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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

浜崎あゆみ/appears

2006年03月10日 00時03分37秒 | JAPANESE POP
 浜崎あゆみという人は、とても毀誉褒貶の激しい人で、某巨大掲示板での叩かれようは本人が読んだら、奈落の底に落ちていってしまうのではないか、と思うほどひどいものがあるのだけれど、それもひとつの人気のバロメータには違いないだろうと思う。ともあれ98年のデビュウ以来、早いものでもう8年、依然として「商品としての浜崎あゆみ」の鮮度を維持しているのは頭を下げる他はない。ただ、現在の浜崎は「日本製マドンナ」として、奇矯な派手さをひたすら拡大再生産する完全なエンターテイメント路線になってしまっていて、私みたいにデビュウ当初のちょっと巫女みたいな神秘的なムードに惹かれたファンとしては、現在のケバにはちょいとついていけないところもあるのだが....。

 このディスクは99年発表のセカンド・アルバム「LOVEppears」とほぼ同時に発表されたミニ・アルバムで、アルバムの方の通称が「白アユ」に対し、こちらは限定発売の「黒アユ」として有名だったものだ(私は当時同じ職場に居た女性から安く譲り受けた-笑)。収録曲はなんと12曲で、内容的には「appears」の別リミックス6曲をフィーチャーしている。このアルバムは一応、シングルみたいな位置づけもあったと思うのだが、オリジナルに比較的に近い1曲目から、曲が進むにつれどんどん原曲から離れたハードコア・テクノ色の強いダンス風なリミックスに変わっていくあたりの刹那的ブチギレ度とヴォリューム感は圧倒的で、当時の浜崎....というかエイベックスの怖いモノなしの勢いが伝わってきて、今聴いてもかなり新鮮だ。これを一通り聴いて、オリジナル・ヴァージョンを聴くと、当初刹那的に聴こえたはずの「appears」にせよ、「immature」にしても、ごくごくまっとうな正統派ポップスに聴こえてしまうほどだから....。

 それにしても、浜崎あゆみってこれまで一体何枚のディスクを出しているんだろうか。私もはじめの何年かは追いかけていたものだが、あまりに別リミックスや編集物を多発するのに辟易して購入するのはオリジナル・アルバムくらいになってしまった。前述のとおり最近はほぼ日本製マドンナになっていくにつれ、興味もそれなりになってしまったけれど、そのあたりも含めてやはり、「LOVEppears」の頃が一番印象深い。曲としても、この「黒アユ」があったからという訳でもないが、「appears」が一番好きだ。この曲でそこらに沢山いるなにげないカップルの光景から、ちょっと切ないドラマを切り取っていく歌詞の出来といい、切迫感と疾走感が交錯する曲調といい、お世辞でもひいき目でもなんでもなく、素晴らしい仕上がりだったと思うだが....。
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ブラームス ピアノ協奏曲第1番/アラウ,ハイティンク&ACO

2006年03月09日 20時11分26秒 | ブラームス
 クラウディオ・アラウという人もあまり聴いたことがない人ですが、年齢的にはゼルキンやルビンシュタイン、あとホロビッツあたりと共通する古(いにしえ)の世代です。私がクラシックに耽溺していた80年代というと、これらの人はほとんど老境に達してレコーディングなども一線から退きつつあった時期にあたりますが、アラウはきっと衰えがなかったんでしょう。幅広いレパートリーを精力的に録音して、新作が目白押しの現役バリバリな活躍をしていました。この演奏はそんな彼が1969年にハイティンクの指揮するアムスと組んで録音した演奏

 さて、この演奏、レーベルがフィリップスでオケがアムス、録音が69年ということでオケの音色や感触は案の定、先にとりあげたブレンデルとイッセルシュテットの演奏に酷似しています。楚々と鳴り響くエレガントなサウンドはいかにもアムステルダム・コンセルトヘボウの音、ただ、響きがよりふっくらとして、全体に流れるように感じるのは、指揮がハイティンクなせいかもしれません。ともあれ、この落ち着いた響きはいかにも私のイメージするブラームスにぴったりで、聴いてきて心地よいことこの上ないという感じです。
 アラウのピアノですが、オケに寄り添うようピアノを演奏していたブレンデルと比べると、アラウはそれはかなりピアニスティックな響きが濃厚です。良い意味で時代がかったグランドスタイルみたいなものを感じさせるといったらいいか。第1楽章の展開部に入るところで登場するフレーズを、豊かな低音を伴いつつも、カキーンという音色ととも豪快に響き渡らせるあたりはその好例。とにかくこの人、そもそもテンポ自体もかなり遅いですが、ロック風にいうとやや「後ノリ」なリズムでもって、ピアノを弾いているところに特徴がありそうで(その意味ではホロヴィッツとは対照的)、そのあたりからいかにもドイツ流の巨匠というスケール感を感じさせるようです。

 そんな訳で、この演奏これまで聴いたものの中では珍しくピアノが主導し、ひっぱっているという感じですかね。これまでだとブレンデルのはオケ主導、レビンシュタインとレヒナーがほどよく調和、逆に両者がせめぎ合って闘争的な演奏をしているという点ではゼルキンという感じでしたから(あくまでも私が受けた印象なので、人によっては全く逆の印象の場合もあろうかと思います)、この曲を「ピアノ付の交響曲」として聴きたい私としては、ちょいと異色な感じがしないでもないです。まぁ、一聴した印象なので、聴き込んでいくとがらりとかわる可能性もあますが....。 
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艾敬(アイ・ジン)/我的一九九七

2006年03月09日 17時34分37秒 | 台湾のあれこれ
 艾敬(アイ・ジン)は90年代の後半にデビュウした中国のシンガー・ソング・ライターです。日本ではソニーがかなり強力にプッシュして売り出されたので覚えている人も多いと思います。なにしろけっこうな美人さんだったし、音楽的にも過剰な情報量を排したフォーク風なものでしたから、中国産エキゾシズムみたいなものも絡めて、ある種隙間産業をソニーは狙っていたのかもしれません。当時の私はエイジアン・ポップスに興味を感じ初めていた時期で、アジア各国のポップスに手をのばしているところでしたから、彼女の作品ももちろんほどなくそのターゲットに入ってきたという訳なんですね。

 このデビュウ作では「我的一九九七」というやや政治的主張も織り込んだフォーク風な作品をメインに、アコスティック・フォーク、あるいはフォーク・ロック風な作品を集めています。艾敬のヴォーカルは意志の強さとちょいと儚げなところが微妙に入り交じった不思議な存在感はなかなかのものでしたし、商業的配慮とは無縁な地点で音楽が作り上げられたことがよく分かる辛口な曲調なものもとても新鮮で、「おぉ、こりゃ大物になるな」と私は四作目まで追いかけてみましたが、正直いってこの一作目が一番印象深く、以降は同じ視点、同じ感情、同じ語り口の繰り返しになってしまい、結局の大輪の華として成長しなかったという感じがしないでもないです。っていうか、個人的にはいつかモノになると思って、一生懸命女の子を追いかけていたけれど、あんまり愛想がないのでしまいに、こっちが飽きてしまったというところかもしれません。ちょっと孤高すぎたというか....。

 ともあれ、彼女の作品って、88年の4作目を最後に日本ではもう発売されなくなってしまい、ほぼ完全に忘れ去られているようですが、ネットで調べてみたところ、現在でも元気に活動を続けているようです。あれから8年、彼女はどんな音楽をやっているんでしょうかね?。それにしても、彼女のデビュウって台中感情がバラ色だった1990年代だったから可能だったのかもしれません。対日vs対中感情がなにかと取りざたされる昨今では、音楽と政治は無関係などというは易しだけど、こうした中国人アーティストの親日的感情を前提としたような内容は、現在ではアーティストそのものがしたがらないだろうし、やったとしても日本人には釈然としないものを感じるんじゃないのかな。
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ブラームス ピアノ協奏曲第1番/ルビンシュタイン,メータト&イスラエルPO

2006年03月08日 23時29分35秒 | ブラームス
 昨日購入してきたものの一枚。メータとイスラエル・ファルを従えたルビンシュタイン引退記念の録音とのことです(76年)。当時の彼は89歳だった訳ですが、それを当時中堅のトップスターで、はつらつとしていた頃のメータがバック・アップするという組み合わせがおもしろいところです。しかし凄いよなぁ、もちろん複数のセッションから作り上げたものだろうけど、89歳でこのピアノですからねぇ....。ジャズの方だと、ハンク・ジョーンズが現在88歳で活躍中ですけど、「老いて、なお矍鑠(かくしゃく)」の典型的な例といえましょうか(私は昨日から風邪弾いてダウン気味ですが-笑)。

 私はルビンシュタインの演奏って、これで初めて接するようなものですが、世界を股にかけた華麗なる名技性みたいなイメージからすると、この演奏は正直やや地味かなとも思わないでもないのです。なにしろ昨日レヒナーみたいな淀みない推進力に裏打ちされた今時の演奏聴いたばかりですから、第1楽章の展開部に入るあたりの覇気にみちたピアニスティックなフレーズや第3楽章の主要主題など、なにしろこの曲の持ち味である「若気の至り的なごりごり感」が、少々足りないような気もするんですね。
 したがって、演奏から受ける印象としては、老境の英雄が自らの過去を振り返っているような、一種、ラプソディックといってもいいような雰囲気を感じました。だからこの演奏の美点といえば、第1楽章の第2主題に後半に出てくる厳かな旋律だとか、第2楽章の歌い回しのなんともいえない滋味あたりにあるんじゃないと思います。まぁ、こういう印象を持つのは少なからず録音データから来るこちらの先入観みたいなものもあると思うのですが.....。ともあれ、そうなると、これよりもう少し遡った50年代後半にライナーと組んだ録音だとどうだったんだろう?興味を感じてきました。

 メータとイスラエル・フィルはごくごく優等生的なバランスで、可もなく不可もなしといった感じですかね。メータみたいな豪華で派手なオーケストレーションを縦横に仕切っていくあたりに能力を発揮する指揮者だと、この曲はちょいと荷が軽すぎるというか、一応ブラームスらしい重量感はありますが、この作品特有の渋いくどさみたいなものはさらっと流してしまっている感じ。
 ちなみに録音はいかにも往年のデッカらしいもので、弾力的な低音をベースに、客席というよりオケのど真ん中で聴いてるような(そんなポジションで聴いたことないですが-笑)、各楽器群の輪郭が精細に描き分けられたオン・マイクな音です。
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RETURN TO FOREVER / Music Magic

2006年03月07日 00時40分30秒 | JAZZ-Fusion
 77年のRTFの最終作(ライブは除く)ですが、これはCBSとの契約上、名義としてRTFを名乗っただけで、基本的には「妖精」、「マイ・スパニッシュ・ハート」に続く、チックのソロ作と考えるべきでしょう。参加メンバーは前作と共通するのはスタンリー・クラークのみ。一応、ジョー・ファレルが復帰していますが、明らかにセッション・ミュージシャンのノリ、ドラムスはゲーリー・ブラウンが新加入、「妖精」のラインでヴォーカルにゲイル・モランが参加してます。後・ブラス・セクションがフィーチャーされるという具合。

 音楽的には、RTF的な音楽主義的なところはかなり後退して、「妖精」でもフィーチャーされたゲイル・モランがより一層露出していますし、ブラスセクションの使い方もかなりポップで、時にリラックスしたAOR&フュージョン的な音楽に急速にじり寄っています。ある意味「フレンズ」風なフュージョン・サウンドへの伏線みたいな趣で捉えると良いのかもしれませんが、この手のフュージョン・サウンドがポップになろうとした時にありがちな陥穽かもしれませんが、ヴォーカルを入れたポップスさとインストゥメンタルが巧く噛み合っていないようなうらみもあります。まぁ、これはこれである種のファンタジックなテーマがあって、それをコンセプト・アルバムとして表現しているのもしれませんが、ちょいとばかりポップ・センスみたいなところに絡め取られてしまっているのが弱点かもしれません。

 そんな訳でRTFとして聴いても、はたまたチックのソロ作として接しても、どうも過渡期という感を免れない作品です。インストゥメンタル・バンドとして聴いた場合、スタンリー・クラークの作った2曲が一番良くで、チック自身の作品についてはいつも溌剌とした奔放さが不発気味では(大作である3,6曲目ではあたり、正直いってヴォーカルがインストのジャマしているとしか思えない)、ちょっと話にならないかな....なんて不遜な印象をもってしまいましたが、ちまたでのこのアルバムは評価は一体どんなものなんでしょうね?。
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ブラームス ピアノ協奏曲第1番/レヒナー,マルトゥレット&Berliner Symphoniker

2006年03月06日 23時24分33秒 | ブラームス
 昨日一気に開眼?したブラームスのピアノ協奏曲第一番ですが、こうなるとうれしくて、さっき買い物ついでにこの曲のCDを数枚購入してきましたが、これもその一枚というかワン・セットです。レーベルは最近注目のブリリアントで、ブラームスが作った全ての協奏曲(計5曲)をCD3枚に収録されていますが、ドッベル・コンチェルトのシュタルケル以外は全く無名の人、オケばかりです。こういう有名曲の場合、匿名性の高い無名のアーティストは敬遠したくなるもんですが、まぁ、1500円だし....とハズレ覚悟で購入してきました。

 さて、お目当てのピアノ協奏曲第一番ですが、カーリン・レヒナーのピアノ、エドゥワルト・マルトゥレット指揮のベルリン響という前述の通り、全く無名なアーティストの組み合わせで、録音は不明ですが、この鮮度からして10年以内くらいのかなり新しい録音でしょう。演奏は意外にもかなり良いもので充分楽しめました。この曲の演奏にだけ1500円出したって惜しくないくらいです。まず、冒頭のオケの響きからして、ドイツのオケという重量感がものをいっているのか、いかもブラームス的な響きがありますし、その後の主題を遅めのテンポでじっくりと提示しているのもいいです。ピアノのカーリン・レヒナーはなんと女流、現在40歳前半らしいですから、この演奏の時はおそらく30歳くらいでしょうか、この曲の疾風怒濤な情念みたいものはそれほどでもありませんが、弾力感があり安定したタッチはブラームスに合っていますし、随所に披露するカラフルでクリーンな音色は(特に第3楽章は出色)、おそらくこの人の個性であると同時に今時のブラームスというものを感じさせます。ともあれ、この巨大な協奏曲を臆することなく、実に堂々と弾ききっているのは立派というしかありません。

 という訳で、けっこう拾い物の感があった演奏ですね。レヒナーは母国のアルゼンチンではけっこうなスターみたいですし、このブラームスも本国ではかなり定評のある演奏との評価受けているのかもしれませんね(ブリリアントがライセンス欲しがるほどですから)。
 あと、録音が新しいというのもポイント高いです。なにしろブラームスといえば70年代以前の録音ばかり聴いてましたから、こういう澄み切った、オケの奥行きがそくっり見通せるような明るいデジタル録音の質感で聴くブラームスというのは、それだけでも新鮮でした....。

 ※ ちなみに写真はオリジナル・ジャケットです。ブリリアントのジャケは絵画のあしらわれた冴えないデザインだったので、こっちをアップしときました。
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AKIKO GRACE /フロム・ニューヨーク

2006年03月06日 00時49分25秒 | JAZZ-Piano Trio
 ジャケ買いです、黒髪のお嬢様みたいな、どちらかといえば、クラシックのピアニストみたいな風情に惹かれて購入してきました。とはいっても購入したのは、もう2,3年前のことになりますが....、さっきふと思い立って、久しぶりに聴いているところです。初めて聴いた時の印象を、私はあんまりよく覚えていないのですが、きっとその時は、「今時の秀才らしくテクニックや音楽的素養は申し分なけれど、今ひとつインパクトに欠ける」とでも思ったんでしょうね。これって、私の買ったはいいが、長らく放置しておく典型的パターンですから。

 さて、改めて聴くと、この人キース・ジャレットの影響がかなり強いという感じがしました。具体的にはごく初期のスタンダーズあたりに共通する、ちょっとメランコリックで思索的ムードでもってソロを紡いでいくあたりはかなり近いものがあると思います。このアルバムにはスタンダード・ナンバーもやっていますが、過半数はオリジナル曲で、それらの作品ではよりキース・ジャレット風というか、ECM的な温度感の音楽になっていますから、その意味ではティエリー・ラングとかトルド・グスタフセンなんかのスタンスに近い線で音楽をやっているような気もします。一方、情報過多な日本人らしく、2,8曲目ではチック・コリア的にスポーティーで敏捷なフレーズを多用したりしてバーサタイルさも発揮しています。

 そんな訳で、決して悪くないのですが、やっぱり「いまひとつこの人の独自の音楽的自我が見えない」というのか正直なところ。ECM風にいくならもうちょっと耽美的、陶酔的であって欲しいし、王道ジャズで攻めていくには音楽がモノトーンみたいな気がするんですね。なんでも、彼女は最近オスロで録音したとかいうもろECM風なアルバム出したようですが、そっちの方はどうなんだろう。
 ちなみにこのアルバム、ベースはロン・カーター、ドラムスは私の大好きなビル・スチュアートなんですが、こういう音楽だとスチュアートのドラムスってけっこうデジョネットっぽい(特にシンバル)のがおもしろかったです。
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ブラームス ピアノ協奏曲第1番/ブレンデル,イッセルシュテット&ACO

2006年03月05日 22時43分48秒 | ブラームス
 ゼルキンのブラームスのピアノ協奏曲第1番を聴いたら、なんだかギレリスとヨッフムの演奏を聴きたくなったのですが、これは手許にないので、他に何かないかとあれこれ探してみたところ、こんなのが出てきました。ビアノはアレフレッド・ブレンデルで(偶然にも「ディアベリ変奏曲」の聴き比べと同じ組み合わせ)、ハンス・シュミット・イッセルシュテット指揮のアムステルダム・コンセルトヘボウという布陣による73年の録音です。

 さて、ゼルキンのブラームスがセルの振るクリーブランドもろとも、非常に男性的で剛直な響きを中心に据えた、ある意味辛口な演奏だったとすると、こちらはアムステルダム・コンセルトヘボウという、芳醇でエレガントな響きを持つオーケストラの音色を堪能させるやや端麗な演奏といえましょうか。このオーケストラは、オランダというお国柄を反映しているのか、フィリップスの録音ポリシー故なのか、中庸の美徳などいってしまうとミもフタないですが、全てにおいて過剰でない節度を持った響きが特徴だと思います。特に弦の美しい響きは、その美麗さにおいてウィーン・フィル、機能美といった点ではベルリン・フィルにかないませんが、ある種女性的といってもいいような、その楚々としたエレガントな美しさは、やはりヨーロッパの名オーケストラに恥じない素晴らしさがあります。

 こういうオーケストラですから、ブラームスという古典派に規範を置きつつも、その音楽には隠しようもなくロマン派的な痕跡が随所にあるという音楽には、やはり相性は抜群だったんでしょう。先に聴いたセルとゼルキンが組んだ演奏は、前述のとおり剛毅で安定感のあるベートーベン流のブラームスでしたが、こちらはここにない風景を夢見たり、追憶に涙したり、魂の解脱を望んだり、いかにもロマン派的な情緒が見え隠れする演奏だともいえます。このあたりはブレンデルの演奏にもほぼ似たようなことがいえ、この曲の精力的なところはあまり表に出さず(安定感はありますが)、まるでシューマンを弾くようにラプソディックな感情の変化を中心に演奏していると私には聴こえました。ついでにいえば、ここでのフィリップスの録音はまさに極上です。

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ブラームス ピアノ協奏曲第1番/ゼルキン,セル&CO

2006年03月05日 16時35分40秒 | ブラームス
 これも随分ひさしぶりです。ブラームスはピアノ協奏曲を2曲残しましたが、作品15ということで、ピアノ協奏曲に限らず、そもそも彼が扱った管弦楽関連の作品でももっとも若書きの部類に入るものといえます(セレナードの第1番は作品11)。もともと2台のピアノのためのソナタ、次に交響曲へ構想がかわって最終的にピアノ協奏曲になったという経緯があるだけに、曲の偉容といい、演奏時間といい(約45分)、ある種のシリアスさといい、見事に交響曲的で、聴いているこちらもほとんど交響曲を聴いているような気分になる曲です。たまにピアノとオケが丁々発止とやる場面が出てくると、「あっ、コレ協奏曲だったんだ」と思い出すという....。

 さてこの作品、一般的には「若書き故にオーケストレーション、構成、展開といった点で後年の作品ほど熟成していない」みたいな評価があって、私もそういうものだと思って聴いていた訳ですが、久しぶりに聴いてみると、なかなかどうして素晴らしいです。昔は聴きとれなかった、あるいは感じ取れなかった、この作品の良いところも見えてきたりして収穫でした。
 昔見えず、今回見えたところはいろいろありますが、大きいのはこの曲が「後年の交響曲第1番とほとんど同じブラームス的な世界を語っていた」という点です。そんなの当たり前じゃないか、といわれかもしれないけれど、なにやら由々しき事態の勃発みたいな深刻なムードに始まり、苦悩の中で善悪が葛藤していくような音楽を進め(第1楽章)、次に平静の魂の安寧を希求するような音楽を提示したところで(第2楽章)、やがて苦悩が克服され、それを称揚するようなフィナーレとなる....みたいな音楽的な筋書きという点で、もうほとんど交響曲第1番と同じ視点、同じ感情なんですよね。

 結局、ブラームスという人は、20代の頃から最初の交響曲で語るべき内容はほぼ決めていて(そのプロトタイプはもちろんベートーベンの「運命」とか「合唱」あたりにあるんでしょうが)、それに相応しい表現を模索していたということが、理屈じゃなくて身体で感得できたというのが、今回の収穫でした。
 という訳で、ほんとうはゼルキンの弾く「ヘンデル・ヴァリエーション」目当てにこのディスク聴き始めた訳ですが、思いの他、ピアノ協奏曲第1番の方が良かったもので、ちょいと書いてみました。そういえば、ブラームスのピアノ協奏曲といえば、アナログ時代にはギレリスとヨッフムがベルリンと組んだディスクを愛聴してましたけれど、それを聴きたくなっちゃったな。
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DEEP PURPLE / Who Do We Think We Are

2006年03月05日 14時54分06秒 | ROCK-POP
 いわゆる第2期ディープ・パープルの掉尾を飾る1973年の作品。当時のパープルは「イン・ロック」「ファイアーボール」「マシン・ヘッド」というハード・ロック史上に残る作品を連打し、そのピークで「ライブ・イン・ジャパン」という決定打を放つという人気絶頂だった時期でもあり、まさにファン注目の内に発表された新作という感じでした。しかも冒頭に収録された「ウーマン・フロム・トーキョー」は日本絡みのタイトルで、かつショート・バージョンがシングル・カットされたりもして、話題にも事欠かないという作品でした。

 ただ、当時のファンとしては、全体の出来は「いまひとつ」といったところが共通認識だったように思います。当時の私は「ライブ・イン・ジャパン」を発売日に買ったりしていたくらいですから、ある意味パープルには相当入れ込んでいたハズですが、このアルバムに関しては、リアルタイムではついに買わずじまい(「ウーマン・フロム・トーキョー」のシングルは購入しましたが)、2,3年後に友人の購入したの借りてきてようやく聴いたという感じですから、当時このアルバムがいかに地味な評価を受けていたか分かろうかというものです。実際に聴いてみても、なんていうか、「ウーマン・フロム・トーキョー」だけが光り輝いていて、後に続く曲はどれも地味で冴えないといった感じなんですよね。これじゃぁ、盛り下がるのも無理ないと当時納得したもんでした。

 さて、久しぶりに聴く「紫の肖像」ですが、今聴くと案の定いいです。何がいいかって、それはこのグループ感に尽きるでしょう。曲やアレンジの多少クウォリティが低く、バンド内のテンションは降下気味であったとしても、全盛期のパープルがノリが充満していますから、これはもはやパープル云々というより、70年代ロックの最良なノリを捉えた貴重なドキュメントと見るべきでしょう。「ウーマン・フロム・トーキョー」のドラムス、ギター、オルガン、ベースと徐々に楽器が重なっていくイントロのリフなど、「ヴィヴァ!70年代!!」って感じです。
 ちなみに残りな地味な曲でも、「ラット・バット・ブルー」あたりは、これでもうちょっとアレンジがタイトだったら名曲のひとつになったかもしれないと思いますし、オーラスの「アワ・レディ」は、ハードロックというよりは、典型的な70年代ニュー・ロック風な仕上がりで、今聴くと味わい深いです。

 あと、余計なことですし、よく覚えていないのですが、当時のパープルって傑作だすと、次には地味目の作品になるみたいな不文律みたいなものをファンも信じていた節もありませんでしたっけ?。「イン・ロック」の次は地味な「ファイアーボール」だったし、「マシンヘッド」の次はこれでいいんだ、次にはまた凄いのが出る....みたいな(笑)、実際、このアルバムの後が第3期にリニューアルして「バーン」をかっ飛ばす訳ですから、あながちハズじゃなかった訳ですが、これってファンのある種の経験則だったのか、なんか根拠のある噂だったのか、どうだったんでしょうね。
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ベートーベン ディアベリ変奏曲/R.ゼルキン

2006年03月04日 17時07分33秒 | クラシック(一般)
 1月28日に「ディアベリ変奏曲」に再度玉砕(?)以降、この曲なんとなく好きになれそう....という気配を頼りに、ほとんどBGMとしてですが、かなり頻繁に聴きました。2,3日に一回くらいは聴いたんじゃないでしょうか。おかげで曲の凹凸というか、楽曲全体の起伏のようなものは大分馴染んできました。いや、「この曲いいじゃん」ってとこまでは未だ未だいきませんが....。そんな折り注文してあった、ルドルフ・ゼルキンがこの曲を演奏したCDが届いたもんで、早速聴いているところです。57年録音のCBS盤です。

 しかし、ブレンデルとは恐ろしいくらい趣の違う演奏ですね。ゼルキンの演奏というと無骨だとか剛直だとか、とにかく非常に重厚なイメージがありますけど、この演奏もまさにそういう感じ。ブレンデルがこのちょっとロココ風なテーマを軽やかにさらっと弾いているのに対して、ゼルキンの方はテンポは遅いし、左手のバスのガツンと来る低音がふんだんに聴こえる演奏なせいか、まるで石造りの要塞のような趣の演奏になっています。ゼルキンだとこのテーマからして既にベートーベンそのものといった感じで聴こえるから妙。ともあれ、その安定感は無類。まさに一点一画を揺るがさせにしない極太の楷書体という感じですかね。
 
 また、各変奏もひとつひとつを丹念に性格を描き分けていて、この曲の性格変奏であることがよく分かる演奏ともなっています。「悲愴」の冒頭を思わせる意味深なムードの第15変奏、リズミカルな第16変奏、ピアニスティックな技巧が冴えるやはり「悲愴」を思わせる第17変奏あたりも実にきっちりと弾ききっていて、ある意味構築的ですらありますね。このあたりをブレンデルの演奏では、流れに重視して一気に弾いたのに比べると実に対照的です。個人的にはこれまでブレンデルの演奏でこの曲に馴染んでいたので、いささか違和感もありますが、ベートーベンらしさという点では文句なくこちらに軍配が上がるのではないでしょうか。それにしても同じ譜面で弾いてこんなに違うというのは、聴き比べ醍醐味ここにありという感じです。
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FUZE FCR-10(クロックラジオ+CDP)

2006年03月03日 23時31分18秒 | PC+AUDIO
 数日前に某巨大激安ショップで購入してきたものです。クロックラジオにCDプレイヤーがついてもので、店内で見かけた時は「おぉ、これだ、これだ」とか思って購入しちゃいました。私は朝クロック・ラジオを目覚ましにしているんですが、それが壊れてかけていたもので、ここ一ヶ月くらい探すとも探していたのです。ネット等でこの手の製品を探すと、普通の置時計にラジオがついたようなものとラジカセに時計機能をつけたものに大別されるように感じたんですが、前者はソニー製のいかにもラジオってな感じのICF-CA5Vというのが、なかなか良さそうだったものの、何しろ1万円という価格に尻込みしていましたし、後者は「おいおい、もうひとつベッドの脇のCDラジカセの置くのかよ」みたいな仰々しいのばっかりで、これまたいいのがなかったんですね。いずれにしても、このデフレの時代に目覚まし時計に高い金かける気はないし、ラジカセみたいなのもちょっと思ったところにコレを見つけたという訳です。

 さて、このキカイ写真だけみるとラジカセそのものなんですが、とにかく小さいんですね。幅20cmくらいですから、無理すれば大人の手のひらにのっかります。時計表示は大きめでシンプルそのもの、目覚ましにラジオかCD、もしくはアラームが選択可能ですから、とりあえず枕元のCDラジカセはめでたくとっぱらうことができたというのがいいです。最近は枕元でCDを聴くなどということはほとんどないんですけど、一応聴けるようにはしておきたいという気持ちでCDラジカセを置いていた訳ですが、なにしろ枕元にクロックラジオ、目覚まし時計、ラジカセ、本とかごちゃごちゃしていたので、これは少しはすっきりしたという感じですか。音質もこれまでのクロックラジオに比べればさすがに余裕ある音だし(CDの方はサイズ的にプアそのものですが-笑)、受信状況も良好なんで、毎朝重宝してます。

 しかし、オッサンになると、どうして朝はニュースを欲するようになるんですかね。若い頃は通勤途中で新聞読んだり、携帯ラジオ聴いてる人の気持ちがさっぱりわからなかったもんですが、なんか40過ぎたあたりから、急速に「やっぱ朝はニュースだろ」みたいな気分になってきました。どうしてなんだろうなぁ???。あっ、ちなみにこのキカイですが、値段は4500円くらいでした。フューズというメーカですが、調べてみるとここから新しい機種が出たようなので、こちらは処分セールみたいな感じになっていたようです。おそらく9800円くらいで売られていたようですから、まぁまぁ、安い買い物だったですかね。
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SHARP W-ZERO3 (PDA+PHS) [2]

2006年03月02日 23時31分55秒 | PC+AUDIO
 という訳で購入後約2週間経ったW-Zero3だが、大分使いこなせてきたというか、用途が定まってきたという感じだ。使いこなしという点では、各種ユーティリティー類でカスタマイズした点が大きい、各種ボタンにアプリの起動やネット接続の生むを割り当てたり、スタートメニューの改造などとちまちまとやって、かなり手に馴染んできた。用途としては予想できていたことではあるが、電話あるいはスケジューラとしては全く使っておらず、ディスプレイの広さとそこそこの通信速度を活用してネット端末(ブラウザとメーラー)として使っているという感じだ。このところ出張が多いので、出先でレストランなんかで飯が来るまでの間のウェッブでニュースをみたり、メールを確認したりと、けっこう役にたっている....というか、もはや出先ではこれなしではいられないという感じになってきた。

 ついでに書くと、ここ数日、例の民主党のメール騒動のおかげで、2ちゃんねるのニュー速が久しぶりに大きく盛り上がっていたのだけど(笑)、ポケギコというPDA用の2ちゃんねるViewerのおかげで、出先や通勤途中に多いに楽しませてもらった。本日、民主党は記者会見でほとんど全面降伏の様相を呈したおかげで、スレッドも落ち着いてきたようだけど、格好のネタにされていたよね。国会議員というのは偉い先生なんだろうけど、あそこまでボロボロに攻撃されては立つ瀬もないだろうなと思う。まぁ、ネタにされておかしなくない出来事ではあったが....。
 しかし、どうやれば、あんなにまずく杜撰な対応になるのか、万事アバウトな自分から見てても不可解な一件だったよなぁ。いずれにしても、こういうの人の常といったらミもフタもないけれど、ここ数日「おいおい、人を追求する時はずいぶん舌鋒鋭いけど、自分や身内にはやけに優しいのね」というのが、PDA眺めながら常々思っていたという感じ。おっと脱線した。
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ショパン ピアノ協奏曲第1,2番/チェルネッカ,ペシェク&スロヴァキアP

2006年03月01日 23時18分59秒 | クラシック(一般)
 これも随分久しぶりに聴きました。おそらく10年振りくらいですかね。演奏はピアノは第1番をチェルネッカ、第2番をピフカ、指揮はペシェク、オケはスロヴァキア・フィルハーモニックという、ほとんど無名のラインナップで収録されたNaxosの初期(84年)のものです。おそらくショパンのピアノ協奏曲のCDを持っていなかったので、とりあえず「聴ければいいか」みたいな感じで、購入してきたんだと思うんですが、ほとんど購入した時のことは覚えてません。最近はこういうのが多くで困りものです。

 さて、久しぶりに聴いたショパンのピアノ協奏曲ですが、この2曲は先日のピアノ・ソナタ以上に古典的な鋳型を意識しつつ、グランド・スタイルの協奏曲をつくってやろうという意気込みで作り上げた、ショパンの若き日の作品なもので、至るところショパンらしからぬ気負いとかある種精力的なたたずまいみたいなみたいなものが散見します。個人的にはどうもそのあたりの抵抗感みたいなものが、、どうもこの曲を今一歩親しめない原因になっているんじゃないかと分析しているんですが、ともあれ、聴き始めると「おぉ、やっぱいいなぁ」と思うから不思議。好きなんだけど、積極的に取り出す気にならない曲の典型という感じですかね。

 例えば、第1番など第1楽章後半のラプソディックで夢見るような展開、第2楽章の陶酔的なムード、ピアニスティックなテクニック満載の第3楽章と聴き所満載で、本当にいいんですね。たまに聴くと本当にいいなぁと思う....でも、またしばらくするとほとんど忘れてしまうんですね。不思議な曲です。ただ、第1番でいうと第3楽章の3つめの主題が登場する部分、明るい主題から突如ムードが転じて鬱蒼とした森を思わせるオケに続いて、きらめくようなピアノが登場する4分半目あたりのところですが、ここだけは何故だか異常に好きで、脳裏に焼き付いて離れないという感じです。いつもどうしてこの部分をもっと長く展開しなかったのだろうと思ったりするものです。

 ちなみにこの全く無名の演奏陣ですが、意外にも非常に良い演奏を展開しています。特に1番は女流ピアニストというあたりが聴いているのか、ピアニスティックなフレーズを感情の起伏というメンタルな振幅に還元し、全体に楚々と流れるような演奏がいかにもショパン向けという感じですか。
コメント
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