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ハイデガー「存在と時間」上・下(8)

2020-08-03 00:14:21 | 「ハイデガーへの回帰」

      ハイデガー「存在と時間」上・下

            (8)

 ハイデガーの思索の転回(ケ―レ)は、現存在による〈存在了解〉とい

う概念の捉え方が見直されたからで、「この概念には、それが現存在の

在り方と連動するものであり、したがって現存在がその在り方を変える

ことによって変えることのできるものだという合意がある。そのかぎり

では、前期のハイデガーは〈現存在が存在を規定する〉と考えていた、

と言ってもいいかもしれない。しかし、そこからあの自己撞着をはらん

だ企ても着想されたのである。」(木田元「ハイデガーの思想」)

 では、「あの自己撞着をはらんだ企て」とはいったい何のことなのか。

どうしても木田元の解説に頼るしかないのですが、「ハイデガーは人間

を本来性に立ちかえらせ、本来的時間性にもとづく新たな存在概念、お

そらくは〈存在=生成〉という存在概念を構成し、もう一度自然を生き

て生成するものと見るような自然観を復権することによって、明らかに

ゆきづまりにきている近代ヨーロッパの人間中心主義的文化をくつがえ

そうと企てていたのである。」(木田元「同書」)  私が驚いたのは、今か

らおよそ100年前に、すでにハイデガーは〈存在=現前性=被制作性〉

という存在概念によって構成された近代科学文明社会が「明らかにゆき

づまりにきている」と思ったことである。今でこそ「物質的・機械論的

自然観と人間中心主義的文化」(同書)から産まれた科学技術は、温室効

果ガスによる異常気象や環境破壊によって、明らかにゆきづまりにきて

いると断言することができるが、様々な近代科学技術が生れた黎明期に

すでにそのゆきづまりを予言していたことに驚いた。それでは、ハイデ

ガーはどのような世界を企てようとしていたのだろうか?それは「人間

を本来性に立ちかえらせ、本来的時間性にもとづく新たな存在概念、お

そらくは〈存在=生成〉という存在概念を構成し、もう一度自然を生き

て生成するものと見るような自然観を復権すること」である。つまり、

「自然に帰れ!」と言うのだ。

 そもそも西欧形而上学(メタ・ピュシカ)とは存在の本質を問う学問で

あり、それはギリシャのプラトン/アリストテレスによって思索の端緒

が開かれた。しかし存在の本質を問う限り、存在は本質存在と事実存在

に区分され、プラトンは本質存在こそが永遠不変の真の存在であるとし

てその世界を「イデア」と呼んだ。そして生成消滅を繰り返す事実存在

は仮象の世界としてイデアの世界を模して作られ、この世界の被制作性、

つまり自然とはイデアに模して世界を作り変えることができる無機的な

質料でしかないと考えた。これは今日まで人間中心主義的文化の下で自

然を単なる無機的質料と見る物質的な自然観に引き継がれ近代科学文明

社会の発展がもたらされた。では、そもそもソクラテス(プラトン/アリ

ストテレス)以前の思想家たちは、いったい〈存在〉をどう考えていたの

だろうか?ハイデガーは、

「ピュシュス(自然)とはギリシャ人にとって存在者そのものと存在者の

全体を名指す最初の本質的な名称である。ギリシャ人にとって存在者と

は、おのずから無為にして萌えあがり現われきたり、そしておのれへと

帰還し消え去ってゆくものであり、萌えあがり現われきたっておのれへ

帰還してゆきながら場を占めているものなのである。」(『ニーチェ』)

それは〈存在=生成=自然〉としての、形而上学的思考によって忘れ去

られた始原の存在概念であり、ハイデガーの企てとは〈存在=生成〉と

いう存在概念によって「もう一度自然を生きて生成するものと見るよう

な自然観を復権することによって、明らかにゆきづまりにきている近代

ヨーロッパの人間中心主義的文化をくつがえそうと企てていたのである。

」                

                           (つづく)

 


ハイデガー「存在と時間」上・下(7)―改稿

2020-08-02 22:09:41 | 「ハイデガーへの回帰」

       ハイデガー「存在と時間」上・下

            (7)―改稿

 ハイデガーは、「存在と時間」の上巻を刊行した後、「現存在が存

在を規定する」という存在概念から「存在が現存在を規定する」へと

思索を転回(ケ―レ)させて、続稿(すでに書き上がっていた)である下巻

の刊行を断念した。分りやすく言えば、「人間が世界を規定する」と

いう考えから「世界が人間を規定する」へと考えを改めたということ

だが、そもそも人間とはいずれ死んで居なくなる〈生成としての存在

者〉にほかならないが、つまり「世界が人間を規定する」のであるが、

ところが我々の理性は、世界(自然)を被制作性とする存在概念によって

作り変えようとする。それは、我々の理性による形而上学的思惟からも

たらされた存在概念が、存在を本質存在と事実存在に二分して、事実存

在としての生成の世界は絶対不変の真の世界ではなく、仮象の世界でし

かないということから、仮象の世界の事実存在である自然は人間がイデ

アの形相(エイドス)を模倣して制作するための単なる材料として扱われ

る。それは「人間が世界を規定する」ことにほかならないが、いま、正

にわれわれは生成の世界に身を預けながら、世界を被制作性として扱う

ことの矛盾に気付かされ始めている。つまり、われわれが制作した世界

は生成としての自然を追い遣り、〈生成としての存在〉であるわれわれ

自身の存在を脅かし始めている。これは明らかに「世界が人間を規定す

る」ことにほかならない。ところで、百年前のハイデガーはいまの科学

技術文明と自然との対立を予測していたかどうかは知らないが、「存在

とは〈生成〉である」とそれまでの「もっとも中心的な概念である、」

(木田元「同書」)〈存在了解〉ないし〈存在企投〉という考え方を転回

(ケ―レ)させた。ハイデガーは「現存在が存在を了解するときにのみ、

存在はある」と言い、〈存在〉という概念は人間が思い巡らす時にだけ

ある(存在する)。こうして初期のハイデガーは〈存在了解〉は人間によ

って規定されると考えたが、つまり「人間が存在を規定する」と考えた

が、木田元によれば、「存在という視点の設定という出来事は、たしか

に現存在のもとで起こるにはちがいないが、けっして現存在がおこなっ

ているわけではなく、むしろその時どきの〈存在の生起〉の仕方によっ

て、現存在のあり方が規定されると、考えるようになるのである。そう

なれば、人間がおのれの生き方を変えることによって存在の意味を変え

ることなどできるわけはなく、むしろ存在という視点が設定されるその

つどの仕方に応じて、人間のあり方が変えられるということになる。」

それは、「存在が現存在を規定する」ことにほかならない。

 

                         (つづく)


ハイデガー「存在と時間」上・下 (6)

2020-07-28 02:50:19 | 「ハイデガーへの回帰」

      ハイデガー著「存在と時間」上・下

              (6)

 そもそも人間は、いや、この世界で命を得て存在するすべてのも

のはいずれ死ぬと存在しなくなる。いずれ存在しなくなる存在者を

果たして本当の存在者と言えるのだろうか?つまり、いずれ存在し

なくなる存在者とはいったい何であるのか?ところで「何であるか

?」を問うことは存在の本質を問うことにほかならない。存在の本

質を問うということは、不変の真理である本質存在と、いずれ存在

しなくなる事実存在に二分され、いずれ存在しなくなる事実存在と

は真の存在ではなく仮象の存在でしかなく、そして絶対不変の真理

としての本質存在こそが真の存在、つまり〈イデア〉の世界の存在

である、とプラトン/アリストテレスは考えた。そして、「イデア

としての存在こそがいまや真に存在するものへと格上げされ、以前

支配的であった存在者そのもの(つまり自然[ピュシス])は、プラトン

が非存在者と呼ぶものに零落してしまうのである」(ハイデガー)  移

り変わる自然もまた絶対不変の真の存在ではなく、いずれ存在しな

くなる存在者は「非存在者」として、それらは〈存在=被制作性〉

としての存在概念によって規定され、混沌の中から〈イデア=真の

世界〉を模倣して形作られた。このプラトン/アリストテレスによ

ってもたらされた存在概念は、以来、中世スコラ哲学では世界は神

によって創られたと信じられ、また近代では自然を制作のための単

なる材料として扱われ、ついぞ自然を生きて生成するものとして見

るような視点は失われた。

 それでは、プラトン/アリストテレス以前の思想家たちは〈存在〉

についていったいどういう風に考えていたのだろうか。彼らはドイ

ツ語読みで「フォアゾクラティカー」(vorsokratiker)と呼ばれ、意味

は「ソクラテス以前の思想家たち」で、人物を挙げればアナクシマン

ドロスやヘラクレイトス、パルメニデスといった人々だが、彼らは一

様に『ピュシス(自然)について』という同じ表題で本を書いたという

伝承があるらしい。あえて「ソクラテス以前の思想家たち」と分け隔

てるのは「何であるか?」を問うソクラテス、プラトンと同時代の人

々とは異なった思想を語っていたからである。これまで何度も記述し

てきたように、そもそも形而上学(メタ-ピュシス)とは、自然(ピュシス)

を越えた(メタ)学問のことで、それは「何であるか?」を問うが、存

在者の存在を問うことは存在者を本質存在と事実存在に二分すること

になり、不変の真理である本質存在は〈イデア〉の世界へ、変遷流転

する事実存在は〈仮象〉の世界でしかない。ハイデガーは、「存在が

区別されて本質存在と事実存在になる。この区別の遂行とその準備と

ともに、形而上学としての存在の歴史が始まるのである。」と、形而

上学の下では本質存在の事実存在への優位は揺るがない。しかし、「

ソクラテス以前の思想家たち」、つまり〈形而上学〉(メタ-ピュシス)

以前の思想家たちは〈ピュシス〉(自然)全体のことは思索したが、存

在者を本質存在と事実存在に分けて存在の意味を問うことは決してし

なかった。ハイデガーに言わせると、「存在者が存在のうちに集めら

れているということ、存在の輝きのうちに存在者が現われ出ていると

いうこと、まさしくこのことがギリシャ人を驚かせた」のであり、こ

の驚きこそがギリシャ人を思索に駆り立てたのだが、当初その思索は、

おのれのうちで生起している〈存在〉という視点の設定というその出

来事にひたすら畏敬し、それに調和し随順するということでしかなか

ったのである。ハイデガーは、このようにして開始された思索、つま

りソクラテス以前の思想家たちのあの自然(ピュシス)的思索を「偉大な

る始まりの開始」と呼んだ。

 そもそも哲学(フィロソフィー philosophy)の語源であるギリシャ語の

フィロソフィア(philosophia)は、『「愛」を意味する名詞「フィロス」

の動詞形「フィレイン」と、「知」を意味する「ソフィア」が結び合わ

さったものであり、その合成語である「フィロソフィア」は「智を愛す

る」という意味が込められている。』(ウィキペディア「哲学」より一部

抜粋)「存在に随順し、それと調和し、そこに包まれて生きていることと、

この存在をことさらに〈それは何であるか〉と問うことは、まったく別

のことなのである。そのように問うとき、すでに始原のあの調和は破れ、

問う者はもはや始原の存在のうちに包みこまれたままでいることはでき

ない。こうして、〈叡智〉(ト・ソフォン)との調和がそれへの〈欲求〉(

オレクシス)、それへの〈愛〉(エロ―ス)に変わり、〈叡智を愛すること〉

(フィレイン・ト・ソフォン) が〈愛知=哲学〉(フィロソフィア)に変わっ

てしまう。」(同書) そして「ハイデガーは、このプラトンとアリストテ

レスの〈哲学〉を、ギリシャ的思索という『偉大な始まりの終焉』と見

る。」(同書)


                          (つづく)


ハイデガー「存在と時間」上・下(5)

2020-07-24 14:22:43 | 「ハイデガーへの回帰」

         ハイデガー著「存在と時間」上・下 


             (5)

 ハイデガーは「存在と時間」の続編を出版する前に、本人自らが後

に言及しているが、考え方が「転回(ケ―レ)」して刊行を見送った。

これは以前にも記しましたが、ハイデガー哲学の第一人者木田元によ

れば、

「〈存在了解から存在の生起へ〉、もっと正確に言えば、〈存在了解

の歴史〉から〈存在生起の歴史〉へとその考え方を変える。これが彼

のいわゆる前期から後期への『思索の転回(ケ―レ)』と言われる。この

転回を、〈現存在が存在を規定する〉と考える立場から、〈存在が現存

在を規定する〉と考える立場への転回と言うこともできるかもしれない。」

(木田元著『ハイデガーの思想』)

 つまり〈存在了解〉という概念が躓きの原因だと言うのだ。そして、

「この概念には、それが現存在の在り方と連動するものであり、したが

って現存在がその在り方を変えることによって変えることのできるもの

だという合意がある。そのかぎりでは、前期のハイデガーは〈現存在が

存在を規定する〉と考えていた、といってもよいかもしれない。」(同書)

 それでは、前期のハイデガーが「現存在がその在り方を変えることに

よって変えることのできる」世界とはいったいどのようなものだったの

だろうか?

「ハイデガーは人間を本来性に立ちかえらせ、本来的時間性にもとづく

新たな存在概念、おそらくは〈存在=生成〉という存在概念を構成し、

もう一度自然を生きて生成するものと見るような自然観を復権すること

によって明らかにゆきづまりにきている近代ヨーロッパの人間中心主義

的文化をくつがえそうと企てていたのである。」(同書)

 ここで分りづらいのは「本来的時間性」という記述ですが、これこそ

はハイデガーが自著「存在と時間」の中で主張する主要なテーマなので

すが、木田元はそれを分りやすく説明してくれている。

「現存在がおのれ自身の死という、もはやその先にはいかなる可能性も

残されていない究極の可能性にまで先駆けてそれに覚悟をさだめ、その

上でおのれの過去を引き受けなおし、現在の状況を生きるといったよう

なぐあいにおのれを時間化するのが本来的時間性であり、それに対して

おのれの死から目をそらし、不定の可能性と漠然と関わりあうようなあ

り方が非本来的時間性だということになる。」(同書)そしてハイデガー

は、「現存在の存在とは時間性である」とまで主張する。ここで明らか

なことは、「明らかにゆきづまりにきている近代ヨーロッパの人間中心

主義的文化」とは非本来的時間性の下で営まれているということであり、

それは〈存在=生成〉にはそぐわない存在概念〈存在=被制作性〉であ

り固定化した存在概念である。

 ところでハイデガーは、自然を〈存在=現前性=被制作性〉と捉える

アリストテレス以来の伝統的存在概念は「非本来的な時間性」の下で行

われる存在了解に由来すると考えた。そして、

「この視点から見られるとき、存在者の全体は、したがって自然もまた、

〈作られたもの〉〈なお作られうるもの〉として見えてくる。つまり、

自然は制作のための単なる〈材料・資料〉(ヒュレー)と見られるのであ

る。ギリシャ語のこの〈ヒュレ―〉がラテン語では〈materia〉

(マテリア)と訳され、これが英語の〈material〉に引き継がれ

る。いわゆる物質的な自然観、自然を制作のための死せる資料と見る自

然観はこの視点の下に成立したのであり、その上に立って近代の機械論

的自然観も成り立ちえた。こうした自然観を基盤に近代ヨーロッパの文

化形成がおこなわれてきたことは明らかである。このような自然観は、

当然のこととして制作のための技術知の担い手である人間を世界の中心

に据える人間中心主義と、顕在的潜在的に連動している。してみれば、

近代ヨーロッパにおける物質的・機械論的自然観と人間中心主義的文化

形成の根源は、遠くギリシャ古典時代に端を発する〈存在=現前性=被

制作性〉という存在概念にあると見るべきだ――とハイデガーはこう考

えていたのである。」(同書)

 もはやこれは明らかに近代科学文明社会の否定であり、ヒューマニズ

ム(人間中心主義)の否定以外の何ものでもない。それにしても今からほ

ぼ100年も前に、「明らかにゆきづまりにきている近代ヨーロッパの

人間中心主義的文化」などと言われると、そのころの日本は欧米列強に

追い着かんと一等国への仲間入りを目指してひたすら近代化を急いでい

た頃で、しかし、すでに彼らは近代科学文明社会の限界を予感していた

ことに隔絶の感を禁じ得ない。それと言うのも、〈存在=生成〉と捉え

る存在概念からもたらされる世界とは「もう一度自然を生きて生成する

ものと見るような自然観を復権すること」、つまり自然回帰であり、そ

れは今まさに問題になっている地球環境の持続可能性 (sustainability) の

崩壊によって「ゆきづまりにきている」近代科学文明社会の転回が求め

られているからである。

                         (つづく)


  ハイデガー「存在と時間」上・下(4)

2020-07-17 08:07:36 | 「ハイデガーへの回帰」

                ハイデガー著「存在と時間」上・下

 

             (4)

 われわれが「存在とは何か?」と問うときに、そもそも「存在

(ある)とは存在者(あるもの)ではない」ということらしい。ここで

も形而上学思惟がもたらす本質存在と事実存在の二元論がみられ

る。そして、それは「現存在が存在を了解するときにのみ、存在

はある」(ハイデガー)。現存在とは人間のことであるから、人間が

現実(存在者)を離れて(超越して)〈存在了解〉するときにのみ〈存

在〉はある、ということになる。それでは〈存在了解〉とは何か?

「〈存在〉とは現存在によって投射され設定される一つの視点のよ

うなものであり、現存在がみずから設定したその視点に身を置くと

き、その視界に現れてくるすべてのものが〈存在者〉として見えて

くる、ということである。」(木田元『ハイデガーの思想』)

 しかし、〈存在了解〉によって存在者(世界)全体が見えたとしても、

一個の存在者である人間が〈存在〉の視点から存在者全体を変えるこ

とは、つまり、「人間中心主義的文化の転覆を人間が主導権をとって

おこなうというのは、明らかに自己撞着であろう。」(同書)

というのだ。

 これと似たような思いを私自身も味わったことがある。都市生活(人

間中心主義的文化)を棄てて自然の中で暮らすことに憧れたが、しかし

都市生活者がかりに「自給自足」によって生活するにしても、まずそ

こそこの現金、たぶん初期費用だけでも1000万円以上がなければ

生活できないことが分った。それは生活費を稼ぐために農機具などの

設備投資で忽ち消えてしまうが、かと言って収穫が補償される訳でも

ない。昨今のように異常気象の下では収入なしのことだって起こり得

る。そして何よりも、地方で暮らす人々もすでに近代化に呑み込まれ

ていて、否、地方こそが近代化を渇望していて、たぶん自然回帰への

思いは都市生活者の方が強いに違いない。分かり易く言えば、都会の

者は車に依存しなくても暮らせると思っているかもしれないが、地方

では何処へ行くにも車に依存しなければ暮らせない。すでに人間中心

主義的文化、つまり近代科学文明社会は、もはや後戻りすることがで

きないほど世界中を毒しているのだ。もはや自然の中でののんびりし

た暮らしは、所詮は都市経済に依存しなければ一時たりとものんびり

とは暮らせないのだ。こうして、「人間中心主義的文化の転覆を人間

が主導権をとっておこな」おうとすれば、まず人間中心主義的文化(近

代科学文明社会)に頼らざるを得ないという自己矛盾に気付かされる。

 ハイデガーは「存在と時間」の続編を出版する前に、本人自らが後に

言及したのだが、考え方が「転(ケ―レ)」して刊行を見送った。これは

以前にも記しましたが、ハイデガー哲学の第一人者木田元によれば、

「〈存在了解から存在の生起へ〉、もっと正確に言えば、〈存在了解の

歴史〉から〈存在生起の歴史〉へとその考え方を変える。これが彼のい

わゆる前期から後期への『思索の転回(ケ―レ)』と言われる。この転回

を、〈現存在が存在を規定する〉と考える立場から、〈存在が現存在を

規定する〉と考える立場への転回と言うこともできるかもしれない。」

 つまり〈存在了解〉という概念が躓きの原因だと言うのだ。さらに、

「この概念には、それが現存在の在り方と連動するものであり、したが

って現存在がその在り方を変えることによって変えることのできるもの

だという合意がある。そのかぎりでは、前期のハイデガーは〈現存在が

存在を規定する〉と考えていた、といってもよいかもしれない。」 

                          (つづく)