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「無題」 (十)―②

2012-07-17 05:48:32 | 小説「無題」 (六) ― (十)



         「無題」


          (十)―②


「朝食の用意が出来ていますので、いつでもどうぞ」

という、オーナーの奥さんの電話で目が覚めた。ベットに仰向けに

なったまま天井のシーリングファンを眺めながらしばらく身体を動

かすことができなかった。昨夜は気が付かなかったが建物全体がま

だ新しかった。内壁は白で統一されていたが、絨毯とカーテン、そ

れにベットカバーは同じ淡色のグリーンでその色彩が鮮やかに引き

立っていた。先に立ち上がった妻がその緑のカーテンを引いた。そ

して、

「あなた、見てっ!ほらっ、早く起きて」

と、振り返って叫んだ。私は、まだスイッチが入らなかったが、惰

性で起き出して妻の居る窓の側に寄ると、一面に朝日を浴びて銀色

に輝く大海原と、その水平線から立ち昇る力こぶのような白雲、そ

の雲間からようよう顔を覗かせた太陽が、撮影で使うクロマキーの

ブルーバックのような青空を背景にして斜めからの光で壮大な立体

感を映し出していた。二人でしばらくその鮮やかな景色を眺めてい

ると切れた電源が充電されていくのがわかった。妻は隣の部屋に居

る子どもたちをコネクトドアを通って起こしに行った。しばらくす

ると子どもたちの騒がしい声が聴こえてきた。

 慌しく支度を整えて階下のダイニングルームへ降りた。壁の時計

を見るとすでに九時を回っていた。四角い部屋の真ん中にはバイキ

ングスタイルの惣菜が並べられ、それを取り囲むように四辺にテー

ブルが十卓余り配置され、それぞれが好きなものを選べるようにな

っていた。私たち以外の宿泊客は、そのほとんどは子供連れで、す

でに事を済まして片付けられたテーブルで寛いでいた。私たちが入

っていくと、誰からともなく「おはようございます」と声を掛けて

くれた。アルバイトなのか高校生らしき女の子が「竹内様」と書か

れたテーブルに案内してくれた。そして、ひと通り説明してくれた

後に、

「こちらの方はまだ充分時間がありますので、どうぞごゆっくりお

召し上がり下さい」

と、やさしい気遣いのことばをかけてくれた。食事が終わって部屋

に戻ろうとすると、チョイ悪親父の息子だと名乗る青年がフロント

で私たちを待っていた。美咲よりも少し年上かもしれない。なるほ

どチョイ悪風のお父さんに似てイケメンだった。さらに、褐色に日

焼けした顔は精悍だった。そして、何よりも下肢を支える腰とその

上に乗った鍛えられた上半身のバランスがよく立ち姿が整っていた。

彼は、深々と頭を下げてから、

「おはようございます」

私はそれに応えた。彼は、自分の紹介をしてから、

「用意ができましたらいつでも浜までお送りしますので」

と言った。私は、

「ちょっと待ってて下さい。すぐに用意して降りてきますから」

そう言って、みんなを急かして部屋に上げた。それまでは、海には

行きたくないと言っていた美咲は、恐らく、手首の傷跡がまだ目立

つからだと思うが、用意してきたリストバンドで隠して、その上に

日焼け防止用のアームカバーで覆ってちゃっかり身支度を整えて、

己然には、

「待たせているんだから早く着替えなさい」

と追い立てて、何か、急に元気を取り戻した。


                              (つづく)


「無題」 (十)―③

2012-07-15 12:01:08 | 小説「無題」 (六) ― (十)


            「無題」


             (十)―③


 私は、車があるのでそれで行ってもいいかと訊くと、息子は、そ

の方が自由に動ける、と言うので彼の車の後を着いて行くことにし

た。チョイ悪親父のペンションは海岸と並行して走る少し高台の道

路沿いにあった。その息子は、父親のペンションの一部を増改築し

てスキュバーダイビングの現地サービスを行なっていた。従って、

チョイ悪親父のペンションの宿泊客のほとんどはスキューバダイビ

ングをするために泊まっている客のようだった。息子だけでなくそ

の他にも数人のスタッフがいて、辺りにはウエットスーツが並べて

干してあったり、酸素ボンベなどが無造作に置かれていた。彼がピ

ックアップした満員の客を乗せたワゴン車の後を追って、つまり、

我々はずーっと彼らを車の中で待たせていたのだ、道路と浜辺の間

にある教えられた駐車場に車を止めた。そこにはすでに多くの厳つ

いRV車が止まっていた。私は、チョイ悪親父に、否、もうそう呼

ぶのは止めよう、木下さんに挨拶をしてから、家族揃って海水浴場

への坂道を駆け下りた。すでに浜辺では、多くの親子連れの客が焼

け付く陽射しの下で甲高い声を上げていた。それに誘われて己然も

浮き輪を胴に撒きつけて、母の制止も聴かずに、「キャーッ!」と

叫びながら勢いよく浜辺へと駆けて行った。


                          (つづく)


「無題」 (十)―④

2012-07-14 05:47:10 | 小説「無題」 (六) ― (十)



                  「無題」


                   (十)―④


 昼過ぎには海水浴場を後にして、実際、この夏初めての海水浴で、

あの日差しの下で半日でも居ようものなら干物になってしまう。早

々に車で宿に戻って少し休んでから、己然がどうしても行きたいと

言っていたワニ園に行った。あまり時間がなかったが、それでも歩

くことさえしんどい私たちにはそれで充分だった。ただ、己然だけ

が元気に走り回っていた。

 宿に帰って来るとさっそく充電器(ベット)に身を預けた。夕飯を

済まして少しは回復して寛いでいると、木下さんの息子からデンワ

があった。

「ほら、今日から花火大会が始まるでしょ。庭からよく見えるんで

すよ。みんなでパーティーしますから、もしよかったら来ませんか

?」

すでに己然は疲れ果てて寝ていた。私は、妻にどうするか訊いた。

ただ、オーナーからはここからでも充分見えると聴いていたので出

かける気にはならなかった。それに、彼らは私たちよりも随分若い

人たちだった。ただ、美咲だけは「行きたい!」と言った。木下さ

んの息子は、

「それじゃあ、迎えに行きます」

それを美咲に伝えると、彼女はバスルームに駆け込んでは、何度も

出たり入ったりを繰り返し、何度も服を替えてはミラースタンドの前で

自分の姿を映した。

 美咲が、何時ペンションに戻って来たのかさえ知らぬままに朝を

迎えた。花火は8時半に終わり、私らが寝たのは11時頃だったか。

少なくともそれまでは戻って来なかった。その美咲はまだ眠ったま

まだった。ただ、今朝はもう迎えの車は来なかったので自分たちの

好きな時間に出ることができた。すでに朝食の時間は始まっていた。

妻が彼女に声を掛けたが、とても起きそうになかったので、彼女だ

けを残して三人で食堂へ行った。

 朝食を済まして部屋に戻って見ると、美咲が慌しく身なりを整え、

「ママ、昨日使ったタオルどこにあるの?」

すると妻は、

「あ、窓の外に干してある」

美咲は、それを取って自分のバッグに詰めながら、

「お父さん、悪いけど私だけ先に送ってくれない?」

「どうしたんだ?」

「私、体験ダイビングに参加することにしたの」

「何?それ」

「だからスクーバダイビングするのよ!」

「スクーバ?」

「そう、スキューバは間違いでスクーバが正しいんだって。もうそ

んなことどうでもいいから、早く!9時までに行かなきゃならない

のよ」

妻は、

「じゃ、朝ごはんはどうするの?」

と訊くと、

「時間がない」

と答えて部屋を出た。私は、彼女に急かされて、彼女だけ木下さん

のペンションへ送ることにした。因みに、木下さんのペンションの

名前は、恥ずかしくて言えなかったけど、「アンダーツリー]と言った。

せめて、定冠詞くらい付けて欲しかった。
                                 (つづく)


「無題」 (十)―⑤

2012-07-13 09:10:52 | 小説「無題」 (六) ― (十)



           「無題」

             
            (十)―⑤


 帰る日になって、美咲が「帰らない」と言い出した。

「なっ、何で?」

「Cカードを取りたいから」

Cカードとは、スキューバダイビングの団体が発行する認定証のこ

とで、それがないと自由に潜ることが許可されないらしい。それを

得るには、多少の講習と実技の習得のために何度か通わなければな

らなかった。もともと美咲は、子どもの頃からスイミングスクール

に通っていたので泳ぐことは得意だっが、両親の離婚があって止め

ざるを得なかった。そして、きのうの体験ダイビングで「絵にも描

ぬ美しさ」に魅了されてしまった。宿に戻って来るや、「もう絶対

スクーバダイビングやる」と、夕飯の時にもその感動を熱く語って

いた。そこで、どうしてもCカードを取って、カメに連れられて海

底にあるという「竜宮城」を見てみたいと思うようになったのだろ

う。私は、

「そんなこと言っても、泊まるとこがないだろ?」

実際、すでにシーズンに入っていて「アンダーツリー」にしたって

ずーっと予約で詰まっていた。

「だから、お父さん、何とかして、お願い!」

「ええーっ!」

それを聞いていた妻が、

「美咲!もういい加減にしなさい」

「ちょっと、ママは黙ってて!」

すると妻は、

「バカッ!自傷歴のある女が独りで泊めてくれるとこがあるとでも

思ってんの?」

私は、

「弘子、それはちょっと言いすぎだよ」

「いいのよ、これくらい。何も知らないくせに、一度言い出したら

ほんとに言うことを聞かないんだから」

すると、美咲はワンワン泣き出した。

「ごめん、美咲、お父さんも今日の宿泊をこれから探しても見つけ

られないかもしれん」

さらに、弘子は、

「もうすぐ編入試験があるんでしょ、それどころじゃないじゃない。

いったいどうするつもり?」

美咲は母には食ってかかり、

「もう、学校はやめたっていい」

すると、

「何を言ってるの!自分で決めたんじゃなかったの?何でいつもそ

うやって途中で投げ出すの?」

「・・・」

美咲は話せないほど泣いていた。私は彼女の肩を抱いて、

「美咲、何も今すぐ取らなくても、学校が決まってからでもいいじ

ゃないか」「その時はお父さんも協力するからさ」

美咲は二度ほど肯いて感情を落ち着かせた。妻が言うには、彼女は

一度言い出したら絶対に自分の主張を曲げないが、相手が引き下が

ると途端に同じ人間とは思えないほど穏やかになる。本人はまった

く気付いていないが、そこに彼女の人格障害が見て取れると、これ

まで間近で見てきた母親の、それは母親としてはほんとに辛いわが

子に対する診断だった。そして、きっと、また好きな男ができたん

だ、と言った。もちろん、好きな男とは木下さんの息子のことだ。

こうして、何かに依存していないと自分が虚しくなって、好きな男

を替える度に自分が新しく生まれ変わったような気になっている。

しかし、それは男に依存した自己でしかなく、自分自身を失ってい

るからだ。だから、その自分勝手な執着が疎まれたと思った時の感

情の激しさは異常で、相手は散々振り回された揚句に疲れ果てて離

れていくのが目に見えている、と妻は振り返った。だからと言って、

その相手に、「娘にはすこし精神障害があります」と忠告するわけ

にも、彼女のためにもできなかった。私と妻は、美咲の恋愛が再び

彼女はもちろん、相手の男までも苦しませることにならないか気が

気でならなかった。そして、また・・・。

 それまで、退屈そうにベットの上で転がって遊んでいた己然は、

「もうすんだ?」

と訊いた。

                                 (つづく)


「無題」 (十)―⑥

2012-07-12 00:42:22 | 小説「無題」 (六) ― (十)



             「無題」


              (十)―⑥


 こうして、我が家の家族旅行は終わった。

 すでに、もう今では夏の盛りも峠を過ぎ、朝晩もめっきり過ごし

易くなって、蝉も鳴き止むほど騒がしかった己然の夏休みも終わり、

蝉に替わって虫の音が聴こえ始めると再び学校へ通い始めた。更に、

妻までも「出ていくばかりだともたない」とか言って、早朝から近

くのコンビニで働き始めた。朝食を作ると宣言した私は今も実行し

ていて、妻が起きる時間を少しは遅らせることに貢献しているはず

だ。しかし、彼女らが出かけた後にひとり取り残された私は、静ま

り返った家の中で所在なくただ時間だけが過ぎていった。

 美咲は、何とか編入試験に受かり再び学生生活に戻った。教師に

なる夢はどうやら諦めたようだ。「自分自身も思い通りにならない

のに、人に教えるなんて無理」、自分を見つめ直して、少なくとも

以前よりは衝動的な感情の暴露はしなくなった。木下さんの息子と

まだ続いていて、連絡は取り合っているがすぐには会えないことが、

自分自身を実験台にして理性によって感情をコントロールする訓練

をしているのだと、これまで私にそんなことを吐露したことなどな

かったのに、私の携帯に送ってきてくれた。私は、「辛くなったら

一人で悩まないで、いつでも家に帰って来なさい」と送り返した。

彼女は、今、奪われた父親との時間を取り戻そうとしていた。もち

ろん、彼氏との絆であるスキューバダイビング、じゃなかった「ス

クーバ」ダイビング、への想いを失ってはいなかった。Cカードの

習得はある程度までならプールのあるショップでもできたので、そ

れも、木下さんの息子が以前勤めていた都内のショップに通って、

後は現地での海洋実習を残すばかりで、当然、彼女は彼氏との再会

の日を楽しみにしていた。


                         (つづく)