おてんとうさんのつぶやき & 月の光の思案 + 入道雲の笑み

〔特定〕行政書士/知的財産管理技能士/国家試験塾講師等が生業の巷の一介の素浪人の日常

やむにやまれず

2015-01-09 | ■ サマザマな おはなし

ほぼ 再掲ですが ある事情があり やむにやまれず 載せさせていただきました

 

 

人は 思うことは 完全な自由
内心にあるうちは どのような規格はずれなことを抱えようと
一切自由 
無政府主義を信奉しようと
婚姻制度を否定しようと
狂気から逃避するため自己を神格化しようと
だれしもが崇拝する思想家を再吟味しようと
一切自由

そうなのです 誰も 内心は覗けないし
内心の様子に 干渉することは不当なのです
内心が内心にとどまるうちは 完全自由
内心を どのような配色でまとめようとも 各々の選択次第
その色にくるまれながら なんとか生きながらえているのが
人類だ とも言えそう 

過去の 狂気の密室のようないくつかの歴史の舞台でも
幾多の命は
こうした内心だけにあった完全自由にすがりながら
生きながらえ得た とも言えるのでしょう
漆黒の闇の中世の一時期も
ナチスの時代も
ポルポトの時代も
今もどこかにある 強制収容所といわれる幾重の狂気に
ガンジガラメの密室内でさえ
人は 自らの内心の色で自己の心を暖めながら生き延びて
いた あるいは いるのかも・・・・



同年代で生を繋いできた方の最終ページが 自決という形
で示されたりすると 
内心を覗けないということの不都合さが どうにもやれきれ
なく思えるときがあります
一片でもいいから 内心を超えられなかったのか と
周りの だれかにでも 内心の色の変わり具合を 
ほのめかすことのできる出会いは皆無だったのかと



自殺者の増加は 驚くばかり
異常なことなのに そうしたことにも慣れてしまうという 
人間の異常なまでの順応性?にも 
それこそ 異常を感じます




紙一重の生
とにかく生きて などと 本当は軽々しくは言えない
だろう

やはり こう言える 
いや 言わねばならない

どう考えても 生 は神聖なものなのではないのか


理由付けは 実は私には説明できそうもない
でも コレだけは言える

人間 生きている というそれだけのことでも 尊敬させていただくに
値することではないのか


私の持論です
自己の人生上の経験から 自然に思い至った言葉です





特にこの数年 どうにも理解できない自決を聞かされつづけ
このような記事になりました
もっとも 理解ができる自決というのは稀有のことでしょうが

それにしても ほんものの明るさは
この世のどこに 閉じ込められているのでしょう

 

子供たちの瞳の笑み
これこそも 絶対に守るべきもの


“自殺って どういうことなの・・・”
こんな疑問 子たちには モチロン不必要
絶対に その意味なんぞ 詮索して欲しくない

 

私に 三人の オセロとチェスと将棋の相手がいます
高校生二人 中学生一人

元気に バンドをしたり ゲームをしたり 進路を考えたり・・・
じいちゃんの世界なんぞに目もくれず?に アクションしまくっています

 

 

 

しばらく生きながらえてきたものであろうと

生きながらえ始めてさほど時を経ていないものであろうと

世界中の巷で 自殺という言葉の意味なんぞ ヒッソリ
辞書でひいてほしくありません

自殺の意義なんぞ 問われたくもありません


 

どうしても つきとめたいなら 知りたいなら
ずっと ずっと ずっと ずっと あとで
ボンヤリとぐらいわかってくれれば いい
いっそ わかってほしくない

 

いまどうしても わからないと 生きていけないというのなら

どんな手段でもいいから その心を 誰かに ほんの少しでも

開けてみてほしい

おてんとうさんの光が ウッスラとでも心に降りかかるかもしれないから


 

もう一度 言わせてください

人間 生きている というそれだけのことでも 尊敬に値する

私の持論です

                                  

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