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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

ブラームス ピアノ協奏曲第1番/ブレンデル,イッセルシュテット&ACO

2006年03月05日 22時43分48秒 | ブラームス
 ゼルキンのブラームスのピアノ協奏曲第1番を聴いたら、なんだかギレリスとヨッフムの演奏を聴きたくなったのですが、これは手許にないので、他に何かないかとあれこれ探してみたところ、こんなのが出てきました。ビアノはアレフレッド・ブレンデルで(偶然にも「ディアベリ変奏曲」の聴き比べと同じ組み合わせ)、ハンス・シュミット・イッセルシュテット指揮のアムステルダム・コンセルトヘボウという布陣による73年の録音です。

 さて、ゼルキンのブラームスがセルの振るクリーブランドもろとも、非常に男性的で剛直な響きを中心に据えた、ある意味辛口な演奏だったとすると、こちらはアムステルダム・コンセルトヘボウという、芳醇でエレガントな響きを持つオーケストラの音色を堪能させるやや端麗な演奏といえましょうか。このオーケストラは、オランダというお国柄を反映しているのか、フィリップスの録音ポリシー故なのか、中庸の美徳などいってしまうとミもフタないですが、全てにおいて過剰でない節度を持った響きが特徴だと思います。特に弦の美しい響きは、その美麗さにおいてウィーン・フィル、機能美といった点ではベルリン・フィルにかないませんが、ある種女性的といってもいいような、その楚々としたエレガントな美しさは、やはりヨーロッパの名オーケストラに恥じない素晴らしさがあります。

 こういうオーケストラですから、ブラームスという古典派に規範を置きつつも、その音楽には隠しようもなくロマン派的な痕跡が随所にあるという音楽には、やはり相性は抜群だったんでしょう。先に聴いたセルとゼルキンが組んだ演奏は、前述のとおり剛毅で安定感のあるベートーベン流のブラームスでしたが、こちらはここにない風景を夢見たり、追憶に涙したり、魂の解脱を望んだり、いかにもロマン派的な情緒が見え隠れする演奏だともいえます。このあたりはブレンデルの演奏にもほぼ似たようなことがいえ、この曲の精力的なところはあまり表に出さず(安定感はありますが)、まるでシューマンを弾くようにラプソディックな感情の変化を中心に演奏していると私には聴こえました。ついでにいえば、ここでのフィリップスの録音はまさに極上です。

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ブラームス ピアノ協奏曲第1番/ゼルキン,セル&CO

2006年03月05日 16時35分40秒 | ブラームス
 これも随分ひさしぶりです。ブラームスはピアノ協奏曲を2曲残しましたが、作品15ということで、ピアノ協奏曲に限らず、そもそも彼が扱った管弦楽関連の作品でももっとも若書きの部類に入るものといえます(セレナードの第1番は作品11)。もともと2台のピアノのためのソナタ、次に交響曲へ構想がかわって最終的にピアノ協奏曲になったという経緯があるだけに、曲の偉容といい、演奏時間といい(約45分)、ある種のシリアスさといい、見事に交響曲的で、聴いているこちらもほとんど交響曲を聴いているような気分になる曲です。たまにピアノとオケが丁々発止とやる場面が出てくると、「あっ、コレ協奏曲だったんだ」と思い出すという....。

 さてこの作品、一般的には「若書き故にオーケストレーション、構成、展開といった点で後年の作品ほど熟成していない」みたいな評価があって、私もそういうものだと思って聴いていた訳ですが、久しぶりに聴いてみると、なかなかどうして素晴らしいです。昔は聴きとれなかった、あるいは感じ取れなかった、この作品の良いところも見えてきたりして収穫でした。
 昔見えず、今回見えたところはいろいろありますが、大きいのはこの曲が「後年の交響曲第1番とほとんど同じブラームス的な世界を語っていた」という点です。そんなの当たり前じゃないか、といわれかもしれないけれど、なにやら由々しき事態の勃発みたいな深刻なムードに始まり、苦悩の中で善悪が葛藤していくような音楽を進め(第1楽章)、次に平静の魂の安寧を希求するような音楽を提示したところで(第2楽章)、やがて苦悩が克服され、それを称揚するようなフィナーレとなる....みたいな音楽的な筋書きという点で、もうほとんど交響曲第1番と同じ視点、同じ感情なんですよね。

 結局、ブラームスという人は、20代の頃から最初の交響曲で語るべき内容はほぼ決めていて(そのプロトタイプはもちろんベートーベンの「運命」とか「合唱」あたりにあるんでしょうが)、それに相応しい表現を模索していたということが、理屈じゃなくて身体で感得できたというのが、今回の収穫でした。
 という訳で、ほんとうはゼルキンの弾く「ヘンデル・ヴァリエーション」目当てにこのディスク聴き始めた訳ですが、思いの他、ピアノ協奏曲第1番の方が良かったもので、ちょいと書いてみました。そういえば、ブラームスのピアノ協奏曲といえば、アナログ時代にはギレリスとヨッフムがベルリンと組んだディスクを愛聴してましたけれど、それを聴きたくなっちゃったな。
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DEEP PURPLE / Who Do We Think We Are

2006年03月05日 14時54分06秒 | ROCK-POP
 いわゆる第2期ディープ・パープルの掉尾を飾る1973年の作品。当時のパープルは「イン・ロック」「ファイアーボール」「マシン・ヘッド」というハード・ロック史上に残る作品を連打し、そのピークで「ライブ・イン・ジャパン」という決定打を放つという人気絶頂だった時期でもあり、まさにファン注目の内に発表された新作という感じでした。しかも冒頭に収録された「ウーマン・フロム・トーキョー」は日本絡みのタイトルで、かつショート・バージョンがシングル・カットされたりもして、話題にも事欠かないという作品でした。

 ただ、当時のファンとしては、全体の出来は「いまひとつ」といったところが共通認識だったように思います。当時の私は「ライブ・イン・ジャパン」を発売日に買ったりしていたくらいですから、ある意味パープルには相当入れ込んでいたハズですが、このアルバムに関しては、リアルタイムではついに買わずじまい(「ウーマン・フロム・トーキョー」のシングルは購入しましたが)、2,3年後に友人の購入したの借りてきてようやく聴いたという感じですから、当時このアルバムがいかに地味な評価を受けていたか分かろうかというものです。実際に聴いてみても、なんていうか、「ウーマン・フロム・トーキョー」だけが光り輝いていて、後に続く曲はどれも地味で冴えないといった感じなんですよね。これじゃぁ、盛り下がるのも無理ないと当時納得したもんでした。

 さて、久しぶりに聴く「紫の肖像」ですが、今聴くと案の定いいです。何がいいかって、それはこのグループ感に尽きるでしょう。曲やアレンジの多少クウォリティが低く、バンド内のテンションは降下気味であったとしても、全盛期のパープルがノリが充満していますから、これはもはやパープル云々というより、70年代ロックの最良なノリを捉えた貴重なドキュメントと見るべきでしょう。「ウーマン・フロム・トーキョー」のドラムス、ギター、オルガン、ベースと徐々に楽器が重なっていくイントロのリフなど、「ヴィヴァ!70年代!!」って感じです。
 ちなみに残りな地味な曲でも、「ラット・バット・ブルー」あたりは、これでもうちょっとアレンジがタイトだったら名曲のひとつになったかもしれないと思いますし、オーラスの「アワ・レディ」は、ハードロックというよりは、典型的な70年代ニュー・ロック風な仕上がりで、今聴くと味わい深いです。

 あと、余計なことですし、よく覚えていないのですが、当時のパープルって傑作だすと、次には地味目の作品になるみたいな不文律みたいなものをファンも信じていた節もありませんでしたっけ?。「イン・ロック」の次は地味な「ファイアーボール」だったし、「マシンヘッド」の次はこれでいいんだ、次にはまた凄いのが出る....みたいな(笑)、実際、このアルバムの後が第3期にリニューアルして「バーン」をかっ飛ばす訳ですから、あながちハズじゃなかった訳ですが、これってファンのある種の経験則だったのか、なんか根拠のある噂だったのか、どうだったんでしょうね。
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