竹取翁と万葉集のお勉強

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万葉集 沈痾自哀文

2020年09月02日 | 新訓 万葉集
沈痾自哀文 山上憶良作
標訓 沈痾(ちんあ)自哀(じあい)の文 山上憶良の作れる
注意 この作品には歌番号が与えられていません。
漢文 竊以、朝夕佃食山野者、猶無災害而得度世、(謂、常執弓箭、不避六齋、所値禽獸、不論大小、孕及不孕、並皆殺食、以此為業者也。) 晝夜釣漁河海者、尚有慶福而全經俗。(謂、漁夫、潛女、各有所勤、男者手把竹竿能釣波浪之上、女者腰帶鑿籠潛採深潭之底者也) 況乎、我從胎生迄于今日、自有修善之志、曾無作惡之心。(謂聞諸惡莫作、諸善奉行之教也) 所以、禮拜三寶、無日不勤、(每日誦經、發露懺悔也) 敬重百神、鮮夜有闕。(謂敬拜天地諸神等也) 嗟乎媿哉、我犯何罪、遭此重疾。(謂未知過去所造之罪、若是現前所犯之過。無犯罪過、何獲此病乎)
初沈痾已來、年月稍多。(謂經十餘年也) 是時七十有四、鬢髮斑白、筋力尩羸。不但年老、復加斯病。諺曰、痛瘡灌鹽,短材截端、此之。四支不動、百節皆疼、身體太重、猶負鈞石。(廿四銖為一兩、十六兩為一斤、卅斤為一鈞、四鈞為石、合一百廿斤也) 懸布欲立、如折翼之鳥、倚杖且歩、比跛足之驢。吾以身已穿俗、心亦累塵、欲知禍之所伏、崇之所隱、龜卜之門、巫祝之室、無不徃問。若實、若妄、隨其所教、奉幣帛、無不祈祷。然而彌有增苦、曾無減差。吾聞、前代多有良醫、救療蒼生病患。至若楡樹、扁鵲、華他、秦和、緩、葛稚川、陶隱居、張仲景等、皆是在世良醫、無不除愈也。(扁鵲、姓秦、字越人、勃海郡人也。割胸採心、易而置之、投以神藥、即寤如平也。華他、字元他、沛國譙人也。沈重者在内者、刳腸取病、縫復摩膏四五日差定) 追望件醫、非敢所及。若逢聖醫神藥者、仰願、割刳五藏、抄採百病、尋逹膏肓之隩處、(盲鬲也、心下為膏。攻之不可、逹之不及、藥不至焉) 欲顯二豎之逃匿。(謂、晉景公疾、秦醫、緩視而還者、可謂為鬼所殺也) 命根盡、終其天下、尚為哀。(聖人賢者、一切含靈、誰免此道乎) 何況、生録未半、為鬼狂殺、顏色壯年、為病横困者乎。在世大患、孰甚于此。(志恠記云、廣平前大守、北海徐玄方之女、年十八歳而死。其靈謂馮馬子曰、案我生録、當壽八十餘歳。今為妖鬼所狂殺、已經四年。此遇馮馬子、乃得更活、是也。内教云、瞻浮州人壽百二十歳。謹案、此數非必不得過此。故、壽延經云、有比丘、名曰難逹。臨命終時、詣佛請壽、則延十八年。但善為者天地相畢。其壽夭者業報所招、隨其脩短而為半也。未盈斯笇而、遄死去。故曰未半也。任徴君曰、病從口入。故、君子節其飲食。由斯言之、人遇疾病、不必妖鬼。夫、医方諸家之廣說、飲食禁忌之厚訓、知易行難之鈍情、三者、盈目滿耳由來久矣。抱朴子曰、人但、不知其當死之日故不憂耳。若誠知則劓可得延期者、必將為之。以此而觀、乃知、我病盖斯飲食所招而、不能自治者乎也) 
帛公略説曰、伏思自勵、以斯長生。々可貪也。死可畏也。天地之大德曰生。故死人不及生鼠。雖為王侯一日絶氣、積金如山、誰為富哉。威勢如海、誰為貴哉。遊仙窟曰、九泉下人、一錢不直。孔子曰、受之於天、不可變易者形也。受之於命、不可請益者也。(見鬼谷先生相人書) 故、知、生之極貴、命之至重。欲言々窮。何以言之。欲慮々絶。何由慮之。惟以、人無賢愚、世無古今、咸悉嗟歎。歳月競流、晝夜不息。(曾子曰、徃而不反者年也。宣尼臨川之歎亦是矣也) 老疾相催、朝夕侵動。一代權樂未盡席前、(魏文惜時賢詩曰、未盡西苑夜、劇作北望塵也) 千年愁苦更繼坐後。(古詩云、人生不滿百、何懷千年憂美) 若夫群生品類、莫不皆以有盡之身、並求無窮之命。所以、道人方士自負丹經、入於名山而合藥之者、養性怡神、以求長生。抱朴子曰、神農云、百病不愈、安得長生。帛公又曰、生好物也、死惡物也。若不幸而不得長生者、猶以生涯無病患者、為福大哉。今吾為病見惱、不得臥坐。向東向西莫知所為。無福至甚、惣集于我。人願天從。如有實者、仰願、頓除此病、賴得如平。
以鼠為喩、豈不愧乎。(已見上也)
訓読 竊(ひそか)に以(おもひみ)るに、朝夕に山野に佃食(でんしょく)する者すら、猶(なほ)災害無く世を度るを得(え)、(常に弓箭(ゆみや)を執り六齋を避けず、値(あ)ふ所の禽獸、大きなると小しきと、孕(はら)めると孕まぬとを論(い)はず、並に皆殺し食ひ、此を以ちて業とする者を謂ふ。) 晝夜に河海に釣漁する者すら、尚ほ慶福ありて俗を經るを全(まった)くす。(漁夫、潛女、各(おのおの)勤むる所あり、男は手に竹竿を把りて能く波浪の上に釣り、女は腰に鑿(のみ)籠(こ)を帶びて深潭(ふち)の底に潛き採る者を謂ふ) 況(いは)むや、我胎生(たいせい)より今日に至るまでに、みづかた修善の志あり、曾て作惡(さくあ)の心無し。(諸惡莫作(まくさ)、諸善奉行(ぶぎょう)の教(をしへ)を聞くを謂ふ) 所以、三寶を禮拜(れいはい)して、日として勤めざる無く、(日毎に誦經(ずきょう)し、發露(はつろ)懺悔(ざんげ)するなり) 百神を敬重(けいちょう)して、夜として闕(か)きたるは鮮(な)し。(天地の諸神等を敬拜することを謂ふ) 嗟乎(ああ)、媿(はづか)しきかも、我何の罪を犯して、此の重き疾(やまひ)に遭へる。(いまだ、過去に造る所の罪か、若しは現前に犯す所の過(あやまち)なるかを知らず。罪過(ざいか)を犯すこと無くは何そ此の病を獲(え)むを謂ふ)
初め痾(やまい)に沈みしより已來(このかた)、年月稍(やや)に多し。(十餘年を經るを謂ふ) 是の時に七十有四にして、鬢髮(びんぱつ)斑白(しらか)け、筋力尩羸(つか)れ。ただに年の老いたるのみにあらず、復(また)、かの病を加ふ。諺に曰はく「痛き瘡(きず)に鹽(しお)を灌(そそ)き,短き材(き)の端を截(き)る」といふは、此を謂(いふ)なり。四支動かず、百節皆疼(いた)み、身體(しんたい)太(はなは)だ重く、猶ほ鈞石(きんせき)を負(お)へるが如し。(廿四銖(しゅ)を一兩とし、十六兩を一斤とし、卅斤を一鈞(きん)とし、四鈞を石(しゃく)とし、合せて一百廿斤なり) 布に懸(かか)りて立たむと欲(す)れば、翼折れたる鳥の如く、杖に倚(よ)りて歩まむとすれば、足跛(ひ)ける驢(うさぎうま)の比し。吾、身已(すで)に俗(よ)を穿(うが)ち、心も亦塵に累(わづら)ふを以ちて、禍の伏す所、祟(たた)りの隱るる所を知らむと欲(ほ)りして、龜卜(きぼく)の門と巫祝(ぶしゅく)の室とを徃きて問はざる無し。若しは實(まこと)、若しは妄(いつはり)、其の教ふる所に隨ひ、幣帛(ぬさ)を獻じ奉り、祈祷(いの)らざる無し。然れども彌(いよ)よ苦(くるしみ)を增す有り、曾て減差(い)ゆる無し。
吾聞かく、「前の代に多く良き醫(くすし)有りて、蒼(あお)生(ひとくさ)の病患(やまひ)を救療(いや)しき。楡樹(ゆじゅ)、扁鵲(へんじゃく)、華他(かわた)、秦の和(わ)、緩(くわん)、葛稚川(かつちせん)、陶隱居(たうおんこ)、張仲景(ちやうちけい)等の若(ごと)きに至りては、皆(みな)是(これ)世に在りし良き醫(くすし)にして、除愈(いや)さざる無し」といへり。(扁鵲、姓は秦、字は越人、勃海郡の人なり。胸を割(さ)き、心を採りて、易(あらた)めて置き、投(い)るるに神藥を以ちてすれば、即ち寤(さ)めて平(つね)なる如し。華他、字は元、沛國(はいこく)の譙(せう)の人なり。若し重みは内に在るあるならば、腸(はら)を刳(き)り病を取り、縫ひて復(また)膏(かう)を摩(す)る。四五日にして差(い)ゆ) 件(くだり)の醫(くすし)を追ひ望むとも、敢へて及(し)く所に非らじ。若し聖医神藥に逢はば、仰ぎ願はくは、五藏を割刳(かつこ)し、百病を抄採(せうさい)し、膏肓(かうくわう)の隩處(おくか)に尋ね逹り、(盲は鬲(かく)なり、心の下を膏とす。攻むれども可(よ)からず、逹(はり)も及はず、藥も至らず) 二豎(にしゅ)の逃れ匿(かく)るるを顯(あらは)さまく欲(ほり)す。(晉の景公疾(や)めり、秦の医、緩(くわん)視(み)て還りしは、鬼のために殺さゆと謂ふべきを謂ふ) 命根(いのち)盡き、其の天下を終るは、尚ほ哀(かな)しと為す。(聖人賢者、一切の含靈(がんりやう)、誰か此の道を免れむ) 何(なに)そ況むや、生録(せいろく)いまだ半ならずして、鬼の為に狂(きまま)に殺さえ、顏色壯年にして、病の為に横(よこしま)に困(たしな)めゆる者をや。世に在る大患の、いづれか此より甚(はなはだ)しからむ。(志恠(しくわい)記(き)に云はく「廣平の前(さき)の大守、北海の徐(じょ)玄方(げんほう)が女(むすめ)、年十八歳にして死る。其の靈の馮(ひょう)馬子(まし)に謂ひて曰はく『我が生録を案(かむが)ふるに、當に壽(とし)八十餘歳ならむ。今妖鬼の為に枉(よこしま)に殺さえて、已に四年を經たり』といへり。この馮馬子に遇ひて、乃(すなは)ち更に活(い)くる得たり」といへるは是なり。内教に云はく「瞻浮(せんふ)州(しゅう)の人は壽(とし)百二十歳なり」といへる。謹みて案ふるに、此の數(かず)必(うつたへ)に此を過ぐるを得ぬにはあらず。故(かれ)、壽(じゅ)延經(えんきゃう)に云はく「比丘(びく)あり、名を難逹(なんたつ)と曰ふ。命終る時に臨みて、佛に詣でて壽(とし)を請(こ)ひ、則ち十八年を延べたり」といへる。但、善く為(をさ)むる者(ひと)は天地と相畢(そ)ふ。其の壽夭(じゅえう)は業報(ごうほう)の招く所にあいて、其の脩(なが)き短きに隨ひて半(なかば)と為るなり。いまだこの算に盈(み)たずして、遄(すみ)やかに死去る。故(かれ)、半ならずと曰ふなり。
任(じん)徴君(ちょうくん)曰はく「病は口より入る。故、君子は其の飲食を節(ただ)す」といへり。斯(これ)に由りて言はば、人の疾病(やまひ)に遇へるは、必(うつたへ)に妖鬼ならず。夫(それ)、医方諸家の廣き說と、飲食禁忌の厚き訓(をしへ)と、知り易く行ひ難き鈍(おそ)き情(こころ)との、三つの者は、目に盈(み)ち耳に滿つこと由來(もとより)久し。抱(ほう)朴子(ぼくし)に曰はく「人はただ、其の當に死なむ日を知らぬ故に憂へぬのみ。若(も)し誠に則鼿(けつぎ)して期(ご)を延ぶるを得べきを知らば、必ず將(まさ)に之を為さむ」といへり。此を以ちて觀れば、乃(すなは)ち知りぬ、我が病は盖しこれ飲食の招く所にして、みづらか治むる能はぬものか、と)
帛公(はくこう)略説(りゃくせつ)に曰はく「伏して思ひみづから励むに、かの長生を以(も)ちてす。生を貪(むさぼ)る可(べ)し。死は畏(お)づべし」といへり。天地の大德を生と曰ふ。故(かれ)、死にたる人は生ける鼠に及(し)かず。王侯なりと雖も一日氣(いき)を絶たば、金を積むの山の如くなりとも、誰か富めりと為さむか。威勢(いきほひ)の海の如くなりとも、誰か貴しと為さむ哉。遊仙窟に曰はく「九泉の下の人は、一錢にだに直(あたひ)せじ」といへり。孔子の曰はく「天に受けて、變(へん)易(やく)すべからぬ者は形なり。命(めい)に受けて、請益(しょうやく)すべからぬものなり」とのたまへり。(鬼谷(きこく)先生の相人(そうにん)書(しょ)に見えたり) 故(かれ)、知る、生の極めて貴く、命の至りて重きを。言はむと欲(ほ)りて言(こと)窮(きわ)まる。何を以ちてかこれを言はむ。慮(おもひはか)らむた欲(ほ)りして慮(おもひはか)り絶(た)ゆ。何に由りてか之を慮らむ。
惟以(おもひみ)れば、人の賢愚と無く、世の古今と無く、咸悉(ことごと)に嗟歎(なげ)く。歳月競ひ流れて、晝夜に息(や)まず。(曾子曰はく「徃きて反らぬは年なり」といへり。宣尼(せんぢ)の川に臨む歎きもまた是なり) 老疾相催(うなが)して、朝夕に侵(をか)し動(きは)ふ。一代の權樂は未だ席の前に盡きぬに、(魏文の時賢(じけん)を惜しめる詩に曰はく「未だ西苑の夜を盡さぬに、劇(にはか)に北邙(ほくぼう)の塵(ちり)と作(な)る」といへり。) 千年の愁(しゅう)苦(く)は更(また)座の後に繼ぐ。(古詩に云はく「人生は百に滿たす、何そ千年の憂美を懷(むだ)かむ」といへり。) 若し夫れ群生(ぐんせい)品類(ひんるゐ)は、皆盡(かぎり)有る身を以ちて、並(とも)に窮(きはまり)無き命を求めざる莫(な)し。所以(かれ)、道人(どうじん)方士(ほうし)の自(みづか)ら丹經(たんきょう)を負ひ、名山に入りてこの藥を合するは、性を養ひ神(こころ)を怡(やはら)げて、以ちて長生を求むるなり。抱朴子に曰はく「神農(しんのう)云はく『百病愈(い)えず、安(いか)にそ長生を得む』といふ」といへり。帛公又曰はく「生は好(よ)き物なり、死は惡(あし)しき物なり」といへり。若し幸(さきはひ)なく長生を得ぬは、猶(な)ほ生涯病患(やまひ)無きを以ちて、福(さきはひ)大きなりと為(せ)むか。今吾病の為に惱まされ、臥坐(ぐわざ)するを得ず。向東向西(かにかくに)に為す所を知らず。福(さきはひ)無きことの至りて甚しき、すべて我に集まる。「人願へば天從ふ」といへり。如(も)し實(まこと)あらば、仰ぎ願はくは、頓(にはか)に此の病を除き、賴(さきはひ)に平(つね)の如くなるを得む。
鼠を以ちて喩(たとへ)と為すは、豈(あに)愧(は)ぢざらめや。(已に上に見えたり)
私訳 ひとり考えてみると、朝夕に山野で狩猟をして生活の糧を得る者ですら、殺生の罪をうけることなく生活することが出来(常々に弓矢を手にして六斎日もつとめず、見かけた鳥獣は大小を問わず、腹に子をやどしていようがなかろうと悉く殺して食べ、これを生業としている者を意味する)、昼夜に河や海に魚を釣る者すら、なお幸せに世を暮らしている(漁師も海女もそれぞれ仕事にはげんでいる。男は手に竹竿を持ち浪の上で魚を採り、女は腰に鑿や籠を着けて深海に潜っては貝や海藻を採る存在を意味する)。まして、私は生れてから今日にいたるまで、進んで善を修める志を持ち、未だ一度も罪を犯すような心を持っていない(諸悪を為さず、諸善を尊ぶ教えに従うことを意味する)。そこで、仏の三宝である仏・法・僧を尊び、一日も欠かさず勤行を行ひ(日々に誦経し、犯した罪を表し悔いあらためることを意味する)、多くの神を尊重して、一夜として礼拝を欠いたことはない(天地の諸神等を敬拝することを意味する)。なんと、恥ずかしいことでしょう。私が何の罪を犯して、このような重い疾病になったのでしょうか(未だ、過去に犯した罪のためか、もしくは、今、罪を犯しつつあるものによるものかは判らない。しかし、罪を犯さないのに、どうしてこんな疾病になるのかを意味する)。
初めて重病にかかってから、もう年月も久しい(十余年もたっていること)。今年七十四歳で、頭髪はすでに白きをまじえ、体力は衰えている。この老齢に加えて、この病がある。諺に「痛い傷の上にさらに塩をつける。短い木の端をまた切る」というが、このことである。手足は動かず関節はすべて痛み、身体は大変重くて鈞石の重さを背負っているようである(二十四銖が一両、十六両が一斤、三十斤が一鈞、四鈞を石とする。合わせて百二十斤となる)。布を頼って起き立とうとすると翼の折れた鳥のように倒れ、杖にすがって歩こうとすると足なえの驢馬のようである。私は、身は十分に世俗に染み、心もまた俗塵に汚れているので、過ちの原因、祟りの潜んでいる所を知ろうと思って、亀卜の占い師や神意を聞くものの門を叩いてまわった。彼らのいうところは、時として本当であり、時として虚妄だったけれども、その教えのままに神に幣帛をささげ、祈りをささげつくした。しかし、いよいよ苦しみを増すことはあっても、一向に癒えることはなかった。
私が聞くことに、「先の代には多くの名医がいて、人々の病気を癒した。楡樹・扁鵲・華他、秦時代の和・緩・葛稚川・陶隱居。張仲景らに到っては、これ皆、良医として世にあったもので、病気はすべて癒した」という(扁鵲、姓を秦、字を越人といい勃海郡の人である。胸を開切して心臓を取り出し、再び置き直し、投薬をするときに神藥を用いると、患者は眠りから覚めると、平常の状態になった。華他は、字を元といい沛國の譙の地の人である。もし、病の主因が体内にあるなら、腹部を開切してその病気を取り出して、また縫い合わせて膏薬をぬった。四五日すると治ったという)。これらの名医を今から望んだとしても、到底、不可能であろう。しかし、もし名医や霊薬にめぐり逢うことができるなら、どうか内臓をきり開いてもろもろの病気を採り出し、膏や肓の奥深いところまでたずね当て(肓とは横隔膜で、心臓の下を膏という。これは治そうにも治し得ない。針治療も出来ず、薬も効かない)、病を引き起こすと云う二児の逃げ隠れているところを発見したい(晋の景公が病気になったことがあった。秦の医師の緩が診察しての帰り、公は鬼のために殺されるだろうと云った。このことを云う)。寿命は尽きて、天寿を終えることは、なお哀しいことだ(聖人も賢者も、一切の有魂の生き物も、誰ひとり死の道を免れることはない)。まして、生きるべき齢の半ばにも到らず鬼のために不当にも殺された者や、まだ容姿も盛んな壮年にして病気に時ならず苦しめられる者の、何と悲しいことよ。世間にあることの患いの内で、これより大きな苦しみに何があろう。(「志恠記」に云うには「広平県の前の大守、北海の徐玄方の娘が十八歳で死んだ。その娘の霊が馮馬子という男の夢に現れて『私の生きるべき年数を見ると八十余歳のはずである。ところが今怪しい鬼のために気ままに殺されて、もう四年も経っている』といった。結局、この馮馬子に遭ったことによって、娘は生き帰ることができた」と云うのはこのことである。仏典で釈迦の云われるには「瞻浮州の人の寿命は百二十歳である」と云う。謹んで考えてみると、この百二十歳の数は、必ずしもこれ以上生きられないというわけではない。そこで、仏典の「壽延經」には「一人の比丘がいて、その名を難逹といった。臨終の時になって仏を拝んで寿命を乞うたところ、十八年生き延びた」と云っている。ただ、善く身を修める者は天地とともに寿命を終えるもので、その長寿か否かは業の報いのもたらす所であって、業報による生の長短によって半分にもなってしまうのである。定められた年数にみたずして早々と死んでしまうものである。だから、半ばにもならぬという。
任徴君のいうことには「病気は口より入って来る。そこで、君子はその飲食を節制する」という。これによって云うと、人の疾病に罹るのは、必ずしも妖鬼によるものではない。そもそも、医師諸氏のすぐれた説と、飲食を節制するという立派な教えと、それを知っていて行い難い人間の俗情とを、三つとも見聞きすることはいうまでもなくひさしい。「抱朴子」の書に云うには「人はただ、その本当に死ぬべき日を知らないために悲しまないだけである。もし、本当に足を斬り、鼻をそぐ刑罰を受けることで死期を延ばすことができると知ったら、必ずきっとこの刑罰を受けるであろう」という。これをもって考えると、判る。私の病気は必ずや飲食の招いたのもで、自分からはどうしようもないものだ、と)
帛公略説に云うには「つつしんで考え、自らつとめると、あの長寿をうることができる。生は貪欲に求めるがよい。死は恐れるべきである」という。この天地の間の大きな徳を生というのだ。だから死者は生きている鼠にも及ばない。王侯といえども一日息の根をたったら、金を積むこと山のごとくあろうとも、もはや富裕とはいえない。海のごとく広く威勢を振るおうとも、もはや誰も貴いとは考えない。「遊仙窟」にいうことには「黄泉の下にある人は一銭の値打ちもない」と云う。孔子のいわれることには「天から授かって変えることの出来ないものは形であり、天命によって定められ、乞い求めることの出来ないものである」という(鬼谷先生の相人書に、このことは見えている)。そこで、わかる。生が極めて貴く、命の至って重いことが。ああ、云おうにも言葉がない。何をもってこの気持ちを云おう。思いを巡らそうにも、思いもつづかない。何によってこの理を考えよう。
考えてみれば、人間は賢者愚者を問わず、また、昔から今に至るまで、すべて嘆きを繰り返して来た。年月は生と争うかのように流れ、昼夜はとどまるところがない。(曾子のいうには「往きて戻らぬものは年である」という。孔子が川上にあって嘆いたのも、またこのことである)。老と病とが、誘いあうかのように、朝夕にわが身を侵して競いあっている。一生の楽しみは私の宴会の席前に尽くしきれないのに、(魏の文帝の「時賢を惜しめる詩」にいうことには、「まだ西苑の夜の歓楽も尽くさぬに、はや北邙に葬られて塵となる」と云う)、年長い愁い苦しみは、もうわが背後にせまっている(古詩にいうには「人生は百歳に満たないのに、どうして永久の憂いや美麗の物事を思い患おう」と云う)。一体、生きとし生ける者はすべて有限の身をもって、みな無限の命を求める。そこで神仙の道人方士で、自ら仙薬の書物をたずさえて名山に入り、この仙薬を調合する者は、体をととのえ精神を安らかにして、よって長寿を求めるのである。「抱朴子」にいうには「神農がいうには『多くの病気が癒えずして、どうして長生きが出来よう』という」という。帛公がまた云うには「生はりっぱなもので、死は悪いものだ」という。もし、不幸にして、長寿を得られないなら、やはり一生病気に患わされることのないことをもって、大きな幸とすべきであろうか。今、私は病のために悩まされ、寝起きも思うようでない。どのようにも、なす術を知らない。不幸の最たるものが、すべて私に集まっている。世に「人が願うと天が応ずる」という。これがもし真実なら、どうか伏して願うことには、すみやかにこの病気を除き、平生のように幸せであってほしい。
鼠をもって喩えなどしたことは、恥ずかしいことであった。(上に述べたとおりである)。

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