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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

マーラー 交響曲第7番「夜の歌」/バーンスタイン&NYP

2006年03月19日 01時05分19秒 | マーラー+新ウィーン
 マーラー中期3部作の掉尾を飾る作品です。曲の構成は古典的4楽章制だった6番から再び5番と同じ5楽章制に戻っていて、ある意味典型的なマーラーの交響曲ともいえる構成に加え、中間部には「夜の歌」という標題の元となったセレナード風な楽章がふたつ入り、なおかつ特徴的なスケルツォ楽章が第3楽章に入るなど、音楽的な目玉も少なくないハズなのですが、何故だかこの曲先行する5,6番ほど人気がないんですね。個人的にも5,6番に比べると聴く頻度はかなり少ないです。

 一体何故だろうかと考えてみると、結局、この曲の場合、両端楽章が問題なのではないかと思ったりするんですね。まず、第1楽章ですが、全体としては第6番の第1楽章の続編のような出来なのですが、どうも、暗と明、躁と鬱が妙に混濁しているというか、感情面がはっきりしないというか、第5番でいえば調度第3楽章みたいな感じで、暗から明への境となるような感じなところがあって、それが途中なら分かるけど、いきなりこれで始まるもんで、どうもすっきりしない感じがするような気がします。
 そして夜の歌~スケルツォ~夜の歌と続く中間楽章群が来る訳ですが、これはいずれも夜的な気分に支配された楽章ですから、やはり感情的にはすっきりしないまま続きます。もっとも、これは楽章の配置や音楽の性格からいってもこうなるのは理解できるのですが....。そして締めくくりとなる第5楽章では、突如雰囲気が変わりまるでワーグナーの「マイスタージンガー」の前奏曲みたいな、景気いい楽章が現れて歓喜の洪水みたいなムードの中で全曲が終わってしまうということになります。これでリスナーは「えっ、なんでこうなっちゃう訳?」みたいな気分になるんですね。
 つまりこの曲の場合、解決されるべき、苦悩とか命題だとかが、冒頭にきっちりと提示されておらず、もやもやとした感情のままあれこれ付き合わされた挙げ句、こちらには何も分からないまま、ラストでは全てが解決済みみたいな強引なエンディングになってしまったおかげて、どうも「よく分かんねぇな」みたいな、座りの悪いイメージになっていると思うんです。こんな風に感じるのは僕だけでしょうか?。

 そんな訳で、この曲をあまり聴かない理由を自分なりに分析してみましたが、そうはいうものの、この曲の中間部の3つの楽章はとても魅力的です。この曲の場合、やはりこれを聴きたいがために、ディスクを取り出してくるという感じですよね。ちなみに本日聴いたのはバーンスタインとニューヨーク・フィルの65年の演奏で、今回、初めて聴いたものですが、両端と中間楽章をきっちりと性格分けして演奏することが多いこの曲を、割と感情をゆらぎをメインに演奏してみたという感じで、その意味では第1楽章と第5楽章の断絶感は少ない気がしました。ひとつの見識ではあります。
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MILES DAVIS / Seven Steps to Heaven

2006年03月18日 18時45分19秒 | JAZZ
 しばらく前に購入した「セブン・ステップス」を先ほど開封したんですが、そういえばここに収録されている最初のアルバムに相当する「Seven Steps to Heaven」を私は未だ聴いたことがなかったので、とりあえずボックス・セットから該当する曲を抜粋してアルバムを再現したCDRを作って聴いてみました。この時期のマイルス・バンドはまだ過渡期で、マイルスとロン・カーターのベースは固まっていたようですが、サックスのジョージ・コールマン、ピアノのハービー・ハンコック、ドラムスのトニー・ウィリアムスの参加する前段階で、ヴィクター・フェルドマン(ピアノ)とフランク・バトラー(ドラムス)というカルテットで録音したセッションもあり、このアルバムにはその両方のセッションが収録されているという半端な印象があったのせいか、これまで聴いていなかったという訳です。

 ちなみに1,3,5曲目がカルテットの演奏で、2,4,6曲目がそのまま数々の名作ライブを作っていく黄金時代前期のクインテットで録音されたものとなりますが、前者のカルテットの演奏は、「Basin Street Blues」「I Fall in Love Too Easily」「Baby Won't You Please Come Home」の3曲で、どれもマイルスのミュートをフィーチャーしたミディアム~スローのバラード系なアレンジ。よく歌うマイルスのミュートとなかなか知的なソロ(ビル・エヴァンスとウィントン・ケリーの中間みたいな感じ)を展開するフェルドマンのソロがいい感じでブレンドして、程よいリラクゼーションが、カクテル・ラウンジ風なジャズっぽさがいかにも心地良さに誘う演奏になっています。なにしろもう一方のクインテットの方のメンツがメンツなだけに、こちらの演奏の一般的な評価は低いようですが、個人的には「けっこういいじゃん」って感じでした。ある意味でプレステッジ以来の王道スタンダード・ジャズ路線の打ち止めともいえる演奏ですよね、この3曲。

 一方、クインテットの演奏は、初顔合わせでももうあのサウンドになっているのはさすが。2曲目にラインナップされたタイトル・トラックが始まると、いきなり音楽そのものがモダンで現代的な響きを感じるのは、この曲をこの「フォア&モア」その他で聴き過ぎてしまった人間の先入観でしょうかね。4曲目の「So Near, So Far」はフェルドマン作である非スタンダート作品ですが、込み入ったリズム・パターンといい、色彩的なアレンジといい、早くも2年後の「E.S.P.」を予見させるようなモダンさがあります。6曲目の「Joshua」はタイトル曲同様、ライブでお馴染みの作品ですから、まるで初めて聴いた気がしないような演奏ですが、ロン・カーターとトニー・ウィリアムスのシンバルをリズムの核として、各メンバーが従来のアンサンブルからすると自由度とスピード感の高い、奔放な演奏を繰り広げているのは、当時としてはかなり近未来的なモダンさがあったと思わせるに充分な仕上がりです。 
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ブラームス セレナード第1番 他/アバド&BPO

2006年03月18日 14時30分04秒 | ブラームス
 自らブラームス愛好家を名乗っていながら、この曲はおそらく初めて聴くと思います。ブラームスがピアノ協奏曲の第一番を作ったのとほぼ同時期に作曲した彼の作品中「ブラームス初の管弦楽曲」という称号を持つ記念すべき作品なのに、どうして今まで放置してあったのだろう....?。いろいろ思いを巡らすと、どうもアナログ盤時代に、ボールトがLPOを振った演奏を持っていたような気もしてきたのですが、いずれにせよ、音楽的内容についてはほとんど記憶になく、今回聴いたみても、どこか覚えていたとかそういうところは全くありませんでしたので、やはり初めて聴いたんでしょう。

 さて、このセレナード第1番ですが、セレナードというくらいですから、当然、モーツァルトやハイドンといった古典期のフォーマットを敷衍したものになっています。具体的に云えば、楽章間の相関の薄いバラエティに富んだ多楽章で構成された、比較的軽い気分で聴けるBGM的音楽といったところですか。したがって、同時期に作っていたピアノ協奏曲第1番のような、最初の交響曲の内容を予告しているようなシリアスさはほとんどなく、全編、屈託のない明るい気分に覆われています。また、オーケストレーションのための習作みたいなところもあったんでしょうね。かなり意図的に様々な形式やソロ楽器をフィーチャーしているあたりも特徴といえるかもしれません。自分用のメモとして各楽章をちょっと控えておきます。

 第1楽章は牧歌的雰囲気に始まり、その後の「大学祝典序曲」風な晴れがましいテーマに発展してく主題が印象的。第2主題は楚々とした風情のもので、やはり牧歌的。全体的な気分としては、交響曲第2番と共通するムードがあります。ついでに主題の取り扱いの入念さはいかにもブラームス的ですが、こういうさりげない雰囲気の曲では、ここまでやるのはちとくどい感もありますね(その意味で交響曲第2番の簡潔さはさすがというか、ここでの経験が生きているんでしょう)。
 第2楽章はスケルツォ。交響曲第3番第4楽章の冒頭みたいなモヤモヤした感じから、やがて優雅なワルツ風な雰囲気に変わっていくテーマ印象的(ちょっとドボルザーク風かな)。トリオはやはり交響曲第2番風な牧歌調なものです。
 第3楽章はアダージョによる緩徐楽章で、演奏時間は14分と全曲中最長。内容的にはブラームスというよりは「典型的なドイツ、オーストリア風の緩徐楽章」といった感じで。平静で穏やかな気分ムードが横溢したまるで自然風景のような楽章です。

 残り3つの楽章は、演奏時間でみると、4分、3分、6分と全部併せても前のアダージョより短いものになっています。どうしてこういう後半を駆け足で構成にしたのかは不明ですが、これらリズミックな楽章をひとつのブロックとまとめてしまうと、通常の交響曲と同じ4楽章となってしまうのは、なにかヒントになっているのかもしれませんね。ともあれ、第4楽章は素朴でちょっとユーモラスな雰囲気からやや憂愁を帯びた旋律へと変化していくテーマが印象的なメヌエット。第5楽章は再びスケルツォですが、こちらは第2楽章に比べてよりはっきりとし明確なスケルツォで、雰囲気もかなりホルンをフィーチャーして豪快です、ただしあっという間に終わってしまいますが....。最終楽章は定石通りといった感じのソナタ風なロンドのようで、
力強く跳ねるような第1主題は、なにやら「ハイドン・ヴァリエーション」のフィナーレを思わせる堂々たる偉容があって、これが度々現れることでハイライトを形成するという感じです。
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ドラゴンクエストII -悪霊の神々- for EZ [2]

2006年03月17日 21時01分07秒 | GAME
 一昨日ケータイで始めたDQ2ですが、その時書いたとおり、DQ1に比べると基本的にな現在のドラクエのほぼ原型みたいなスタイルになっているせいか、パーティー戦やダンジョン、或いはストーリーしたところで、現在やってもかなりおもしろいです。このところ出張が多いので、目的地へ出向く電車の中などで、仕事の予習もしないで、20分、30分とついついやってしまい、「おいおい、あとふたつで目的地じゃねないか」などと思い、あわてて書類広げたりしたりすること多数、実は本日も某中学校へ行ったんですが、職場からけっこう遠かったのをコレ幸いと、大灯台攻略についつい勤しんでしまいました(笑)。

 で、20年近く前にやったはずのストーリーはほぼ完全に忘却の彼方で、ほとんど初めてやると同じ感じで、三人が揃うまでの前半、風の等でマントをゲット、そのまま西進して、やがて到着する竜の角でマントを着て落下、向こう岸に飛び降りて、船をゲットしたところで、DQ1の舞台となったラダトーム城へ到着、そのエリアで竜王のひ孫とかいうヤツと会って、紋章集めをしなくてはいけないことにになり、まずは大灯台へ....という感じで本日に至った訳ですが、全く何も覚えてなかったのは情けないです。唯一覚えてたは、竜の角でマントを着て落下する場面で、落下するポジションが違っていので向こう岸に行けなかった。ここで「おいおい、オレってば20年前もここで同じ間違い繰り返していなかったけか」と妙に情けない気分で昔のことを思い出したりしたくらい....。

 それにしても、レベル上がり過ぎてしまいましたた。ケータイみたいな空き時間を利用してやる場合、あんまり先へ先へっていう焦慮感みたいなものないですから、ついつい一カ所に滞留してのレベル上げになってしまうもので、この大灯台も道に迷いつつ、あてどなく彷徨っていくうちに、どんどんレベルか上がってしまい早20代後半、なんか中盤の難関であるここも、ほとんど楽勝態勢になってしまい(こういうパターンもけっこう楽しい)、爺さんのところへなんなく到達、ひとつ目の紋章をゲットしたところで今週は終了。あとは来週のお楽しみということで。
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ミクロス・ローザ三部作 (Score)

2006年03月16日 22時58分28秒 | サウンドトラック
 先日レビュウしたローザの「3つの合唱組曲」のところで、ちらっと話題に出したリヒャルト・ミュラー・ランペルツ指揮ハンブルク・コンサート交響楽団、同合唱団によるローザのエピック・フィルム3作品の組曲を収めたアルバムです。62年といえばこれらの作品は、ほぼリアル・タイムといってもいい時期の録音でしょうから、どのような経緯でこれが録音されたのかはわかりませんが、この時期に早くもこうしたスコア盤が録音されたというのは、当時の人気振りがわかろうというものです。

 当時は史劇映画(エピック・フィルム)が第何次目かのブームだったようですが、その火付け役となったのがもちろん「ベン・ハー」であり(起源としては「クウォ・デバイス」あたりでしょうが)、その音楽を担当したのがローザだったというのは周知のとおり。ユダヤ人のベン・ハーとキリストの最期を6年半のドラマを交錯させながら壮大なスケールで描いたこの作品はそれ自体映画史上の傑作といえるものでしたが、ローザはそれをワーグナー的なスケール感とハンガリー的な鋭角的なリズムやある種エキゾチックな雰囲気でもって、もはや以上ないというくらい見事に映像を音楽化をし、これまた映画音楽史上に残る傑作と評価されました。ローザは一躍のこの分野の巨匠として有名になり、61年には実に三本ものエピック映画の音楽を担当しているほどです。

 このアルバムには「ベンハー」に加え、61年に担当した三本のエピック・フィルムの内の「エルシド」と「キング・オブ・キングス」が加え、合計3つの組曲が収録されています。当時としてはさながらエピック・フィルム・グレイテスト・ヒッツという感じだったんでしょうね。どれも多少ハリウッド落日の輝きとでもいえる派手な豪華さと多少えげつないほどのスケール感を持った音楽となっています。先日の「3つの合唱組曲」はそういう意味からいうと、やや落ち着き過ぎ、枯れ過ぎな感もなくはなかったですから、当時の勢いというかハリウッド的な金ぴか感のようなものは。むしろこちらの方がよく伝わってきます(いかにも60年代初頭という感じの荒っぽい高域の音質もそれっぽくいし)。
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伊福部昭の芸術7 わんぱく王子の大蛇退治/本名&日本PSO

2006年03月15日 00時47分50秒 | クラシック(20世紀~)
 シリーズ第7作は映画音楽からの編曲もの2つ取り上げています。ひとつは91年の「ゴジラvsキングギドラ」で、もうひとつは63年の「わんぱく王子の大蛇退治」となる訳ですが、前者は交響ファンタジーと名付けられているとおり、パート3まで作られた交響ファンタジー・シリーズのある意味完結編ともいえる内容です。後者は東映のアニメに付けられた音楽ですが、「ゴジラ伝説II」で取り上げたのがきっかけだったのか、近年、著しく再評価の機運が高まってきたことから、先生を拝み倒して(?)交響組曲としてまとめられたもののようです。

 まず交響ファンタジー「ゴジラvsキングギドラ」ですが、同名映画からの音楽が6曲ほど選ばれ、これまで同様接続風に並べられています。おもしろいのは、映画には出てこなかった「倭太鼓とオーケストラのためのロンド・イン・ブーレスク」のショートヴァージョンが途中何故か出てくることです。いかなる意図でこれが入ったのかはわかりませんが、ともあれ、これが入っていることをアリバイに SF交響ファンタジーの第1~3番の後にこれを置いて聴くと、「倭太鼓とオーケストラのためのロンド・イン・ブーレスク」で締めるより、遙かにSF交響ファンタジーの完結編として相応しい印象を受けるんですね。第1番には「地球最大の決戦」でギドラのテーマやキング・コング輸送作戦の音楽が出てきますから、それらを流用した「ゴジラvsキングギドラ」は調度、主題再現部のような趣があるし、オーラスは第1番の冒頭と同じゴジラのテーマになりますからなおさらです。ひょっとしてこれは意図的なものだったんじゃないかと邪推したりもしているのですが、ともあれ、暇があったら「SF交響ファンタジー」是非この構成で聴いてみてください、楽しめること請け合いです。

 次に交響組曲「わんぱく王子の大蛇退治」ですが、こちらは時間にして30分近い大作です。前述の通り「ゴジラ伝説II」の冒頭にメインタイトルが収録されをきっかけで評価が高まった作品だと思うのですが、メインタイトル以外をきちんと聴くのは多分初めてでしょう。この映画はアニメであることから、一般映画に比較して、音楽による情報量に依存する部分が大だったらしく、先生が単なる劇伴以上の音楽を作らねばならなかったこと、またテーマが日本神話に属するような話だったため、日本の古代を想起させるような音楽が要求されたこと、などを併せて先生の純音楽の分野での諸作品に近い語法が多数取り入れらることになったと推察されます。ともあれ、随所に「日本狂詩曲」や「土俗的三連画」等を思わせる響きが聴かれるのは、ちょっとはっとするような楽しさがあります。また、第三章の「アメノウズメの舞」は短いながら雑多な音楽語法が特異なリズムにのって展開される極めて伊福部的な音楽になっていますし、2回ほど歌曲風に登場する「子守歌」の美しさなど、全編を通じて聴き所満載というべきでしょう。先生が存命中にこうした形でまとめられたことに、我々は感謝しなければいけません。

 そんな訳で、2本の映画音楽から組曲風にまとめた作品を聴いた訳ですけど、こういうのは先生の物故に伴い打ち止めになるんでしょうかね。個人的には無闇にスコアに手を入れないことを前提として、作品単位で再録音をし続けてもらいたい。欧米では散逸したスコアは修復したり、再構築したりして再録音することだって普通な訳ですから、特撮物はもちろん、一般映画の方もこれからはぜひ再録音してもらいたいものです。ただ、まぁ、やはり先生の遺志としては、もうこれ以上映画音楽の方はあれこれほじくり返さないで欲しいということなんだろうなぁ。
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ドラゴンクエストII -悪霊の神々- for EZ

2006年03月14日 17時43分29秒 | GAME
 という訳で、昼休みや帰りの通勤電車の中などで、気か向いたら30分....という感じでこの一ヶ月間ぼちぼちとやってみましたが、昨日の帰りの電車で竜王の城をあれこれ彷徨っているうちに、最深部まできてしまったので、ダメモトでトライしたところなんとかクリアしました。なんだかんだとそこらうろうろしたおかげで、レベル27になってましたから、普通なら楽勝なのかもしれませんが、私の場合、戦闘が下手くそなせいか、MPがゼロになるぎりぎりのところで辛くも勝利という感じでした。

 しかし、平行して家でやっている「ドラクエ8」が完全3D、インターフェイスや進行はいたれりつくせりな世界なもので、ケータイの小さな窓から見る「ドラクエ1」の世界は、会話も戦闘も感情もいかにも余白ありまくり(笑)、昔はこれになんの違和感もなく、画面から得られない情報はこちらの想像力で補いつつ、夢中になってやっていた訳ですからね。我々はこの20年間、いかに親切なゲームに飼い慣らされてきたかわかります。まぁ、「携帯の小さな画面でやる」という、エクスキューズがあるから、楽しくやらせてもらいましたが、ゆったりとやる家庭用ゲーム機やパソコンのスクリーンではもうこの画面には戻れんでしょう。

 という訳で、「ドラゴンクエスト」に続いて、第2作「ドラゴンクエストII 悪霊の神々」を始めました。まだ、そこまでいってませんが、今度は3人のパーティー制だし、マップは広いしで、一般的なRPGの世界に近づいているようです....っていうか、このあたりが原型なんでしょうが。とりあえずも、これもしばらくやってみます。ついでに「ドラクエ8」も週末にちびちびやったせいで、三角谷まで行ってますが、こっちもそろそろ終わらせないと、FFXIに復帰できないからなぁ....あっ、そうそうFFっていえばあさってFFXIIがでますなぁ(笑)。
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BILL CHARLAP Trio / Somewhere

2006年03月14日 00時01分49秒 | JAZZ-Piano Trio
 ビル・チャーラップのレギュラー・トリオ(ブルーノートからワールドワイド発売されている方)の2004年発表の作品。前作がホーギー・カーマイケルで、本作がバーンスタイン、先般出た新作がガーシュウィン集ですから、レギュラー・トリオの方はさながらアメリカン・ミュージカルの作曲家シリーズみたいな感じになってきてますが、カーマイケル集が多彩なゲストを迎えたけっこうバーサタイルな作品であったのに比べると、本作は再び全曲ピアノ・トリオで演奏されています。もちろん選曲は「ウェスト・サイド・ストーリー」を中心にしたバーンスタインとミュージカル作品ばかりですが、こういう企画をピアノ・トリオでやろうというセンスはさすがビル・チャーラップというべきでしょう。学校でジャズを勉強してきた人がスタンダードやるのとは、ひと味もふた味を違うセンスを感じさせますよね。

 とはいえ、収録曲のほとんどが初めて聴くため、ビル・チャーラップのスタンダードを料理する手腕を楽しむという点では、ちと当方の勉強不足なところがありますが(なにしろ、「ウェスト・サイド・ストーリー」なのに、「something's coming」や「tonight」そして「マリア」も入ってませんからね、このあたりのセンスもまたチャーラップらしいところなんだけど-笑)、純ピアノ・トリオ作品の前作にあたる「星の降る夜」と比べると、一曲一曲のキャラクターを鮮明に描き分けている点といい、歌心、インプロビゼーションといい、遙かに音楽的深度を増しているように思います。おそらく、このあたりは前作「スターダスト」でいろいろなフォーマットに挑戦し、多彩な解釈をものしたことが生きているんでしょうね。「星の降る夜」にあった一曲一曲はおもしろいし、巧いことこの上ないのだけれど、アルバム通して聴くと、どうも一本調子だったところが見事に解消されているあたり、このトリオの大きな進歩といえるんじゃないでしょうか。また、そうした進歩を派手なギミックやテクニックで見せるのではなくて、割と地味な歌心みたいなところから感じさせるのが、これまたこの人らしいところといえます。

 曲として目立ったところを書いておくと、1曲目「クール」はリフのみ残してオリジナルを解体したようなギクシャクしたアレンジなのがいかにもチャーラップ。2曲目の「ラッキー・トゥー・ビー・ミー」はこのトリオらしいミディアム・テンポゆったり楽しめる作品。このトリオらしい....といえば、3曲目の「イッツ・ラヴ」はシャープなリズムのキメに、小気味よいスウィング感、歌心と三拍子揃ったアルバム中もっともこのトリオらしい作品かも。5曲目「ジャンプ」はこのメンツにして珍しくトリッキーな作品で、チャーラップ最初期の頃を思わせたリもします。10曲目の「アメリカ」はアフロ・キューバン風のリズムで料理して、あっと驚くアレンジをさりげなく披露している。こんなことチャーラップ以外誰が思いつくのか、ざまぁみろとかいいたくなっちゃう(笑)。ラストの「サムホエア」は2分半のピアノ・ソロで、ニュー・ユーク・トリオでの「いそしぎ」を思わせるそこはかとない叙情と格調高さが絶妙にブレンドした実に味わい深い演奏です。
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MIKLOS ROZSA / Three Choral Suites [SACD]

2006年03月13日 21時47分06秒 | サウンドトラック
 ミクロス・ローザが手がけたエピック・フィルムの音楽の中から「ベン・ハー」「クオ・バディス」「キング・オブ・キングス」を各々20分程度の組曲にまとめたアルバムです。ローザのエピック物の映画音楽というのは、その昔にランペルツ指揮のハンブルク・コンサート交響楽団で収録した62年のアルバム(「エルシド」「ベン・ハー」「キング・オブ・キングス」)やデッカからローザ自身の指揮による「ベン・ハー」のスコア盤があったせいか、バレーズサラバンデからもまとまった形で出ていなかった(と思う)ので、カンゼル指揮によるシンシナティ・ポップスの最新録音はまさに待望という他はないでしょう。おまけにここに収録されている組曲は、生前のローザがこれらの映画音楽から「コーラス付きのオーケストラ組曲」にすべく着手したものの(タイトルの「Three Choral Suites」はそれに由来するんでしょう)、彼の死によって未完に終わったものを、改めて完成させたものらしいですから、その意味でも貴重です。

 実際聴いてみると、いつもミクロス・ローザ流のバタ臭い壮大さみたいなところは控えめで、どちらかといえば、メロディックな部分を中心になだらかに広がるスケール感のようなものを重点が置かれた選曲、編曲という感じがします。例えば「ベン・ハー」の序曲など、ランペルツ盤ではファンファーレの後、ガツンと最強奏があってそこから、壮麗なテーマが始まる訳ですが、こちらはファンファーレの後、割とのどかな民衆風な音楽がしばらく続き、その後なだからに例のメインテーマが登場するという感じで、あるゆったりと印象があります。一方、これらの作品の静の部分、宗教的な場面や愛の場面で流れた音楽は、今回の「売り」である合唱も大々的にフィーチャーしじっくりと歌い込まれているという感じです。
 どうしてこういう結果になったのかといえば、構想されたのが作曲者の晩年ということが関係しているのかもしれません。ローザはとても長生きしたので70年代後半くらいまで元気に作曲を続けましたけど、その頃の作品は「プロビデンス」であれ、「悲愁」であれ、かなり枯れた音楽になってましたから、かつてエピック・フィルムにつけたそびえ立つような音楽には、作曲者自身あまりリアリティーを感ぜず、むしろこれらの作品につけた宗教的な部分になんらかの再発見をしたのかもしれないからです。
 私は昔からミクロス・ローザっての作品って、40~50年代のロマンティックな曲を書いていた時とそれ以降のエピック・フィルムを頻繁に担当する時では作風がかなり違うような気がしていたのですが、この作品を聴くと「白い恐怖」と「ベン・ハー」が実にしっくりと繋がるようにも感じるので、ある意味エピック・フィルムといえども、実はこのあたりがミクロス・ローザの本音であったのかもしれませんね。以上、邪推ではありますが。

 最後にSACDの音質ですが、これは素晴らしいとしかいいようがないです。カンゼルとシンシナティ・ポップスの音はこれまで沢山聴いてきましたけど、こんな上品で丁寧な質感の音を聴かせてくれるのは、ひょっとして初めてじゃないですかね。これがDSD録音故なのかどうかはわかりませんけど、ゆったりとした音場に展開されるオケと合唱団が自然に溶け合って、まさに極上のサウンドを形成しています。念のためCD層も聴いてみましたが、さすがにSACD層を聴いた後だと、全体に明度が下がったような、やや見通しが悪いような音に感じます。それだけレンジの広い、明晰な音ということなんでしょうが、こういう大規模な管弦楽になると、やはりSACDの基本性能の良さがモロに出ているとったところです。
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MCLAUGHLIN & DELUCIA, DIMEOLA/Friday Night in S.F.

2006年03月13日 00時13分08秒 | JAZZ-Fusion
 78年に再びエレクトリック・ギターによるフュージョン路線に舞い戻ったマクラフリンですが、翌年には「Electric Dreams」を発表します。おそらく前作「Electric Guitarist」路線のアルバムと思われるのですが、入手できなかったため、ひとつ飛び越えて、例のアル・ディメオラ、パコ・デルシアとのコラボレーション第1作「Friday Night in San Francisco」を聴いてみました。次作以降はともかく本作についていえば、ディメオラとデルシアのコラボにマクラフリンが参加したという経緯のようですから、必ずしもマクラフリンのソロ・アルバムの文脈で聴くべきアルバムではないのかもしれませんが、ともあれ参加しているのは確かだし、三人揃っている時はセンターに陣取ってますから、まぁ、善しとしましょう(笑)。

 さて、このアルバム聴き物はなんといっても、冒頭に収録された「地中海の舞踏~広い河」ということになるでしょう。左チャンネルのデルシア、右チャンネルにディメオラを配したデュエットで演奏されている訳ですが、エキゾチックなスパニッシュ調の曲をふたりしてなぞりながら、ふたりがありったけのギターのテクニックを披露しつつ、絡み合い、せめぎ合い、かつ触発しあうといったインタープレイの応酬による壮絶な11分間な訳ですが、前半はディメオラ、中盤がデルシア、後半の壮絶なインタープレイの応酬はどこをとっても素晴らしいものですが、とりわけ終盤の3分間は筆舌に尽くしがたいエクサイティングさがあります。まさにジャズ史上の残る至福の11分間といえるでしょう。
 2曲目「黒い森」はマクラフリンとディメオラのデュオ。3曲目「フレボ」はマクラフリンとデルシアのデュオとなります。どちらも「地中海」ほどではありませんが、こちらもかなり高テンションです。お相手をするご両人共にマクラフリンが相手だと、一気にソリッドで硬質なムードになるのは、やはりマハビシュヌ発、シャクティ経由のゴリゴリ感をマクラフリン音楽に持ち込んでいるせいでしょうか。前者は比較的音楽的資質が似通っていたせいなのか、お互いの手の内を読み切った余裕のようなものがあり、随所に披露する遊びも以心伝心という感じ。後者はややリラックスしてますが、よくよく聴くとシタール対フラメンコみたいな異種格闘的テンションがあってこれもなかなか凄まじいものがあります。

 最後の2曲はいわゆるスーパー・ギター・トリオによる演奏です。「幻想組曲」はディメオラの作品でバラエティに富んだ小品を集めたトロピカルな作品で、後半の盛り上がりはさすがですが、三人のバトルというよりはかなり計算されたギター・アンサンブルという感じ。最後の「ガーディアン・エンジェル」はライブでなくスタジオ録音のようで、これは明らかにマクラフリンがシャクティの最後の頃のやったような、比較的リラックスした無国籍アコスティック・サウンドのスーパー・ギター・トリオ版といった趣でしょうか。
 という訳で、マクラフリンの盤歴からすると、ここでまたしてもアコスティック路線へ回帰という感じになるんですかね。なにしろこのメンツでもう一枚作ってしまう訳ですし....。ただ、この時期になってくると、そういう区切りもマクラフリンの中では、かつてほどはっきりと峻別しなくなってきているような感じもしないでもないです。
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JON LORD / Beyond The Note

2006年03月12日 13時02分00秒 | ROCK-POP
 ディープ・パープルを脱退したジョン・ロードが一昨年発表したソロ・アルバムです。なんだかんだといいつつジョン・ロードも60歳を超えた訳で、きっともうそろそろハード・ロック・バンドでツアーをするのもつらくなってディープ・パープルを抜けたんでしょうが(ひょっとしていつもバンド内抗争でクビ?)、もともとクラシック指向の強い、ノーブルな性格みたいですから、本当はもっと早く辞めたかったんでしょう、いやはやご苦労様でしたといいたい気分です。

 さて、このアルバムですが、ディープ・パープル流のハード・ロックとはほとんど無縁な音楽になっています。全編に渡って小規模なオケというか、室内楽風な弦がフィーチャーされていて、たまに思い出したようにロック・ビートがそれ風なフレーズが出てきたりもしますが、ほとんどクラシカルな趣に塗りつぶされていて、ヴォーカルが登場する曲では、半音階風に上り詰めていくように展開を多用して、サム・ブラウン(ヴィッキー・ブラウンの娘)のフィーチャーした「One From The Meadow」など、前作「Pictured Within」のタイトル曲同様、まるで後期ロマン派の歌曲を聴いているような気分になったりもします(その他フリーダやミラー・アンダーソンが参加した曲もあってどれも秀作です)。
 また、もう40年近くも前の出来事になってしまった最初期のクラシカル路線を思わせるオーケストレーションや旋律が随所に登場するのも懐かしく、アルバム冒頭やジョージ・ハリスンを追悼した作品らしい「A Smile When I Shook His Hand」などは「バンドとオーケストラのための協奏曲」の第2楽章で展開された黄昏っぽいムードそのものだし、「The Telemann Experiment」では「4月協奏曲」の木管オーケストレーションやダイナミズムを思い出させる部分が出てきたりして、「ロードさん、やっぱりあんたは忘れてなかったのね」とかいいたくなっちゃいました。

 という訳で、私みたいなロートルにはなんか初めて聴くのに妙に懐かしいアルバムなんですが、客観的に見ると音楽の核になる部分が今一歩伝わってこないというか、全般的にちょいと音楽が薄味過ぎて、「だから何かいいたい訳ぇ?」みたいなところは確かにありますよね。前述のようなヴォーカル曲をもっと増やしてもエレガントな歌曲アルバムみたいにすればいいと思うんだけど、だめか。
 ともあれ、パープルを辞めてしまった以上、これ以上この手を音楽でもって活動を続けていくとなると、この人、スコアも書けることだし、映画音楽みたいな分野に行かざるを得ないんじゃないんですね。 
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JANE MONHEIT In Concert (DVD)

2006年03月12日 00時07分20秒 | JAZZ
 昨年の5月にレビュウした「Takeing A Chance On Love」のライブ盤とでもいうべきDVDです。ただし、オリジナル・アルバムがオケなども入って、かなり豪華な仕上がりだったのに比べると、こちらは基本的にピアノ、ギター、ベース、ドラムというシンプルな編成をバックに歌っているの違いはあります。なお、このDVDのシューティングを前提に、大きめのスタジオもしくは小さなホールでの収録されたようで、カメラワークは痒いところに手が届く緻密なものです。

 オリジナル・アルバムでは、クリアでクセのないポップな歌声といい、豪華なアレンジといい、どちからかといえばポピュラー・ミュージック寄りな印象もありましたが、こちらはシンプルで即興性に優れた編成なせいか、歌の合間にギターやピアノなどのにも随時ソロ・スペースを設け、いかにも「クラブで酒を片手に聴いているジャズ」的なリラクゼーションと緊張感がほどよくバランスした音楽になっています。あえてアップテンポの曲を選曲せず、ミディアム・テンポばかりでゆったりと音楽をやっているのもいいです。
 それにしても、動いている彼女は初めてみましたが、もっと初々しい新人みたいなパフォーマンスをするのかと思っていたら、けっこう堂々たるものですね。いろいろなステージで、相当量歌い込んでいることが歴然とした風格があります。あと、なんだかんだといいつつ、やはり歌い手が女性だと華がありますから、こういう映像は観ていて楽しいです。ついでにかけば、スタジオ盤で見せた、あのカラフルでよくコントロールされた歌唱はこのライブで同様でこれもある意味驚き、ラストのジョビンの曲ではちょいとエラばりのスキャット・ヴォーカルも披露し、とにかく全編緩急自在に歌いまくってます。

 ちなみに、バックを固める4人も堅実そのもので、ダイアナ・クラールのバンドほどにはコクも味わいもないですが、まずは合格点でしょう....っていうか、こういうフォーマットでムーディーな4ビート曲やって、途中エレガントなギター・ソロだのピアノ・ソロだの出てきたりすると、大抵は降参してしまうタチなので(笑)、個人的にはたっぷりと楽しめました。なお「エンブレイサブル・ユー」はゲストのドリ・カイミのギターのみをバックに歌ってます。けっこうボサ・ノバ好きな人だったのね~>JM。 
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徐氏姐妹(シスターズ・オブ・シュー)/[イ占]領年輕

2006年03月11日 20時23分08秒 | 台湾のあれこれ
 私が初めて台湾に訪れた時、宿泊したホテルでなにげなくTVをみているとシャンプーだのお菓子だのCMに、いかにもアイドル然とした2人のかわいらしい女ノコが出まくっていた。しばらく見ているうちにこのデュオはSoSという名前で、どうやら台湾のトップアイドルらしいことが漠然と分かってきたのだけど、それを見て私は直感的に「これは台湾のWink」に違いないと確信した。なにしろ、当時の台湾のアイドルというのは、少年隊の台湾版で小虎隊とか、酒井法子のエピゴーネンみたいな蘇慧倫(当時はそうだったのだ)とか、ほとんど笑っちゃうくらいに日本のパクリみたいなものが多くて(日本だってそうだがー笑)、TVやショップで眺めているだけで楽しかったのだ。だから、当時既に盛りは過ぎていたとはいえ、まだまだ日本のトップスターだったWinkの台湾版も存在するに違いなく、それを彼女達と確信したのだった。

 翌日だったか、さっそく台北のとあるCDショップに赴き、メモ用紙に「SOS」と書いて店員さんに渡したところ、「ん、オマエが聴くの?」みたいな顔されたのには恐縮したが(笑)、かえってきた答えは、同じメモ用紙に書かれた「Soldout」というフレーズだった。続いて他のショップも数件回ってみたが、どこも同じ。よくわからないが、おそらくデビュウ直後で、大ブレイクした瞬間最大風速の時に、私は彼女たちのアルバムを買おうとしたらしい。結局、購入したのはその一年後くらいだったろうか。実際聴いてみると、Winkというより、もう少し低年齢層を対象としてそうなキャンディ・ポップで、台北のショップの店員が怪訝な顔をされたのもさもありなんと思ったが、収録された曲はどれもクウォリティが高く、プロダクションにも相当金をかけたことがわかるサウンドになっていているので、現在聴いてもけっこう楽しい(当時の台湾ではおそらく抜群に垢抜けた音だったと思われる)。ちょいと背伸びしてAOR風なムードで迫る数曲のバラード系の作品は、いかにも台湾らしい心に沁み入るような旋律をモダンなアンビエント・サウンド絡めてミックスされて個人的には愛聴しまくっていた作品だ。

 ちなみにSOSは当時アジア市場に進出していたポニーキャニオンから発売されていたが、1998年に同社がアジア市場から撤退してしまったことから、アルバムを出せない状態だったらしい。そうこうしているうちに台湾もニュー・ウェイブやテクノ・ブームで音楽地図もかわり、彼女たちも忘れ去られてしまったようだが、ちょいと調べてみたところ、お姉さんのバービィー・スーの方は、女優として日本でもかなり話題になった(らしい?)「流星花園」など出て、日本で写真集なども出ているらしいのでしぶとく芸能界にサバイバルしているといったところだろうが(っていうか、多分大スターなんだろうな)、SOS自体はどうなってしまったんだろうか。
 
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サンタナ/ムーンフラワー

2006年03月11日 18時57分54秒 | ROCK-POP
 「フェスティバル」に続く77年の作品。ライブとスタジオ録音による2枚組の大作ですが、構成的にはディスク毎に分けられているのではなく、新曲のスタジオ録音と新旧の代表作のライブ・パフォーマンスをちゃんぽんに構成しているのが、この作品にある種の華やかさとヴォリューム感を与えています。この時期のロック・バンドには、「ベストヒット的ライブを出すと次のスタジオで大胆に音が変わる」みたいな不文律があったような気がしますが、ひょっとするとこのアルバムにもそうした意図があったのかもしれません。

 ディスク1はもろにAOR風なリズムちょっとトロピカルな雰囲気をまぶしたインスト「曙光」からスタート。ほぼ完全にイージー・リスニングというか軟派なフュージョン風の曲調で、おやおやと思っているとクロスフェイドして現れるのが、前作の冒頭に収録された「カーニバル~子供達の戯れ~喝采」のライブ・ヴァージョン、スタジオよりかなり早いテンポで一気呵成に演奏していますが、意外にもスタジオに忠実な演奏で、「ロータス」での垂れ流しとも天衣無縫ともいえるノリに比べると、かなりコントロールされているようでもあり、サンタナの変貌を感じさせたりもします.....というか、77年ともなればロック・コンサートそのものが、「パッケージングされたショー」へと変貌していった時期にあたりますから、別にサンタナだけが変わった訳ではないのですし、ディスク2に入っている2曲は、かなり70年代前半のノリを再現してますから、まるっきり変わってしまった訳でもないですが....。

 ともあれ、続くスタジオ録音による「アイル・ピー・ウェイティング」は、もろに70年代後半のソフト&メロウの影響を感じさせるポップな作品、「ズールー」はディスコ風なリズムを取り入れたインスト、インターリュード風な「バーヒア」をブリッジに再びライブに戻って「ブラック・マジック・ウーマン」「ダンス・シスター・ダンス」「哀愁のヨーロッパ」では従来のサンタナ路線を披露、続くディスク2ではゾンビーズのアレンジである「シーズ・ノット・ゼア」に前作の「ボレロ」に続く哀愁路線第3弾の「ムーン・フラワー」でスタジオ録音が続くと、名曲「ソウル・サクリファイス」がライブで登場....という感じで、ほぼアルバム全体が、新旧サンタナが交互に現れていくという構成になっているようです。もう何度も書いているとおり、この時期のサンタナはトム・コスターが仕切っていたハズですが、スタジオであれ、ライブであれ従来のサンタナ路線をトム・コスター流に翻訳しつつ、アップトゥデートな要素を盛り込んでいくセンスは、まさに冴えまくっているという感じですかね。

 ところで、このアルバム、高校の頃、FMでエアチェックして約半数にあたる部分を随分繰り返した記憶がありますけど、例の「シーズ・ノット・ゼア」が入っていたこと以外、今回聞き直してみたところ、タイトル曲の「ムーン・フラワー」は良く覚えていたけれど、後はさっぱりでした。当時何を聴いていたんだろうか、けっこう聴きこんでいたようにも記憶してるんだけどな。うーむ、歳はとりたくないもんです(笑)。
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浜崎あゆみ/LOVEppears

2006年03月10日 23時40分22秒 | JAPANESE POP
 こちらは「白アユ」。1999年発表の第2作目のアルバムで、オリジナル・アルバムである1枚目にプラスして、リミックス集であるディスクが一枚ついたボリューム感たっぷりの仕上がりである。しかもこれの他にもシングルはもちろんのこと、昨日取り上げた「黒アユ」や「ayu-mi-x」なんてのも出していた訳だから、まさに怒濤のリリース攻勢であった。最近の倖田來未なんて、おそらくこの時にエイベックスが得た成功体験で、「あの夢よ再び」って感じでセールスを展開してるんだろうから、この時の浜崎を知っている人からすれば、どう展開するか既に見えているところがあって、ちょいと予定調和的な感があるのではないか。

 さて、アルバム本体だが、なんといっても前半部分の「向かうところ敵なし」といった風情の疾走感が圧倒的だ。唐突にハードコア・テクノ風サウンドで始まる「イントロダクション」。これにカットインして始まる2曲の「Fly high」ではユーロビート的な軽薄さとハード・コア・テクノの重厚さをごちゃませにしたコアなスピード感。3曲目の「Trauma」ではディスコ風なリズム、4曲目の「And Then」ではドイツっぽいミリタリー調のテクノ・リズムにフォーク・ロア風な曲調をまぶしたエクセントリックさ、5曲目の「immature」歌謡曲的旋律のとそれぞれフィーチャーしつつ続き、ダメ押し的なキャッチーなシングル路線の「Boys & Girls」を登場させた後、バラード風な「TO BE」と「End roll」で締めくくるという、約30分間に渡る流れは、そのなんでもあり的なごちゃまぜ感と今的な猥雑なポップ性、そして浜崎流の「いたみ」を随所に滲ませた歌詞とボーカルがあいまって、良きにつけ悪しきにつけ、リスナーをほとんど無条件に圧倒するような迫力がある(これに匹敵する「向かうところ敵なし」的疾走感といったら、森高千里の「古今東西」の前半部分くらいしかないのではないか?)。

 ちなみにアルバムの後半は名曲「appears」に代表されるように比較的重厚で、いってしまえばアーティスティックな曲が並んでいて、こちらもなかなかの充実度なのだが、やはり前半部分の疾走感には負けるのではないか。
 いずれにせよ、この後の浜崎はこのアルバムの前半で見せたような疾走感を超えるような音楽はつくっていないし、音楽的にはこのアルバムの後半で聴かれるような楽曲をメインにしていくことになるし、今のようなドスの効いた声でなく、まだ娘々した声でもって、なにげにリアルな日常性を感じさせた頃の浜崎のひとつのマイルストーンとしても、ひとつの貴重な記録である。
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