万葉雑記 色眼鏡 百八七 今週のみそひと歌を振り返る その七
今週、鑑賞致しました歌は主に草壁皇子の舎人たちが詠った皇子に奉げた挽歌です。皇子は持統天皇三年(689)四月に亡くなられていますから、舎人たちの挽歌に「飼之鴈乃兒 栖立者」や「橘之 嶋宮尓者」と云う言葉に初夏の季節感が窺えます。
さて、草壁皇子の舎人たちが詠う挽歌が後年に創作され献歌されたものではなく、同時代性を持つとしますと、原歌表記には当時の作歌態度があることになります。ご存知のように万葉集歌の表現スタイルには漢詩体歌(略体歌)、非漢詩体歌(非略体歌)、常体歌、一字一音万葉仮名歌の四区分があります。この内、意識して一字一音万葉仮名歌スタイルで作歌活動が始まるのが天平元年ごろの筑紫歌壇活動であり、和歌三十一音が読み解ける常体歌スタイルは藤原京後半から前期平城京前期ごろとしますと、舎人たちが詠う挽歌は漢詩体歌スタイルや非漢詩体歌スタイルで歌を詠う時期に相当します。
例としますと、つぎのような歌です。
<漢詩体歌スタイル>
集歌172 嶋宮 上池有 放鳥 荒備勿行 君不座十方
訓読 嶋し宮上(うへ)し池なる放ち鳥荒びな行きそ君座(い)まずとも
私訳 嶋の宮よ、その辺の池にいる放ち鳥よ。もとの野生に帰って行くな。あの御方がいらっしゃらなくても。
注意 「十方」は「てにをは」となる文字です。
<非漢詩体歌スタイル>
集歌184 東乃 多藝能御門尓 雖伺侍 昨日毛今日毛 召言毛無
訓読 東(ひむがし)の多藝(たぎ)の御門(みかど)に伺侍(さもら)へど昨日(きのふ)も今日(けふ)も召す言(こと)も無し
私訳 東の多芸の御門に伺候しているが、昨日も今日もお召しの言葉が無い。
注意 多藝を地名としますと、「てにをは」となる文字は「乃、能、尓、毛」となります。
ただ、舎人たちが詠う挽歌が古風な漢詩体歌スタイルや非漢詩体歌スタイルだけかと云うとそうでもありません。次に示す歌を見て下さい。一字一音で歌を表すものでは成りませんが、漢語と一字一音の万葉仮名とを組み合わすことで、和歌の音である三十一音を示しています。
集歌190 真木柱 太心者 有之香杼 此吾心 鎮目金津毛
訓読 真木(まき)柱(はしら)太き心はありしかどこの吾が心(こころ)鎮(しづ)めかねつも
私訳 立派な木の柱のようなしっかりとした気持ちはあったのですが、この私の気持ちを鎮めることが出来ない。
集歌191 毛許呂裳遠 春冬片設而 幸之 宇陀乃大野者 所念武鴨
訓読 褻(け)ころもを春冬(とき)片(かた)設(ま)けに幸(い)でましし宇陀の大野はそ念(おも)ほえむかも
私訳 普段着の紐を解き、その狩りの時を定めなされた、その季節に御出座しになった宇陀の大野は、いつまでも思い出されるでしょう。
つまり、舎人たちが詠う挽歌から万葉集歌の表記スタイルを眺めますと、漢詩体歌スタイル、非漢詩体歌スタイル、常体歌スタイルが混在していたと思われます。するとそれは、和歌の表記スタイルが確立していない初期段階で、相違を持つ歌の表現スタイルとは作歌者が選択した好みのスタイルであった可能性があります。表現スタイルの進化の過程と云うよりも初期段階に混在した多様性と云うものだったようです。
今週、鑑賞致しました歌は主に草壁皇子の舎人たちが詠った皇子に奉げた挽歌です。皇子は持統天皇三年(689)四月に亡くなられていますから、舎人たちの挽歌に「飼之鴈乃兒 栖立者」や「橘之 嶋宮尓者」と云う言葉に初夏の季節感が窺えます。
さて、草壁皇子の舎人たちが詠う挽歌が後年に創作され献歌されたものではなく、同時代性を持つとしますと、原歌表記には当時の作歌態度があることになります。ご存知のように万葉集歌の表現スタイルには漢詩体歌(略体歌)、非漢詩体歌(非略体歌)、常体歌、一字一音万葉仮名歌の四区分があります。この内、意識して一字一音万葉仮名歌スタイルで作歌活動が始まるのが天平元年ごろの筑紫歌壇活動であり、和歌三十一音が読み解ける常体歌スタイルは藤原京後半から前期平城京前期ごろとしますと、舎人たちが詠う挽歌は漢詩体歌スタイルや非漢詩体歌スタイルで歌を詠う時期に相当します。
例としますと、つぎのような歌です。
<漢詩体歌スタイル>
集歌172 嶋宮 上池有 放鳥 荒備勿行 君不座十方
訓読 嶋し宮上(うへ)し池なる放ち鳥荒びな行きそ君座(い)まずとも
私訳 嶋の宮よ、その辺の池にいる放ち鳥よ。もとの野生に帰って行くな。あの御方がいらっしゃらなくても。
注意 「十方」は「てにをは」となる文字です。
<非漢詩体歌スタイル>
集歌184 東乃 多藝能御門尓 雖伺侍 昨日毛今日毛 召言毛無
訓読 東(ひむがし)の多藝(たぎ)の御門(みかど)に伺侍(さもら)へど昨日(きのふ)も今日(けふ)も召す言(こと)も無し
私訳 東の多芸の御門に伺候しているが、昨日も今日もお召しの言葉が無い。
注意 多藝を地名としますと、「てにをは」となる文字は「乃、能、尓、毛」となります。
ただ、舎人たちが詠う挽歌が古風な漢詩体歌スタイルや非漢詩体歌スタイルだけかと云うとそうでもありません。次に示す歌を見て下さい。一字一音で歌を表すものでは成りませんが、漢語と一字一音の万葉仮名とを組み合わすことで、和歌の音である三十一音を示しています。
集歌190 真木柱 太心者 有之香杼 此吾心 鎮目金津毛
訓読 真木(まき)柱(はしら)太き心はありしかどこの吾が心(こころ)鎮(しづ)めかねつも
私訳 立派な木の柱のようなしっかりとした気持ちはあったのですが、この私の気持ちを鎮めることが出来ない。
集歌191 毛許呂裳遠 春冬片設而 幸之 宇陀乃大野者 所念武鴨
訓読 褻(け)ころもを春冬(とき)片(かた)設(ま)けに幸(い)でましし宇陀の大野はそ念(おも)ほえむかも
私訳 普段着の紐を解き、その狩りの時を定めなされた、その季節に御出座しになった宇陀の大野は、いつまでも思い出されるでしょう。
つまり、舎人たちが詠う挽歌から万葉集歌の表記スタイルを眺めますと、漢詩体歌スタイル、非漢詩体歌スタイル、常体歌スタイルが混在していたと思われます。するとそれは、和歌の表記スタイルが確立していない初期段階で、相違を持つ歌の表現スタイルとは作歌者が選択した好みのスタイルであった可能性があります。表現スタイルの進化の過程と云うよりも初期段階に混在した多様性と云うものだったようです。
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