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ハイデガー「存在と時間」上・下 (3)

2020-07-12 10:55:00 | 「ハイデガーへの回帰」

      ハイデガー著「存在と時間」上・下


          (3)

そもそもこの著書が大冊であるにもかかわらず未完に終わった理由は、

木田元によれば、「ハイデガーは、〈存在了解から存在の生起へ〉、も

っと正確に言えば、〈存在了解の歴史〉から〈存在生起の歴史〉へとそ

の考え方を変える。これが彼のいわゆる前期から後期への『思索の転回

(ケ―レ)』と言われる。この転回を、〈現存在が存在を規定する〉と考

える立場から、〈存在が現存在を規定する〉と考える立場への転回と言

うこともできるかもしれない。ただし、そのばあい、〈存在〉を実体化

して神のようなものと考えてはならない。」(木田元『ハイデガーの思

想』岩波新書)

 むむむ、さて、何を言ってるのかサッパリ解らん。要するに、続きを

出版する前に考えが変わってしまったのだ。ただ、ここで木田元は「〈

存在〉を実体化して神のようなものと考えてはならない」と、〈存在〉

についてのヒントをくれている。つまり、ここで言う〈存在〉とは実体

化すれば神のようなもののことなのだ。そこで我々は神を思い浮かべて、

そして実体化しないために神を殺して、〈神が死んだ〉(ニーチェ)後に

〈存在〉を据えれば、〈存在〉の姿がおぼろげながら把握できそうだ。

分かり易く言えば、〈存在〉からの視点とは、我々が神に代わって神の

視座から〈存在するもの〉(世界)を俯瞰することではないだろうか。そ

うした〈存在〉からの視点を設定することは現存在(人間)だけができる

ことで、たとえば動物たちは自分たちが依存する身の周りの環境から離

れて「存在とは何か」などと思ったりすることは決してない。つまり、

動物たちは神を求めない。こうしてハイデガーは、われわれ(現存在)が

日常生活(存在者)から離れて〈存在〉という視点から自分の生きている

環境を見直すことを〈超越〉と言い、現存在は〈環境世界〉を脱け出し

て〈世界〉へ〈超越〉する。そうして存在者を全体的に見ることができ

る〈存在〉とは〈現存在〉つまり人間のうちで起こる一つの働きであり、

その働きを〈存在了解〉と呼んでいる。〈存在了解〉とは人間(現存在)

に先験的に(アプリオリ)備わっている意識だが、それは「現存在が意識

的におこなう働きではないのだとすれば、」(同書)、つまり〈現存在が

存在を規定する〉のではなく〈存在が現存在を規定する〉とすれば、現

存在が〈存在〉の視点から世界を変えようとすることは、自身が本質存

在と事実存在に分れることになって自己撞着が生まれる。

                          (つづく)


ハイデガー「存在と時間」上・下(2)

2020-06-30 10:47:58 | 「ハイデガーへの回帰」

        ハイデガー著「存在と時間」上・下

 

              (2)

 ただ、それにしても難解だ。すでに上巻の半分、つまり四分の一くら

いまでは目を通したが、一度読んだだけではまったく頭に入って来ない。

しかも、上下巻合わせて1000ページを超える大冊にもかかわらず未

完だという。にもかかわらず爆発的に読まれた。そもそもハイデガーは

自著「存在と時間」を「現象学的存在論」、或は「存在の歴史の現象学

的解体」と呼んでいるが、現象学とは現存在(人間)の意識を問う認識論

であって「存在とは何か」を問う存在論とは異なる。木田元は「〈存在〉

というものがけっして存在者に属する何かではなく、人間において生起

する在る働きだということを原理的に解き明かし、その働きを体系的に

解明することが現象学の使命だと言っているのである。」(同上)と説くが、

しかし、 恥ずかしながら私はこの〈存在者〉と〈存在〉の違いがまった

く理解できなかった。〈存在者〉とは、たとえば机やその上に載っている

リンゴや、それら諸々の存在物のことを言うが、ところが〈存在〉とは、

それらすべての存在者をそのように存在者たらしめている〈存在〉のこ

とである、つまり「存在は存在者ではない」ということである。そして

〈存在とは何か〉とは一に人間だけが拘る問いである。ライプニッツと

いう哲学者は「なぜ何もないのではなく何かが存在するのか。」(ライプ

ニッツ『理性にもとづく自然と恩寵の原理』)と言い、この〈存在する〉

というのはどういうことなのかと問うている。たとえば「人間以外の動

物は、その時どきの生物学的環境に身を置き、それにうまく適応するこ

とによって生きている。」「しかし原理的には、その環境を離れること

は動物にとって死を意味する。動物にとっては与えられた環境がすべて

であり、それはそれしかありえないものなのである。動物のこうしたあ

り方を、マックス・シェーラーが〈環境呪縛性〉と呼んでいる。」(この

シェーラーは、ハイデガーと同じフッサール門下で兄弟子にあたる)「し

かし、人間だけはその時どきの環境に完全にとりこまれ縛りつけられる

ことなく、そこから少し身を引き離し、」「もっと広い〈世界〉に開か

れている。」ハイデガーは「人間のこうしたあり方を〈世界内存在〉と

いう奇妙な概念で捉えている。」そして、「いったい生物学的〈環境〉

と対比して、人間に特有の〈世界〉とは何であろうか。」と問い、「一

般に動物は、多少の幅はあるにしても狭い現在を生きることしかできず、

したがって、現に与えられている環境に閉じこめられることになる。そ

こには過去も未来もないのである。ところが、神経系の発達がある閾を

越えた人間は、記憶や予期の働きによって、過去や未来という次元を開

くことができる。もっと正確に言えば、現在のうちに、あるズレ、差異

化(デリダの言う〈差延[デイフェランス]〉)が起こり、そこに過去とか

未来とか呼ばれる次元が開かれてくる。そうした次元へ関わる関わり方

が記憶とか予期とか呼ばれるのである。そうすることによって人間は、

現に与えられている環境構造のうちに生きながらも、そこにかつて与え

られたことのある環境構造や、与えられうる可能な環境構造を重ね合わ

せ、それらをたがいに切り換え、相互表出の関係におき、そうすること

によって、それらさまざまな環境構造のすべてをおのれの局面(アスペク

ト)としてもちながらも、けっしてそのどれ一つにも還元されることのな

いような参照項Xを構成して、現に与えられている環境構造をそのXの

もちうる可能な一つの局面として受けとることができるようになる。」

 長い引用になりましたが、「」内はすべて木田元「ハイデガーの思想」

からの引用です。

                           (つづく)


ハイデガー著「存在と時間」上・下(1)

2020-06-29 16:06:37 | 「ハイデガーへの回帰」

      ハイデガー著「存在と時間」上・下

 

           (1)


 敬愛する木田元の「ハイデガーの思想」(岩波新書)を再読していると、

どうしてもハイデガーの著作「存在と時間」を読まずに居れなくなって、

ネットで買ってしまいました。それというのもハイデガーのこの著作は

第一次世界大戦後の1927年に刊行され瞬く間に西欧の思想界に多大

な衝撃を与え、その後の思想家たちも少なからず影響を受けました。も

しも今の時代が100年前の世界状況と似ているのであれば、おそらく

限界に達した世界を再認識しようとする渇望に苛まれるに違いありませ

ん。そもそも木田元が終戦後(昭和25年)の混乱した時代にそれまで籍

を置いていた農業専門学校をやめて東北大学の哲学科に再入学したのは

このハイデガーの「存在と時間」をどうしても読みたかったからだった

と述懐しています。そして、ハイデガーとは同い年(1889年生れ)の

哲学者ウィトゲンシュタインの著作『論理哲学論考』(1922年)の中

のことばから「私の言語の限界が世界の限界を意味する」を引用して、

「言語によって〈語られうるもの〉はすべて世界の限界内に、つまり世

界の内部に存在している、ということである。われわれは日常、この世

界の内部でこの〈語られうるもの〉、つまりは〈存在者〉とだけ関わり

あって暮らしており、それら存在者を在らしめている〈存在〉とか、そ

の場をなしている〈世界〉とかを意識することはない。」(木田元「ハイ

デガーの思想」) ところが、「これまで過ごしてきた自分の人生全体の

意味なり、何らかの作用連関によって連続的に経過してきたように思わ

れた歴史全体の意味なりが根本から問われるような場合、それが心理的

動機になって、日頃は意識されることのない〈存在〉とか〈世界〉とか

が突然意識されるようになる。そんなふうに、ある機会に、日常そこに

閉じこめられている言語の限界、世界の限界を突き破って、それを超え

出ようとする形而上学的衝動といったものがわれわれのうちにはあるの

だ――と、こういうことをウィトゲンシュタインは語ろうとしているの

である。そういうとき、『存在とは何か』といった、日常的経験のレベ

ルではほとんど無意味としか思われないような単純な問いが発せられ、

その問いに人生なり歴史なりの全体に対する根本的な態度決定が結集さ

れるのであろう。ハイデガーの思索の重要性も、こうした問いを徹底的

に問いぬこうとしたところにある。」(同上)

 つまり、われわれは改めて「存在とは何か」を問うことによって限界

に達した世界を見直して転換させようとするのだ。 

 ただ、それにしても難解だ。すでに上巻の半分、つまり四分の一くら

いまでは目を通したが、一度読んだだけではまったく頭に入って来ない。

しかも、上下巻合わせて1000ページを超える大冊にもかかわらず未

完だという。にもかかわらず爆発的に読まれた。そもそもハイデガーは

自著「存在と時間」を「現象学的存在論」、或は「存在の歴史の現象学

的解体」と考えているが、現象学とは現存在の意識を問う認識論であり

「存在とは何か」を問う存在論とは異なる。木田元は「〈存在〉という

ものがけっして存在者に属する何かではなく、人間において生起する在

る働きだということを原理的に解き明かし、その働きを体系的に解明す

ることが現象学の使命だと言っているのである。」(同上)と説くが、し

かし、 恥ずかしながら私はこの〈存在者〉と〈存在〉の違いがしばらく

理解できなかった。〈存在者〉とは、たとえば机やその上に載っている

リンゴや、それら諸々の存在物のことを言うが、ところが〈存在〉とは、

それらすべての存在者をそのように存在者たらしめている〈存在〉全体

をいう。ライプニッツという哲学者は、「なぜ何もないのではなく何か

が存在するのか。」(『理性にもとづく自然と恩寵の原理』)と言い、こ

の〈存在する〉というのはどういうことなのかと問うている。つまり「

存在は存在者ではない」ということである。

 

 

                           (つづく)