竹取翁と万葉集のお勉強

楽しく自由に万葉集を楽しんでいるブログです。
初めてのお人でも、それなりのお人でも、楽しめると思います。

万葉雑記 色眼鏡 百八四 今週のみそひと歌を振り返る その四

2016年10月01日 | 万葉集 雑記
万葉雑記 色眼鏡 百八四 今週のみそひと歌を振り返る その四

 今週、鑑賞しました歌は、話題性を持つものが相当数ありました。
 集歌93と集歌94との二首相聞歌では標題の「娉鏡王女時」と云う漢文章をどのように解釈するかで、歌の世界が実際の恋愛か、宴会での架空のものかと問題があります。また、集歌96から集歌100までの相聞歌では、古く、信州ゆかりの人々は信州の土地にからむ歌群としますし、そうでない人々は大和の宮廷での宴会で詠われた余興の相聞歌とします。その時、歌にはまったくに信州の風景は無いと云う立場です。さらに集歌101と集歌102との二首相聞歌もまた、歌が詠われた場の設定に話題があります。一般には標題の「娉巨勢郎女時」と云う漢文章から二人の実恋愛を想定しますが、漢字の本義からは歌は宮中などの宴会で詠われた余興の相聞歌であろうと判断されます。そして、集歌105と集歌106との二首組歌に大津皇子と大伯皇女との関係をどのように判断するか、集歌107と集歌108との二首相聞歌での「沾」と「沽」とでの原歌表記の正誤問題などがあります。実に話題性のある歌が集まった週となりました。
 弊ブログでは何度も何度も取り上げましたが、漢字「娉」は「聘」と云う文字の正式文字であって、「聘」は格の落ちる汎字です。聘問(へいもん)が「進物をたずさえて訪問すること・礼をつくすこと」と云う意味をしめすとしますと、娉問(へいもん)は「公式に贈り物を携えて表敬訪問をする・公の礼を尽くす」と云う一段上の礼儀と云うことになります。漢字本義からしますと、「娉」と云う文字に秘めやかな妻問ひと云う意味はまったくにありません。漢文章からすると、内大臣藤原卿と鏡王女との間で交わされた集歌93と集歌94との二首相聞歌、大伴宿祢安麻呂と巨勢郎女との間で交わされた集歌101と集歌102の二首相聞歌や、久米禅師と石川郎女との間で交わされた集歌96から集歌100までの問答歌にそれぞれ二人の恋愛を想定するより、宮中での身分と宴会での余興を見るべきなのです。まして、これら万葉集の相聞歌を根拠に婚姻や二人の間での御子などを想像するのはナンセンスです。このような背景がありますから、これらの歌の説明はこの程度に納めます。
 大津皇子と石川郎女との間で交わされた集歌107と集歌108との二首相聞歌で使われる漢字文字「沽」と、それでは意味が通じないとして校訂された「沾」について、弊ブログでは古本表記の「沽」であっても十分に歌意は得られるとしました。その時、歌中の「四付」や「四附」を「しふく」と訓じるか、「しずく」と訓じるかで歌意は大きく変わります。「しふく」と訓じれば、宮中の宴会歌であっても大津皇子は石川郎女に振られたことになりますし、「しずく」であれば石川郎女は大津皇子の誘いを受けたとなります。弊ブログでは、宴会で大津皇子は才女の石川郎女に軽くいなされたとする立場です。

 ここでは、弊ブログでもあまり取り上げていない、大津皇子と大伯皇女との間で交わされた集歌107と集歌108との二首組歌を眺めて見ます。

大津皇子竊下於伊勢神宮上来時、大伯皇女御作謌二首
標訓 大津皇子の竊(ひそ)かに伊勢の神宮に下りて上り来ましし時に、大伯皇女の御(かた)りて作(つく)らしし歌二首
集歌105 吾勢枯乎 倭邊遺登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之
訓読 吾が背子を大和へ遣るとさ夜更けに鷄(かけ)鳴(な)く露に吾(われ)立ちそ濡れし
私訳 私の愛しい貴方を大和へと見送ろうと思うと、二人の夜はいつしか深けてしまった、その鶏が鳴く早朝に去って往く貴方を見送る私は夜露にも立ち濡れてしまいました。

集歌106 二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武
訓読 二人行けど去き過ぎ難き秋山を如何にか君し独り越ゆらむ
私訳 二人で行っても思いが募って往き過ぎるのが難しい秋の二上山を、どのように貴方は私を置いて一人で越えて往くのでしょうか。

 この歌二首は、古く、物議があります。
 最初に確認しますが、大津皇子と大伯皇女とは実の姉弟の関係にあり、父親が天武天皇、母親が大田皇女です。そうした時、集歌105の歌での「吾勢枯」や「吾立所霑之」と云う表現から、時に人は大津皇子と大伯皇女と間に男女関係を疑います。集歌107と集歌108との二首組歌を眺める時、二人の間に男女関係があり、女が闇にまぎれて帰って行く恋人を見送る場面を詠うものとした方が相応しいと感想します。しかしながら、大和の風習では同母兄妹間での男女関係は公では忌諱事項であり、さらにまた大伯皇女は伊勢神宮の斎王と云う立場にあります。つまり、二重の忌諱から大津皇子と大伯皇女との間に恋愛があってはいけないのです。
 一方、万葉集時代の歌の約束からしますと男女の歌で「女性が朝露に濡れる」と宣言することは、女性には夜を共にする恋人がおり、その恋人と昨夜は床を共にしたと云うことを認めたことになります。つまり、肉体関係までに発展した男女関係があると云うことです。片思いや交際申し込みと云う段階ではありません。
 こうした時、先の鑑賞になりますが、大伯皇女が詠う歌があと四首あり、それが次のものです。大津皇子は天武天皇葬儀での服喪の最中、淫行と云う不謹慎行為から死刑になり、その重罪の連座と云う形で大伯皇女(大来皇女)は伊勢神宮斎王の職を解かれ、飛鳥へと戻されています。先の二首は斎王解任から帰京の場面で、後の二首は大津皇子の埋葬の場面を詠うものです。
 集歌166の歌の左注に示すように大津皇子は飛鳥磐余の皇子の屋敷で処刑され、後、葛城の二上山に埋葬されたとします。すると、当時としては大和川を使った水運でしょうから、歌の雰囲気が水運で遺体を搬送すると云う雰囲気に合わないのです。つまり、万葉集中に大伯皇女が詠う歌は都合、六首あり、それらすべてが大津皇子と死別を詠います。つまり、見様によっては歌六首すべてが挽歌なのです。しかし、歌の世界は姉弟愛と云うよりは、男女恋愛からの挽歌の様相を示します。

大津皇子薨之後、大来皇女従伊勢齊宮上京之時御作謌二首
標訓 大津皇子の薨(みまか)りしし後に、大来皇女の伊勢の齊宮より京(みやこ)に上(のぼ)りましし時に御(かた)りて作(つく)らしし謌二首
集歌163 神風之 伊勢能國尓毛 有益乎 奈何可来計武 君毛不有尓
訓読 神風(かむかぜ)し伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに
意訳 神風の吹く伊勢の国にもいればよかたものを、どうして都に帰って来たのだろう。貴方もいないことなのに。

集歌164 欲見 吾為君毛 不有尓 奈何可来計武 馬疲尓
訓読 見まく欲(ほ)り吾がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲(か)るるに
意訳 会いたいと思う貴方も、もういないことだのに、どうして帰って来たのだろう。徒らに馬が疲れるだけだのに。

移葬大津皇子屍於葛城二上山之時、大来皇女哀傷御作謌二首
標訓 大津皇子の屍(かばね)を葛城の二上山に移し葬(はふ)りし時に、大来皇女の哀(かな)しび傷(いた)みて御(かた)りて作(つく)らしし歌二首
集歌165 宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 汝背登吾将見
訓読 現世(うつせみ)の人にある吾(われ)や明日よりは二上山を汝背(なせ)と吾(あ)が見む
意訳 この世の人である私は、明日からは、二上山を弟として眺めることでしょうか。
試訳 もう二度と会えないならば、今を生きている私は明日からは毎日見ることが出来るあの二上山を愛しい大和に住む貴方と思って私は見ましょう。

集歌166 礒之於尓 生流馬酔木 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓
訓読 磯し上(へ)に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君し在りと言はなくに
意訳 岸の辺に生える馬酔木を手折りたいと思うが、見せてあげたい貴方がいるというのではないのだが。
試訳 貴方が住む大和から流れてくる大和川の岸の上に生える馬酔木の白い花を手折って見せたいと思う。以前のように見せる貴方はもうここにはいないのだけど。

右一首今案、不似移葬之歌。盖疑、従伊勢神宮還京之時、路上見花感傷哀咽作此歌乎。
注訓 右の一首は今(いま)案(かむが)ふるに、移し葬(はふ)れる歌に似ず。けだし疑はくは、伊勢の神宮(かむみや)より京(みやこ)に還りし時に、路の上(ほとり)に花を見て感傷(かんしょう)哀咽(あいえつ)してこの歌を作れるか。


 確かに歌は大津皇子への挽歌なのでしょう。ただし、歌の作歌者は大伯皇女ではないと思われます。弊ブログでは大伯皇女は実際には和歌を詠わない女性であって、万葉集中六首は万葉集編纂の過程で成った民間に在った歌謡を題材に他の人が「大伯皇女」に仮託した大津皇子への挽歌と想像します。それも大和に住む男と石川に住む女との恋愛を元にした民謡を元にしたため、途中途中で男女の肉体交渉を前提とした出合いが顔をのぞかせるのだと考えます。
 大津皇子は、本人自身の刑死に際し、時間的、また、政治的な制約から歌を残さなかったと考えられます。その大津皇子に挽歌が無いことを悼んで、後の人々が辞世の歌や挽歌を奉げたと推定します。そのため、ここでの大伯皇女の歌六首も正面から眺めると奇妙な状況にありますし、懐風藻に載る歌も時代性や大和と云う社会性からしますと奇妙なことになっています。懐風藻の歌や日本書紀の記事からしますと大津皇子は市中で処刑され、妃山辺皇女は裸足でその市中を走り、処刑されます。大和は朝鮮半島の風習とは違い、皇族など高貴な人の刑罰は自宅で行い、処刑も血を流さない絞殺が中心です。万葉集編纂者は懐風藻の歌や日本書紀の記事に呆れて、このような歌を万葉集に埋め込んだのかもしれません。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 前の記事へ | トップ | 次の記事へ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

万葉集 雑記」カテゴリの最新記事