し遂げられな
かった。否、それは科学だけに止まらず、経済はもちろん芸術や
文学、哲学に至るまでも彼等の偉業はキラ星の如く輝いている。
私はクリスチャンでも何でもないが、中東問題を語る時に、有史
以前の証文を持ち出して「此処は俺達の土地だ」と言ってパレス
チナ人を追い出し、武力を持って支配するイスラエルの横暴は非
難されるべきだが、しかし彼等の人類社会への貢献を無視して、
支援する欧米諸国を批判しても問題が解決されるとは思えない。
つまり、気持ちの何処かでイスラエルを支持する西側諸国の想い
が解るのだ。はっきり言って、ユダヤ人が居なければ近代文明の
繁栄は無かった。話しは逸れてしまったが、優れた創造力は絶対
と向き合う個人の懐疑から生まれるのだ。
反して、アジアの卑近な身分道徳の視線からは懐疑主義など生
まれない。主君への懐疑とは道徳に背くことになる。真理は主君
を越えて存在しない。そして内に向けられた視線は閉鎖的な閥社
会を生み、閥社会はヒエラルキー(階層組織)を築き、個人主義
者は排され余所者扱いされる。道徳を説く者が貧困に喘ぐホーム
レスを見ても『惻隠の情』を催さないのはホームレスが余所者で
あるからだ。
夏目漱石と云う小説家は押し寄せる西洋文明の中で、個人と国
家について悩んだ人である。欧米の進出を恐れた政府は個人を犠
牲にしても国家の近代化を急がねばなら無かった。しかし、文学
に於ける近代化とは個人主義思想に他ならなかった。彼はイギリ
ス留学を伝えられている様な懊悩のうちに終えた訳ではない。イ
ギリスで彼は自ら拠って立つ「自己本位」の考えを得て、『私は
軽快な心をもって陰欝(いんうつ)な倫敦を眺めたのです。』
(夏目漱石「私の個人主義」)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/772_33100.html
帰国後、文壇で活躍するが、彼の「自己本位」は個人主義全盛の
イギリスで得たものだ。『自己が主で、他は賓(ひん)であると
いう信念』を貫いた。その頃、日本を始めアジアは欧米列強の覇
権に脅かされて抗戦意識が高まり、日露戦争へと向かっていった
。そして彼の「自己本位」も、恐らくは体調のことがあったのだ
ろうが、軍国主義の流れの中で「則天去私」と変わっってしまっ
た。私は彼の「則天去私」の中に深い諦観を感じる。
欧米に於いても実存主義以来、神を見捨てた人々がペシミズム
に苦しみ、様々な模索の中から再びコミュニティーに回帰しよう
としている。しかし、それは教会では無くEU(欧州連合)とい
う新しい社会の試みである。ところが、アジアはと言えば、それ
ぞれが内向きの国家ヒエラルキーに固執して隣国との過去の確執
に執拗に執着して執り成す術すらない。もしも、アジアがAU(
アジア連合)でまとめておトクに繋がるならば、それぞれの個人
が過去の国家という枠を越えた新しい道徳を共有しなければなら
ない。我々は、百年前に夏目漱石が『鶴嘴(つるはし)をがちり
と鉱脈に掘り当てた』、彼の「自己本位」をもう一度考えてみる
べきではないだろうか。それぞれが「自己が主」に戻って国家を
見直すべきではないだろうか。人間を定義するのに国家は要らな
いが、国家を定義するのに人間が居なければ語れない。我々は国
家という幻想に共有の手段以上の想いを寄せてはいないだろうか
。
神から約束された地にもかかわらず、イスラエルは度重なる侵
略や占領に晒されてユダヤ人は世界を彷徨った。しかし、彼らは
国を失っても信仰によって民族のアイデンティティーを保った。
ユダヤ人の定義とはユダヤ教徒であることで足りるのだ。
もしも、我が国が動乱を繰り返す帝国に縦(ほしいまま)にさ
れ、この国を追われ異境の地で何世代も種を交えることになれば
、我々はそう長くない間にその土地に染まり、大和民族のアイデ
ンティティーなど消滅する事は想像に難く無い。我々は万世一系
の天皇の下、この豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)の地
で、辛うじて民族のアイデンティティーを保っているのだ。いや、
侵略による占領に因らずとも、少子化の果てに失われた労働力を
賄う為に、隣国の幾億の失業者が安い賃金も厭わずに押し寄せて
来て、国民の凡そを占めるようにでもなれば、いずれこの国の定
めを改めて、かつて我々が追い遣ったアイヌ民族のように今度は
我々が辺境に追い遣られ、大和民族という言葉を懐かしむ日が来
るのかもしれない。 隣国の成長の源泉は一に人の数の多さだ。
しかし、それは同時に最も厄介な障害でもある。かつて日本が2
0年かけて成し遂げた近代化を、数を頼りに5年足らずで成し遂
げるだろう。ただ、問題はその後から始まる。つまり、情報を閉
ざしたまま、世界が高い品質を求める中で、何時までも古い時代
認識で安価なバッタ物を作っていては凌げないことを我々がよー
く知っている。技術革新は自由な発想がなければ産まれないのだ
。その時、彼の国は、かつての旧ソ連のように人権と体制の相克
が露出して、お得意の権力闘争が起こるに違いない。そして彼ら
は旧ソ連体制が通った道を辿るに違いない。
EU(ヨーロッパ連合)の通貨統一の試みは、国家という壁を
低くして、国家への帰属意識を薄れさせ、自己のアイデンティテ
ィーを『自己本位』に求める。国家とは個人が共有する手段に過
ぎないのだ。いずれ、フランス人だとかドイツ人だとかは意味を
無くし、彼らが『ヨーロッパ人』と語る時に、我々は果たして『
日本人』と自信を持って応えているのだろうか。それとも、すで
に国を追われて、猶、何世紀にも亘って日本人のアイデンティテ
ィーを失わずに、日本列島の片隅で世界を唸らせる技術力で国家
の再建を果たすことを夢見ているのだろうか。
ただ、我々は『日本人』を定義する何ものも無いのだ。
(おわり)
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