竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉雑記 色眼鏡 三四七 今週のみそひと歌を振り返る その一六七

2019年11月30日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 三四七 今週のみそひと歌を振り返る その一六七

 今週も防人の歌ですが、防人の歌は集歌4436の歌までですので、今週紹介したものでほぼ終わりです。
 特に今週の特徴的な防人歌は任期を終えて帰国する時の歌が取られていることです。最短で3年間の任期を終えての帰国です。

集歌4425 佐伎毛利尓 由久波多我世登 刀布比登乎 美流我登毛之佐 毛乃母比毛世受
訓読 防人(さきもり)に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨(とも)しさ物思ひもせず
私訳 防人に行くのは誰の夫ですかと問う人を見るのが羨ましい。何の物思いもしなくて。

集歌4426 阿米都之乃 可未尓奴佐於伎 伊波比都々 伊麻世和我世奈 阿礼乎之毛波婆
訓読 天地の神に幣(ぬさ)置き斎(いは)ひつついませ吾が背な吾をし思(しの)はば
私訳 天と地との神に幣を奉げ置き祈ります。無事にいて下さい。私の大切な貴方。私を思い出してください。

集歌4427 伊波乃伊毛呂 和乎之乃布良之 麻由須比尓 由須比之比毛乃 登久良久毛倍婆
訓読 家の妹ろ吾(わ)を偲ふらし真結ひに結ひし紐の解くらく思(も)へば
私訳 家に残るいとしいお前が私を懐かしんでいるようだ、しっかり結びに結んだ紐が解けるのを見ると。

集歌4428 和我世奈乎 都久志波夜利弖 宇都久之美 叡比波登加奈々 阿夜尓可毛祢牟
訓読 吾が背なを筑紫は遣りて愛(うつく)しみ帯(えひ)は解かななあやにかも寝む
私訳 私の大切な貴方を筑紫に旅立たせて、貴方が愛した帯は解きもしないで落ち着かない気持ちで寝るでしょう。

集歌4429 宇麻夜奈流 奈波多都古麻乃 於久流我弁 伊毛我伊比之乎 於岐弖可奈之毛
訓読 馬屋なる縄立つ駒の後(おく)るがへ妹が云ひしを置きて悲しも
私訳 「厩に居る手綱を切った馬が、どうして、そのままにいるでしょうか」と、いとしいお前が云ったのを、そのまま後に残してきたのが悲しい。

集歌4430 阿良之乎乃 伊乎佐太波佐美 牟可比多知 可奈流麻之都美 伊埿弖登阿我久流
試訓 荒し男(を)のい小矢(をさ)手挟み向ひ立ちかなる汝(まし)罪(つみ)出でてと吾が来る
試訳 荒々しい男の持つ矢を小脇に挟み防人の旅に向かい立ち、そのようなお前の責務と、私が出立して来た。
注意 原文の「可奈流麻之都美」は、標準解釈では「かなる間しづみ」と訓じますが、ここでは特別に訓じます。

集歌4431 佐左賀波乃 佐也久志毛用尓 奈々弁加流 去呂毛尓麻世流 古侶賀波太波毛
訓読 笹が葉のさやぐ霜夜に七重(ななへ)着る衣に増せる子ろが肌はも
私訳 笹の葉が風に騒ぐ霜置く夜に、たくさん着る衣にまして、いとしいお前のあたたかい肌だったようなあ。

集歌4432 佐弁奈弁奴 美許登尓阿礼婆 可奈之伊毛我 多麻久良波奈礼 阿夜尓可奈之毛
訓読 障(さ)へなへぬ命にあれば愛(かな)し妹が手枕(たまくら)離(はな)れあやに悲しも
私訳 拒否できない命令なので、いとしいお前の手枕を離れて、なんとも悲しいことです。
左注 右八首、昔年防人謌矣。主典刑部少録正七位上磐余伊美吉諸君、抄寫贈兵部少輔大伴宿祢家持
注訓 右の八首は、昔年(せきねん)の防人の謌なり。主典(さくわん)刑部(ぎやうぶの)少録(せうろく)正七位上磐余(いはれの)伊美吉(いみき)諸君(もろきみ)、抄寫(ぬきうつ)して兵部少輔大伴宿祢家持に贈れり。

 ここで理解しないといけないのは、この歌八首は防人としての赴任先で女を作り、家庭を持ったことが前提で、その九州で作った女との別れ歌なのです。
 つまり、男とはこういうものです。あっちで「お前が一番」と云い、こっちで「もう、忘れられない」などと云って、土地土地の女性と仲良くなります。
 逆に、防人が故郷を出立する時に詠った別れの歌を100%真に受けたらいけない可能性があります。それは、その場その場の定型の口説き文句なのかもしれません。当然、この別れ歌八首は屯田村で開かれた送別の宴会での儀礼的な歌でなければ、帰って行く防人と残される里の娘との夜の床での会話です。その防人の男は同じことを出発する里でもしていたのです。そのようなものとして、私たちは歌を鑑賞する必要があります。
 当然、防人の男はその場、その場で相手の女がとっても好きだったでしょう。それで誠意をもって付き合い、抱いたでしょうが、ただ、それはその時であって、今ではありません。今は九州の女に後ろ髪を引かれるのです。このような男の態度を関東の女が許すかは判りません。しかしもしこれが現代小説なら最初の別れの場面は偽りかと議論を呼ぶでしょう。

 一首単独で独立して歌を鑑賞するか、複数の歌を一つの塊りとして鑑賞するかでは、歌を詠う男の女への誠実と云うものの捉え方は大きく変わる可能性があります。同じ歌であっても、場合により180度正反対の捉え方が生まれる可能性があります。
 伊藤博氏が唱えた歌群の概念はここで示すように非常に重要です。本ブログは与太話と法螺話だけですが、可能性として、このような方向から鑑賞して見て下さい。
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