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墨子 巻十一 耕柱(原文・読み下し・現代語訳)

2022年09月18日 | 新解釈 墨子 現代語訳文付
墨子 巻十一 耕柱(原文・読み下し・現代語訳)
「諸氏百家 中国哲学書電子化計画」準拠

《耕柱》:原文
子墨子怒耕柱子、耕柱子曰、我毋兪於人乎。子墨子曰、我将上大行、駕驥與羊、子将誰敺。耕柱子曰、将敺驥也。子墨子曰、何故敺驥也。耕柱子曰、驥足以責。子墨子曰、我亦以子為足以責。
巫馬子謂子墨子曰、鬼神孰與聖人明智。子墨子曰、鬼神之明智於聖人、猶聰耳明目之與聾瞽也。昔者夏后開使蜚廉折金於山川、而陶鑄之於昆吾、是使翁難雉乙卜於白若之龜、曰、鼎成三足而方、不炊而自烹、不挙而自藏、不遷而自行、以祭於昆吾之虛、上郷。乙又言兆之由曰、饗矣。逢逢白雲、一南一北、一西一東、九鼎既成、遷於三國。夏后氏失之、殷人受之、殷人失之、周人受之。夏后、殷、周之相受也。數百歳矣。使聖人聚其良臣與其桀相而謀、豈能智數百歳之後哉。而鬼神智之。是故曰、鬼神之明智於聖人也、猶聰耳明目之與聾瞽也。
治徒娛、縣子碩問於子墨子曰、為義孰為大務。子墨子曰、譬若築牆然、能築者築、能實壤者實壤、能欣者欣、然後牆成也。為義猶是也。能談辯者談辯、能説書者説書、能従事者従事、然後義事成也。
巫馬子謂子墨子曰、子兼愛天下、未云利也、我不愛天下、未云賊也。功皆未至、子何獨自是而非我哉。子墨子曰、今有燎者於此、一人奉水将灌之、一人摻火将益之、功皆未至、子何貴於二人。巫馬子曰、我是彼奉水者之意、而非夫摻火者之意。子墨子曰、吾亦是吾意、而非子之意也。
子墨子游荊耕柱子於楚、二三子過之、食之三升、客之不厚。二三子復於子墨子曰、耕柱子處楚無益矣。二三子過之、食之三升、客之不厚。子墨子曰、未可智也。毋幾何而遺十金於子墨子、曰、後生不敢死、有十金於此、願夫子之用也。子墨子曰、果未可智也。
巫馬子謂子墨子曰、子之為義也、人不見而助、鬼不見而富、而子為之、有狂疾。子墨子曰、今使子有二臣於此、其一人者見子従事、不見子則不従事、其一人者見子亦従事、不見子亦従事、子誰貴於此二人。巫馬子曰、我貴其見我亦従事、不見我亦従事者。子墨子曰、然則、是子亦貴有狂疾也。
子夏子徒問於子墨子曰、君子有門乎。子墨子曰、君子無門。子夏之徒曰、狗豨猶有門、悪有士而無門矣。子墨子曰、傷矣哉。言則稱於湯文、行則譬於狗豨、傷矣哉。
巫馬子謂子墨子曰、舍今之人而誉先王、是誉槁骨也。譬若匠人然、智槁木也、而不智生木。子墨子曰、天下之所以生者、以先王之道教也。今誉先王、是誉天下之所以生也。可誉而不誉、非仁也。子墨子曰、和氏之璧、隋侯之珠、三棘六異、此諸侯之所謂良寶也。可以富國家、衆人民、治刑政、安社稷乎。曰不可。所謂貴良寶者、為其可以利也。而和氏之璧、隋侯之珠、三棘六異不可以利人、是非天下之良寶也。今用義為政於國家、人民必衆、刑政必治、社稷必安。所為貴良寶者、可以利民也、而義可以利人、故曰、義天下之良寶也。
葉公子高問政於仲尼曰、善為政者若之何。仲尼對曰、善為政者、遠者近之、而舊者新之。子墨子聞之曰、葉公子高未得其問也、仲尼亦未得其所以對也。葉公子高豈不知善為政者之遠者近也、而舊者新是哉。問所以為之若之何也。不以人之所不智告人、以所智告之、故葉公子高未得其問也、仲尼亦未得其所以對也。
子墨子謂魯陽文君曰、大國之攻小國、譬猶童子之為馬也。童子之為馬、足用而労。今大國之攻小國也、攻者農夫不得耕、婦人不得織、以守為事、攻人者、亦農夫不得耕、婦人不得織、以攻為事。故大國之攻小國也、譬猶童子之為馬也。
子墨子曰、言足以復行者、常之、不足以挙行者、勿常。不足以挙行而常之、是蕩口也。
子墨子使管黔敖游高石子於衛、衛君致禄甚厚、設之於卿。高石子三朝必盡言、而言無行者。去而之齊、見子墨子曰、衛君以夫子之故、致禄甚厚、設我於卿。石三朝必盡言、而言無行、是以去之也。衛君無乃以石為狂乎。子墨子曰、去之苟道、受狂何傷。古者周公旦非関叔、辭三公東處於商蓋、人皆謂之狂。後世稱其德、揚其名、至今不息。且翟聞之為義非避毀就誉、去之苟道、受狂何傷。高石子曰、石去之、焉敢不道也。昔者夫子有言曰、天下無道、仁士不處厚焉。今衛君無道、而貪其禄爵、則是我為苟啗人食也。子墨子説、而召子禽子曰、姑聴此乎。夫倍義而郷禄者、我常聞之矣。倍禄而郷義者、於高石子焉見之也。
子墨子曰、世俗之君子、貧而謂之富、則怒、無義而謂之有義、則喜。豈不悖哉。
公孟子曰、先人有則三而已矣。子墨子曰、孰先人而曰有則三而已矣。子未智人之先有。
後生有反子墨子而反者、我豈有罪哉。吾反後。子墨子曰、是猶三軍北、失後之人求賞也。
公孟子曰、君子不作、術而已。子墨子曰、不然、人之其不君子者、古之善者不誅、今也善者不作。其次不君子者、古之善者不遂、己有善則作之、欲善之自己出也。今誅而不作、是無所異於不好遂而作者矣。吾以為古之善者則誅之、今之善者則作之、欲善之益多也。
巫馬子謂子墨子曰、我與子異、我不能兼愛。我愛鄒人於越人、愛魯人於鄒人、愛我郷人於魯人、愛我家人於郷人、愛我親於我家人、愛我身於吾親、以為近我也。撃我則疾、撃彼則不疾於我、我何故疾者之不拂、而不疾者之拂。故有我有殺彼以我、無殺我以利。子墨子曰、子之義将匿邪、意将以告人乎。巫馬子曰、我何故匿我義。吾将以告人。子墨子曰、然則、一人説子、一人欲殺子以利己、十人説子、十人欲殺子以利己、天下説子、天下欲殺子以利己。一人不説子、一人欲殺子、以子為施不祥言者也、十人不説子、十人欲殺子、以子為施不祥言者也、天下不説子、天下欲殺子、以子為施不祥言者也。説子亦欲殺子、不説子亦欲殺子、是所謂経者口也、殺常之身者也。子墨子曰、子之言悪利也。若無所利而不言、是蕩口也。
子墨子謂魯陽文君曰、今有一人於此、羊牛犓豢、維人但割而和之、食之不可勝食也。見人之作餅、則還然竊之、曰、舍余食。不知日月安不足乎、其有竊疾乎。魯陽文君曰、有竊疾也。子墨子曰、楚四竟之田、曠蕪而不可勝辟、謼虛數千、不可勝、見宋、鄭之閒邑、則還然竊之、此與彼異乎。魯陽文君曰、是猶彼也、實有竊疾也。
子墨子曰、季孫紹與孟伯常治魯國之政、不能相信、而祝於叢社、曰、苟使我和。是猶弇其目、而祝於叢社曰、苟使我皆視。豈不繆哉。
子墨子謂駱滑氂曰、吾聞子好勇。駱滑氂曰、然、我聞其郷有勇士焉、吾必従而殺之。子墨子曰、天下莫不欲與其所好、度其所悪。今子聞其郷有勇士焉、必従而殺之、是非好勇也、是悪勇也。

字典を使用するときに注意すべき文字
怒、又奮也。 ふんきさせる、の意あり。
敺、古文驅字 かける、かりたてる、の意あり。
責、任也、求也。 まかせる、の意あり。
難、責也、猶求也。 とる、つかまえる、の意あり。
虚、大丘也、丘謂之虛 おか、の意あり。
饗、享也、祫祭也。 うける、転じて、てんしになる、の意あり。
云、旋也、又運也。 めぐらす、もとにもどす、の意あり。
以、又因也。又用也。 よりて、もちいて、の意あり。
誅、責也、猶求也。 もとむ、の意あり。
竊、又私也。 わたくしにする、の意あり。
次、處也、舍也。 ところ、の意あり。
門、聞也、聴也。 きく、さとる、の意あり。
説、論也、訓也。 さとす、の意あり。
従、逐也。 おう、おいはらう、の意あり。
欣、百姓欣而奉之、国可以固

《耕柱》:読み下し
子墨子は耕柱子を怒(しか)る。耕柱子の曰く、我(おのれ)は人において兪(すさ)ること毋(な)きか。子墨子の曰く、我(おのれ)は将に大行に上(のぼ)らむとす、驥(りょうば)と羊(ひつじ)とを駕(の)るに、子は将に誰かを敺(かりたて)るとするか。耕柱子の曰く、将に驥(りょうば)を敺(かりたて)るとするなり。子墨子の曰く、何の故(ゆえ)に驥を敺るとするや。耕柱子の曰く、驥は以って責(まか)せるに足る。子墨子の曰、我(われ)は亦(ま)た以って子(し)の足るを為すを以って責(まか)せむ。
巫馬子の子墨子に謂いて曰く、鬼神は聖人の明と智の孰(いず)れに與(お)けると。子墨子の曰く、鬼神の聖人に於いて明と智なるは、猶(なお)聰耳(そうじ)明目(めいもく)の聾瞽(ろうこ)に與(お)けるがごとし。昔は夏后開は蜚廉(ひれん)をして金を山川に於いて折(と)らしめ、而(ま)た陶に昆吾(こんご)に於いて之を鑄(い)らしめ、是(ここ)に翁をして雉を難(と)らしめ、乙(あ)の白若(はくじゃく)の龜に卜(ぼく)せむ、曰く、鼎(かなえ)は三足に成(し)て而(ま)た方(のり)、炊(かし)がずして而して自ら烹(に)え、挙げずして而(しかる)に自ら藏(おさま)り、遷(うつ)さずして而に自から行き、以って昆吾(こんご)の虚(おか)に祭る。上(ねが)はくは郷(う)けよと。乙(めばえ)にして又た兆(きざし)の由(よし)を言ひ、曰く、饗(う)けたり。逢逢(ほうほう)たる白雲、一(あ)るは南、一(あ)るは北、一(あ)るは西、一(あ)るは東、九鼎(きゅうてい)既に成り、三國に遷(うつ)る。夏后氏は之を失(うしな)ひ、殷人は之を受け、殷人は之を失ひ、周人は之を受け。夏后、殷、周は相受くるなり。數百歳なり。聖人をして其の良臣と其の桀相(けつしょう)とを聚(あつ)め而して謀(はか)らしむるも、豈(あに)能(よ)く數百歳の後を智(し)らむや。而して鬼神は之を智(し)る。是の故に曰く、鬼神は聖人より明と智なり、猶(なお)聰耳(そうじ)明目(めいもく)の之の聾瞽(ろうこ)に與(お)けるがごとしなり。
治徒娛と縣子碩は墨子において問いて曰く、義を為すに孰(いず)れかを大務と為すや。子墨子の曰く、譬(たとえ)へば牆(しょう)を築くが若(ごと)くの然(しか)り。能く築く者は築き、能く壤(つち)を實(みた)す者は壤(つち)を實(みた)し、能く欣(そ)する者は欣(そ)する。然る後に牆(しょう)は成るなり。義を為すも猶(なお)是(これ)なり。能く談辯(だんべん)する者は談辯し、能く書を説く者は書を説き、能(よ)く事に従う者は事に従ふ。然る後に義の事は成なり。
巫馬子が子墨子に謂いて曰く、子は天下を兼愛すれども、未だ利するを云(めぐら)せず。我は天下を愛せずも、未だ賊(そこな)うを云(めぐら)せず。功は皆未だ至(いた)らざるに、子は何ぞ獨(ひと)り自ら是(ぜ)とし而に我を非とするや。子墨子の曰く、今、此れに於いて燎(や)く者有り、一(あ)る人は水を奉じて将に之に灌(そそ)がむとし、一(あ)る人は火を摻(と)りて将に之を益さむとす、功は皆未だ至らず、子は二人に於いて何(いず)れを貴(とうと)ぶか。巫馬子の曰く、我は彼(か)の水を奉する者の意を是(ぜ)とし、而に夫(そ)の火を摻(と)る者の意を非とす。子墨子の曰く、吾も亦た吾が意を是とし、而に子の意を非とするなり。
子墨子の荊耕柱子を楚に游ばしめむ。二三子の之を過(す)ぐるに、之を食(く)はしむこと三升、之を客(きゃく)すること厚からず。二三子の子墨子に復(ふく)して曰く、耕柱子の楚に處(お)るは益無し。二三子は之を過(す)ぎ、之を食(く)らうこと三升、之を客すること厚からず。子墨子の曰く、未だ智(し)る可(べ)からずなり。幾何(いくばく)も毋(な)くして而に十金を子墨子に遺(おく)りて、曰く、後生敢て死せず、此に十金有り、願はくは夫子が用(もち)ひむことを。子墨子の曰く、果して未だ智(し)る可(べ)からざるなり。
巫馬子が子墨子に謂いて曰く、子は義を為すや、人は見ずて而に助け、鬼は見ずて而に富ます、而して子の之を為すは、狂疾(きょうしつ)は有るや。子墨子の曰く、今、子をして此に於いて二臣有らしめ、其の一人は子を見るに事に従い、子を見ざれば則ち事に従わず。其の一人は子を見亦(ま)た事に従ひ、子を見ずも亦(ま)た事に従う。子は此の二人に於いて誰か貴しや。巫馬子の曰く、我は其の我を見亦(ま)た事に従い、我を見ざるも亦(ま)た事に従う者を貴しとする。子墨子の曰く、然らば則ち、是は子も亦た狂疾(きょうしつ)は有るを貴ぶなり。
子夏子徒が子墨子に問いて曰く、君子に門(さとる)ことは有りや。子墨子の曰く、君子に門(さとる)ことは無し。子夏之徒の曰く、狗豨(くき)に猶(なお)門(き)くは有り、士有るを悪(にく)みて而(しかる)に門(き)くは無しや。子墨子の曰く、傷(いたま)しきかな。則ち湯と文に於いて稱(たと)へて言うに、行(こう)を則ち豨(き)に於いて譬(たと)えるは、傷(いたま)しきかな。
巫馬子が子墨子に謂いて曰く、今の人を舍(お)きて而(しかる)に先王を誉めるは、是は槁骨(こうこつ)を誉めるや。譬へば匠人(しょうじん)の然(しか)るが若(ごと)し。槁木(こうぼく)を智(し)り、而(しかる)に生木を智(し)らず。子墨子の曰く、天下の所に以(よ)りて生(い)くる者は、先王の道の教えを以(もち)ひるなり。今、先王を誉めるは、是は天下の所に以(よ)りて生(い)くるを誉めるなり。誉む可(べ)くして而に誉めずは、仁に非らずなり。
子墨子の曰く、和氏の璧、隋侯の珠、三棘(さんれき)六異(ろくよく)、此れ諸侯の謂う所の良寶(りょうほう)なり。以って國家を富ます可し、人民を衆(おほ)くし、刑政を治め、社稷を安(やす)むず。曰く不可なり。謂う所の良寶を貴ぶ者は、其の以(よう)を利する可(べ)べきを為すなり。而(しかる)に和氏の璧、隋侯の珠、三棘六異は以(もち)ひて人を利する可(べ)からず。是は天下の良寶に非ずなり。今(いま)、義を用い國家に於いて政(まつりごと)を為すは、人民は必ず衆(おほ)く、刑政は必ず治(おさ)まり、社稷は必ず安(やす)し。為す所の良寶を貴ぶは、以って民を利する可(べ)きなり、而(ま)た義は以って人を利する可(べ)し。故に曰く、義は天下の良寶なり。
葉公子高が政(まつりごと)を仲尼に問ひて曰く、善(よ)く政(まつりごと)を為す者は之は何の若(ごと)くか。仲尼の對(こた)へて曰く、善く政を為す者は、遠き者は之を近づけ、而(ま)た舊(ふる)き者は之を新たにす。子墨子が之を聞いて曰く、葉公子高は未だ其の問ふを得らずなり、仲尼も亦(ま)た未(いま)だ其の以って對ふる所を得ずなり。葉公子高は豈(あ)に善(よ)く政(まつりごと)を為す者は遠き者は近づけ、而(ま)た舊(ふる)き者は是を新たにすを知らざらむや。問う所の以って之を為すは之の何の若(ごと)くや。人の智(し)らざる所を以って人に告げず、智(し)る所を以って之を告ぐ。故に葉公子高は未だ其の問ふを得ずなり、仲尼も亦(ま)た未(いま)だ其の以って對ふる所を得ずなり。
子墨子が魯陽文君に謂いて曰く、大國の小國を攻めるは、譬へば猶(なお)童子が馬を為(つか)ふがごとし。童子が馬を為(つか)ふは、足を用(たす)けて而(しかる)に労(つかれ)る。今、大國が小國を攻めるや、攻めらるる者は農夫は耕(たがや)すを得ず、婦人は織るを得ず、守るを以って事と為す。人を攻める者は、亦(ま)た農夫は耕すを得ず、婦人は織るを得ず、攻めるを以って事と為す。故に大國が小國を攻めるは、譬へば猶(なお)童子の馬と為すがごとしなり。
子墨子の曰く、言(ことば)の足るを以って復た行(こう)する者は、常に之をし、足らずを以って行(こう)を挙ぐ者は、常にせず。足らずを以って行を挙げ而して常に之をするは、是(こ)れ蕩口(とうこう)なり。
子墨子が管黔敖をして高石子を衛に游ばせしむ。衛君の禄を致すこと甚しく厚く、これを卿に設(お)く。高石子は三たび朝(ちょう)して必ず言(ことば)を盡(つく)すも、而に行う者無しと言う。去りて而して齊に之(ゆ)き、子墨子に見(まみ)えて曰く、衛君の夫子の故を以って、禄を致すこと甚しく厚し、我を卿に設(お)く。石は三たび朝し必ず言を盡すも、而に行は無しと言う。是を以って之を去るなり。衛君の乃(すなわ)ち石を以って狂を為すこと無からむか。子墨子の曰く、之を去るは苟(いや)しくも道ならば、狂を受けるも何(なん)ぞ傷(いた)まむ。古に周公旦は関叔に非され、三公を辭(じ)して東の商蓋に處(よ)る、人は皆之を狂と謂う。後の世に其の德を稱し、其の名を揚げ、今に至るも息(や)まず。且(ま)た翟の之を聞き義を為すは毀(そしり)を避けるに非らず。誉(ほまれ)に就き、之を去るは苟(いや)しくも道して、狂を受けるも何ぞ傷(いた)まむ。高石子の曰く、石は之を去るに、焉(いずく)んぞ敢(あ)へて道にあらずや。昔は夫子の言うこと有りて曰く、天下に道無ければ、仁士は厚に處らずと。今、衛君に道無し、而に其の禄爵を貪(むさぼ)るは、則ち是は我(おのれ)は苟(いや)しくも人の食を啗(く)らうを為せりなり。子墨子は説(よろこ)びて、而して子禽子を召して曰く、姑(しばら)く此を聴け。夫(それ)義に倍(そむ)きて而に禄に郷(むか)う者、我(おのれ)は常に之を聞け。禄に倍(そむ)きて而して義に郷(むか)う者、高石子に之を見たりなり。
子墨子の曰く、世俗の君子、貧(ひん)にして而(しかる)に之を富むと謂うは、則ち怒る。義は無しにて而に之に義は有りと謂へば、則ち喜ぶ。豈(あ)に悖(もと)らずや。
公孟子の曰く、先人に則(のり)有り、三のみと。子墨子の曰く、孰(たれ)か先人にして而して則(のり)有り三のみと曰うや。子は未だ人の先有(せんゆう)を智(し)らず。
後生、子墨子に反(そむ)きて而に反(かへ)る者有り、我は豈(あに)罪有らむや。吾が反(かへ)ること後(おく)れたりと。子墨子の曰く、是は猶(なお)三軍の北(やぶ)れ、失後(しつご)の人が賞を求むるがごとしなり。
公孟子の曰く、君子は作(な)さず、術(のぶ)るのみ。子墨子の曰く、然らず。人の其の君子にあらざる者なるは、古の善者は誅(もと)めず、今の善者は作(な)さず。其の君子ならざる者の次(つぎ)は、古の善者は遂(もと)めず、己(おのれ)に善(ぜん)有(あ)らば則ち之を作(な)し、善の己より之を出づるを欲するなり。今、誅(もと)めずして而(しか)も作(な)さず。是は好まずして遂(もと)むに於いて異る所無しにして、而に作す者や。吾の以為(おもへ)らく、古の善者は則ち之を誅(もと)め、今の善者は則ち之を作(な)す。之の善の益(ますます)多なるを欲す。
巫馬子の子墨子に謂いて曰く、我と子は異なれり、我は兼愛するは能(あた)はず。我は越の人より鄒の人を愛しみ、鄒の人より魯の人を愛しみ、魯の人より我が郷(さと)の人を愛しみ、郷の人より我が家人を愛しみ、我が家人より我が親を愛しみ、吾が親より我身を愛しむ。以って我の近きに為すがなり。我を撃たば則ち疾(いた)く、彼を撃たば則ち我は疾(いた)からず、我は何(なん)ぞ故(ゆえ)に疾(いた)きは之を拂(はら)わず、而して疾(いた)からずは之を拂(はら)わんや。故に我に我を以って彼を殺すこと有ること有るも、利を以って我を殺すことは無し。子墨子の曰く、子の義は将に邪を匿(かく)さむとし、意は将に人に告ぐを以ってするか。巫馬子の曰く、我は何ぞ故に我が義を匿(かく)さむ。吾は将に人に告ぐを以ってす。子墨子の曰く、然らば則ち、一(あ)る人は子(し)を説(さと)すも、一(あ)る人は己(おのれ)の利を以って子を殺すを欲すと、十の人は子を説(さと)すも、十の人は己の利を以って子を殺すを欲すと、天下は子を説(さと)すも、天下は己の利を以って子を殺すを欲すと。一(あ)る人は子を説(さと)せずして、一(あ)る人は子を殺すを欲すと、子を以って不祥の言(ことば)を施(な)す者と為せばなり、十人は子を説(さと)せずして、十人は子を殺すを欲すと、子を以って不祥の言(ことば)を施す者と為せばなり、天下は子を説(さと)せずして、天下は子を殺すを欲すと、子を以って不祥の言(ことば)を施す者と為せばなり。子を説(さと)し亦(ま)た子を殺すを欲し、子を説(さと)せずも亦(ま)た子を殺すを欲す、是は経者(けいしゃ)の口の謂う所なり、常に之の身を殺す者なり。子墨子の曰く、子の言(ことば)は悪(いづく)むぞ利あらむ。若し利する所無ければ而に言ず、是は蕩口(とうこう)なり。
子墨子の魯陽文君に謂いて曰く、今、此に一人有り、羊牛(ようぎゅう)犓豢(すうかん)、維(こ)れ人の但割(たんかつ)にして而して之を和し、之を食(くら)ふも食(くら)ふに勝(た)ふ可(べ)からざるなり。人の餅を作るを見、則ち還然(かんぜん)として之を竊(ぬす)みて、曰く、余に食を舍(あた)へと。知らず日月の安(いずくん)ぞ足らざるや、其れ竊疾(せつしつ)は有るか。魯陽文君の曰く、竊疾(せつしつ)は有るなり。子墨子の曰く、楚の四竟の田、曠蕪(こうぶ)にして而して勝辟(しょうへき)可からず、謼虚(こきょ)數千、勝(た)ふ可からず、宋、鄭の閒邑(かんゆう)を見れば、則ち還然(かんぜん)として之を竊(ぬす)む。此(し)と彼(か)と異なるか。魯陽文君の曰く、是は猶(なお)彼なり、實に竊疾(せつしつ)は有るなり。
子墨子の曰く、季孫紹と孟伯常は魯國の政(まつりごと)を治めむも、相信ずるは能(あた)はず、而(しかる)に叢社(そうしゃ)に祝し、曰く、苟(いや)しくも我をして和せしめよ。是は猶(なお)其の目を弇(おお)ひて、而に叢社に祝ひして曰く、苟(いや)しくも我をして皆を視せしめよと。豈に繆(あやま)らずや。
子墨子の駱滑氂に謂いて曰く、吾は聞く子は勇を好むと。駱滑氂の曰く、然り、我は其の郷に勇士有りと聞けば、吾は必ず従(おいはら)ひて而(しかる)に之を殺す。子墨子の曰く、天下の其の好む所を與(よ)して、其の悪(にく)む所を度(すて)むを欲せざるは莫(な)し。今、子の其の郷に勇士の有るを聞けば、必ず従(おいはら)ひて而に之を殺す。是は勇を好むに非ずなり、是は勇を悪(にく)むなり。


《耕柱》:現代語訳
注意:孫詒譲は儒学者の立場で「墨子」という書籍を解釈し『墨子閒詁』を編んでいます。漢字は表語文字と云う特性を最大に活用して、孫詒譲は漢字一字を別な漢字に「校訂」することで、文章の意味を全くに変えることも行っています。このため、儒学者の立場からは『墨子閒詁』が好ましく、一般人には『原文墨子』が好ましいことになります。
また、この耕柱篇は短編語録を集めたものですので、それぞれ独立した短編語録として理解してください。

子墨子は耕柱子を奮起させた。耕柱子が言うことには、「私には、他の人に対して勝っている所は無いのでしょうか。」と。子墨子が言うことには、「私が、今から大行山に登ろうとしよう、その時、車を良馬が曳くのと羊が曳くのとで、どちらかの車に乗るとすると、お前はどちらの方に車を曳かせるだろうか。」と。耕柱子が言うことには、「まず、良馬に車を曳かせるでしょう。」と。子墨子が言うことには、「どのような理由で、良馬に車を曳かせようとするのか。」と。耕柱子が言うことには、「良馬は、良馬だからこそ車を曳かせるのに不足は有りません。」と。子墨子が言うことには、「私は、同じように、日ごろの行いを見て、貴方が物事を行うことに十分な者だと思って、ものごとの責を負わせるのです。」と。
巫馬子が子墨子に語って言うことには、「鬼神は聖人の明と智と比べて、どちらの方が優れているでしょうか。」と。子墨子が言うことには、「鬼神が聖人に対して明と智とが優れているのは、ちょうど、耳が良く聞こえ目がはっきり見える者と、耳が聞こえず目が見えない者との優劣を比べるようなものだ。」と。「昔、夏王朝の天子開は臣下の蜚廉に命じて、金属を山や川から採掘させ、また、陶に昆吾の地でこの金属を鋳造させ、また、このように鼎を準備して、翁に命じて雉を犠牲にし、白若に亀の甲羅で卜をさせ、言うことには、『鼎は三本の足に造り、それを法とし、火を炊かなくても独りでに煮え、持ち上げずとも独りでに据え付ける場所に納まり、持ち運び移さなくても独りで行くべきところに行き、これにより、昆吾の丘に祭る。願わくは、この鼎を受けよ。』と。これは、神威の芽生えと兆しの理由を語り、神が言うことには、『受けた。』と。むくむくと湧きあがる白雲、あるいは南、あるいは北、あるいは西、あるいは東を覆い、九州の鼎はこのように出来上がり、(神が言うことには、)『三国に遷り渡るであろう。』と。夏后氏は天下を失い、殷人は天下を受け、殷人は天下を失い、周人は天下を受けた。夏后、殷、周は、それぞれがこの鼎を受け継いだのである。それは数百年のことであった。聖人をしてその良臣やその傑出した宰相を集め、そして、統治を謀らせても、どうして、数百年の後の世のことを予測できようか。これに対して、鬼神はこの数百年の後の世のことを知っていた。このことにより言えることは、鬼神は聖人より明と智で優れているのだ。それは、耳が良く聞こえ目がはっきり見え者と、耳が聞こえず目が見えない者との優劣のようなものだ。」と。
治徒娛と縣子碩は墨子に対して質問して言うことには、「正義を行うとき、どのようなことを大務とすべきでしょうか」と。子墨子が言うことには、「例えて言うと、城の囲壁を築く作業のようなものがそれにあたるだろう。上手に囲壁の壁を築く技者は壁を築き、上手に土でその壁の中を満たす技者は土で壁の中を満たし、喜んで作業に奉仕する者は作業に奉仕する。このようにして障壁は出来上がる。正義を行うことも、これと似たようなものだ。正義について上手に談論や弁論が出来る者は談論や弁論で正義を説き、正義について上手に文章で説く者は文章で正義を説き、仕事に従事することに向いている者は仕事に従事する。このようにして事を行えば、後に正義の事は成功する。」と。
巫馬子が子墨子に語って言うことには、「貴方は天下に兼愛、互いの立場を尊重し互いに愛しむことを唱えるけれど、まだ、その唱える公利は現実化していません。儒者は天下の民を愛しまないが、しかし、民の生活を損ねるようなことはしていません。その兼愛の説の功績は、未だ、現れていないのに、貴方は、どうして、墨者だけが正しくて、儒者が正しくないとするのですか。」と。子墨子が言うことには、「今、ここに家に放火する者が居たとしよう、ある人は水を使って火に水を掛けようとし、ある人は火を使って、火が燃え上がるのを加勢しようとする。その火事の結果は、まだ、判っていないが、貴方はこの二人のどちらの方を正しいとするのか。」と。巫馬子が言うことには、「私は、その火事に水を掛ける者の考えを正しいと思い、火事に火を使って燃え上がるのに加勢する者の考えを非難する。」と。子墨子が言うことには、「私は、これと同じ考え方で、墨者の考えを正しいと考え、一方、儒者の考えを非難するのです。」と。
子墨子が荊国の耕柱子を楚国に仕官させた。二三人の弟子が楚国を通過するときに、耕柱子がこの二三人の弟子に食事を提供する内容は粗末で、この二三人の弟子を処遇することは手厚くはなかった。二三子の弟子が子墨子に帰って来て報告することには、「耕柱子が楚国に仕官することに、弟子にとって利益は無い。我々、二三人の弟子が楚国を通過するときに、之を過(す)ぎ、我々に提供する食事は粗末で、我々、弟子を処遇することは手厚くは無かった。」と。子墨子が言うことには、「まだ、判断するには早いだろう。」と。その後しばらくして、耕柱子が十金を子墨子に贈って言うことには、「この後も、師より先には夭折することはありませんが、ここに十金があります。どうか、師がお使いください。」と。子墨子が言うことには、「やはり、判断するには早いと言った通りであった。」と。
巫馬子が子墨子に語って言うことには、「貴方が正義を行うとき、人が見ていなくても他人を助け、鬼神が見ていなくても民を富ます。このようにして、貴方が正義を行う様子からすると、気が変になったのですか。」と。子墨子が言うことには、「今、貴方に、ここに二人の家臣がいたとしよう、その一人の者は貴方が見ていたら仕事に従事し、貴方が見ていなければ、まず、仕事に従事しない。もう一方のその一人の者は貴方が見ていれば仕事に従事し、貴方が見ていなくても仕事に従事する。さて、貴方はこの二人の者の、どちらの者を優良とするか。」と。巫馬子が言うことには、「私は、私が見ていれば仕事に従事し、見ていなくても仕事に従事する者を優良とします。」と。子墨子が言うことには、「そのように貴方が選ぶなら、それに従って、私も、また、貴方が言った、気が変になった方を、正しいとしましょう。」と。
(注意:孔子の狂簡は、志は大きいが実行が無い行為を指し、巫馬子の狂疾は、行為に対して何らかの報酬が無い行為を指します。)
子夏の弟子が子墨子に語って言うことには、「君子が、すべてのものごとを判り切ることはあるでしょうか。」と。子墨子が言うことには、「君子が、すべてのものごとを判り切ることはありません。」と。子夏の弟子が言うことには、「犬や豚でも指示を理解するものがいますが、士君子の身分を憎むからか、士君子に指示を理解するものがいないとはどういうことでしょうか。」と。子墨子が言うことには、「貴方は可哀そうな人だ。最初に、湯王や文王のような君子のことを話題として挙げているのに、具体的な例としては豚を例えとするとは。なんとまぁ、可哀そうな人だ。」と。
巫馬子が子墨子に語って言うことには、「今の時代の人を捨て置いて、それでも、先の時代の王を誉めることは、これは骸骨を誉めることではありませんか。例えば、大工のような人がそうです。切り倒され乾かされた材木への知識はありますが、生きた立木への知識はありません。」と。子墨子が言うことには、「天下にあって生活をしている者は、先の時代の王が定めた統治の方法の教えを用いています。今、先の時代の王の事績を誉めるのは、これは、天下にあって民が生活をして行けるから誉めているのです。誉めなければいけないことがらを誉めないのは、仁ではありません。」と。
子墨子が言うことには、「和氏の璧、隋侯の珠、三棘や六異などの宝物は、これは諸侯が語る良質な宝物です。ただ、この宝物により国家を富まし、民の人口を増やし、刑法や行政を適切に行い、先祖を祀る社稷を安心させることが出来るでしょうか。」と。言うことには、「出来ません。」と。「諸侯が語るこの良質な宝物として大切にするものは、その宝物の使い方により、それを利用すべきものです。ところ、和氏の璧、隋侯の珠、三棘や六異などの宝物は、その使い方が、民に公利を与えることへ使われていません。この状況ならば、天下の良質な宝物ではありません。今、正義を行うことを用いて国家に対して統治を行うならば、民の人口は必ず多くし、刑法や行政を適切に行い、先祖を祀る社稷は必ず安心させるべきです。諸侯が行うべき良質の宝物を大切にすることとは、それにより民に公利を与えるべきものですし、また、正義はそれにより人に公利を与えるべきものです。」と。このような訳で、言うことには、「正義は天下の良質な宝物なのです。」と。
楚国の大夫の葉公子高が統治のことを仲尼に質問して言うことには、「上手く統治を行うには、どのようにすればよいだろうか。」と。仲尼が答えて言うことには、「上手に統治を行うには、関係が遠い者は身近に置き、また、関係が縁遠い者は関係を新たに築く。」と。子墨子がこの話を聞いて言うことには、「葉公子高は、なんだか、その質問の仕方を知らないし、一方、仲尼も、なんだか、答えるものの要領を得ていない。」と。「仲尼は、葉公子高が、どうして、上手に統治を行う者が、関係が遠いものを身近に置くことや、また、縁が遠いものとの関係を新しく築くことなどの統治の方法を、知らないと思ったのだろうか。」と。「子高が質問したことがらは、統治を上手に行う方法を聞いたのである。(ところが、仲尼は、その人の質問に対して、)その人が知らないことがらに対して、その人に答えを与えず、その人が知っていることがらについて、答えとして与えている。だから、葉公子高は、なんだか、その質問の仕方を知らないし、仲尼もまた、なんだか、答えるものの要領を得ていない。」と。
子墨子が魯国の陽文君に語って言うことには、「大國が小國を攻めることは、例えて言えば、子供が馬に乗るようなものだ。子供が馬に乗れば、確かに足は楽になるが、全身は疲れ果てる。今、大國が小國を攻めることは、攻められる側の農夫は耕作が出来ず、婦人は機を織ることが出来ず、国を守ることをなによりの大事とする。攻める側の者も、また、農夫は耕作が出来ず、婦人は機を織ることが出来ず、敵を攻撃することを大事とする。このために、大國が小國を攻めることは、例えれば、ちょうど、子供が馬に乗るようなものだ。」と。
子墨子が言うことには、「提言の中身が十分だとして行動を起こす者は、それを行動の原則し、提言の中身が不十分なのに行動を起こす者は、それを行動の原則としてはいけない。提言の中身が不十分なのに行動を起こすことを行動の原則とするのは、これは、(その提言に結果が伴わない)空言である。」と。
子墨子が、管黔敖を通じて、高石子を衛国に仕官させた。衛国の国君が高石子に俸禄を授けることは非常に手厚く、高石子の身分を卿に置いた。高石子は、たびたび、朝議に参列して提言を行うも、しかしながら、(国君は、)「取り上げるようなものは、無い」。と言った。そこで、衛国を去って斉国に行き、子墨子に拝謁して言うことには、「衛国の国君は先生の縁により、私に俸禄を授けることは非常に手厚く、また、私の身分を卿に置きました。私、石は、たびたび、朝議に参列して提言を行いましたが、採用できる提言は無いと言われました。この理由で、私は衛国を去りました。衛君は、このことで、私、石は気が狂ったと思ったでしょうか。」と。子墨子が言うことには、「衛国を去ることが、ものの道理であるならば、たとえ、気が狂ったとの謗りを受けても、どうして、名に傷が付くことが有るだろうか。古に周公旦は関叔に非難され、三公の立場を辞任して、東の商蓋の地を頼り、人は、皆、三公の職を辞任した周公旦を気が狂ったと言った。後の世になって、その周公旦の徳を誉め、その名を上げ、今に至るまで、周公旦を誉めることは止まない。また、私、翟は、貴方のこの行いを聞き、正義を行うことは、謗りを避けるために行うのではないと思う。己の名誉にために選択し、衛国を去ることが道理であるならば、たとえ、気が狂ったとの謗りを受けても、どうして、名に傷が付くことがあろうか。」と。高石子が言うことには、「私、石が衛国を去ることに、どうして、道理に背いているでしょうか。」と。「昔、先生の語って言われたことがあって、『天下に道理が無ければ、仁なる士は厚遇に寄り掛からない。』と。今、衛国の国君に道理はありません。それなのに、その国君の俸禄と爵位を貪ることは、このことは、私が、人の食を食らうことを行うことになります。」と。子墨子は高石子の発言を喜び、そして、子禽子を召して言うことには、「ちょっと、このことを聞け。正義に背いて俸禄を得ることを求める者たち、お前たちは、常にこのことを聞け。俸禄に背を向けて正義に向かう者、それを、私、墨子は高石子に見た。」と。
子墨子が言うことには、「世俗の君子は、己の国が貧しいときに、この国は富んでいるというと、必ず、怒る。ところが、国に正義が行われていないのに、この国には正義があるというと、必ず、喜ぶ。変な話だねぇ。」と。
鄒公の孟子が言うことには、「先の時代の人に法があり、その法は三つだけだ。」と。子墨子が言うことには、「いったい、だれを先の時代の人として、そして、法があり、その法は三つだけだと言うのだろうか。(先の時代の人とは、誰のことかを言わないことには、)貴方は、まだ、人には、その前の人がいることを知らないのだろうね。」と。
後生、子墨子に逆らって、後に戻って来た者がおり、『私に、何か、罪が有るでしょうか。私は、返ってくるのが遅れただけです。』と。子墨子が言うことには、『これはまるで、軍が戦争で負け、その軍から敵前逃亡したものが参軍の褒賞を要求するようなものだ。』と。
鄒公の孟子が言うことには、「君子は善行を自ら行わず、論評するだけだ。」と。子墨子が言うことには、「まったく、そうでは無い。」と。「(貴方が知っている、)その人の、その君子に相応しくない者は、古の善きものを求めず、また、今の善きものも行わない。(貴方が知っている、)その君子に相応しくない者より、まだ、まともな者は、古の善きものは求めないが、自分自身に善なる心があれば、善行を為し、善行が自分自身から生まれることを願う者である。(貴方が言う君子は、)今に、善行を求めないし、善行を行うこともしない。さて、この問題は、善行を他人に行わすか、自ら行うかの、好みに関わらず、善行を求めることにおいては異なることがらでは無く、善行をどのように行うことがらのものである。私が考えるのに、古の善者は善行を為すことを求め、今の善者は善行を自分自身から為す。このことは善なる行いが、ますます、多くなることを願うからだ。」と。
巫馬子が子墨子に語って言うことには、「私と貴方とは弁論の立場が異なっていて、私は人が共に相手の立場を尊重して互いに愛しむことは出来ないと考える。私は越国の人より鄒国の人を愛しみ、鄒国の人より魯国の人を愛しみ、魯国の人より私の郷の人を愛しみ、郷の人より私の親族を愛しみ、私の親族より私の親を愛しみ、私の親より我身を愛しみます。理由は、私に近いからです。私を殴れば我が身は痛く、彼を殴れば我が身は痛くありません。私は、どうして、我が身に痛いことを払い除けないで、我が身に痛くもないことを払い除ける必要があるでしょうか。このような訳で、私は、私が彼を殺すことが有るとしても、利を理由として、私が私を殺すことはありません。」と。子墨子が言うことには、「貴方の正義とやらは、それを邪悪の中に隠そうとしていて、この意見を人に告げるおつもりか。」と。巫馬子が言うことには、「私は、どのような理由で、私の正義を邪悪の中に隠す必要があるのか。私は、この意見を人に告げたいと思う。」と。子墨子が言うことには、「それでは、ある人は貴方を諭そうとするが、ある人は自分自身の利益により貴方を殺そうと考え、十の人は貴方を諭そうとするが、十の人は自分自身の利益のために貴方を殺そうと考え、天下の人々は貴方を諭そうとするが、他の天下の人々は自分自身の利益により貴方を殺そうと考える。ある人は貴方を諭すことなく、ある人は貴方を殺すことを考え、貴方のことを不祥の言葉を流布する者だと思ったからであり、十人の者は貴方を諭すことなく、十人の者は貴方を殺すことを考え、貴方のことを不祥の言葉を流布する者だと思ったからであり、天下の人々は貴方を諭すことなく、天下の人々は貴方を殺すことを考え、貴方のことを不祥の言葉を流布する者だと思ったからである。貴方を諭し、また、貴方を殺すことを考え、貴方を諭すこともせず、また、貴方を殺すことを考え、これは、軽率な者の発言のことを言い、軽率な者の発言は常にその身を殺すものです。」と。子墨子が言うことには、「貴方の発言の、(自分が一番、可愛いとするその発言に、)どこに公利があるのですか。もし、公利の無い発言なら、人前で発言しないことです。それは単に空言です。」と。
子墨子が魯国の陽文君に語って言うことには、「今、ここにある人がおり、羊・牛・犬・豚、これは人が料理して、これらを組み合わせ、そして、これらを食らうに食らうも、食いきれぬほどである。その料理を食らいきれない人が餅を作るのを見て、びっくりして、この餅を盗み見て、言うことには、『私に、その餅をくれ。』と。(この男にとって、)一体、太陽と月、(どちらも一つだが、)どちらが不足しているのだろうか、それとも、何でも私にする癖があるのだろうか。」と。魯国の陽文君が言うことには、「多分、何でも私にする癖があるのだろう。」と。子墨子が言うことには、「楚国の四境には田や荒れ地は開拓が出来ないほどで、無人な邑は数千もあり、利用できないほどで、宋や鄭の無人の邑を見れば、きっと、びっくりして、この無人の地を私のものとするだろう。この土地のこととあの料理のこととで、どこか違いがあるだろうか。」と。魯国の陽文君が言うことには、「このことは、そういうことなのだろう。まったく、何でも私にする癖があるのだろう。」と。
子墨子が言うことには、「季孫紹と孟伯常は魯国の政治を治めていたが、互いに信用することが出来ず、それで、国の叢社で祈願して、言うことには、『お願いします、我々を和解させてほしい。』と。このことは、まるで、目を覆って、そして、国の叢社に祈願して、言うことには、『お願いします、私に、皆を、見させて欲しい。』と。まったく、この二人は、するべきことが間違っていないか。」と。
子墨子が駱滑氂に語って言うことには、「私は聞いた、貴方は勇者を好む。」と。駱滑氂が言うことには、「そうだ、私はその郷に勇士がいると聞くと、私は、必ず、そいつを追い払って、そして、そいつを殺す。」と。子墨子が言うことには、「天下の人は、その好むことがらを手助けし、その嫌うことがら取り除くことを願わない人はいません。今、貴方はその郷に勇士がいると聞くと、必ず、その勇士を追い払って、そして、殺す。このことは、勇士を好むのではなく、これは勇士を嫌っているのです。」と。

注意:
1.「徳」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。ここでは韓非子が示す「慶賞之謂德(慶賞、これを徳と謂う)」の定義の方です。つまり、「徳」は「上からの褒賞」であり、「公平な分配」のような意味をもつ言葉です。
2.「利」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。ここでは『易経』で示す「利者、義之和也」(利とは、義、この和なり)の定義のほうです。つまり、「利」は人それぞれが持つ正義の理解の統合調和であり、特定の個人ではなく、人々に満足があり、不満が無い状態です。
3.「仁」の解釈が唐代以降と前秦時代では大きく違います。『礼記禮運』に示す「仁者、義之本也」(仁とは、義、この本なり)の定義の方です。つまり、世の中を良くするために努力して行う行為を意味します。
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